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2009年12月12日 (土)

「シネマの手帖」~別冊「暮らしの手帖」

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 別冊「暮らしの手帖」で、「シネマの手帖」が刊行された。DVDとして発売されている昭和の名画編として250本の映画リストが紹介されている。1954年(昭和29年)~1984年(昭和64年)までの邦画・洋画作品を眺めていると、私自身が映画館やテレビで観た印象深い作品も並んでいた。

 「映画を観るのは好きですか?」「いつ頃から映画が好きになったのですか?なぜですか?」と、若かりし頃には聞かれたこともあったが、この30年近く、日常生活の中で他人からそのような質問を聞かれたことがない。

そのようなことを聞かれれば、第一の問いには間違いなく「好きです!」と答える。第二の問いには、「小学生高学年頃から。現実とは別の時間と空間と物語を体験できるから。」と答えるだろう。

 映画を見るきっかけは、私の実家である祖母が営んでいた路地裏の駄菓子屋の店前に、近くの商店街の映画館ポスターが貼ってあった。その貼り代として祖母は「無料入場券」をもらい溜め込んでいた。集団就職で地方からやってきて近所の鉄工所で働いているお兄ちゃんたちへ、また駄菓子のおまけとして路地裏の子どもたちへ配っていた。

 祖母は私に、「新橋通へ映画でも見てきたら?」と近所の仲間たちの分の無料入場券をくれた。3~4人でお菓子を手に持ち、徒歩10分の「新橋劇場」「二葉館」へとよく出かけたものだ。場末の映画館であるため東宝系と東映系の映画が、繁華街より一足も二足も送れて二本立て三本立てで上映されていた。 

 東映系の「チャンバラ映画」、東宝系の「駅前シリーズ」「社長シリーズ」「若大将シリーズ」「怪獣映画」などをよく観たものだ。今から考えると少なくとも月一回以上は映画館へ行ったような気がする。祖母と無料入場券の絶大なる力があったからこそだった。

 小学校では「映画会」があった。学校の講堂にスクリーンを貼り、近くの映画館の映写技師が、いや、おっちゃんがやって来てフィルムを回し映画が上映された。「運動会」と同等に「映画会」が学校行事だった。たまに、講堂ではなく学校から徒歩5分の「新橋劇場」へと「映画会」に出かけたこともあった。

 私の小中学校時代は、私にとってテレビという代物が絶大なる力を発揮しようとしていた。小学校高学年からテレビを通して洋画が映し出されていた。ちょうど夕刻頃に「名画座」という映画番組が上映されていた。私が初めて観た洋画はテレビを通してであった。

 遊び終わった後に、路地裏のわが家の小さなテレビで、「禁じられた遊び」「鉄道員」「ローマの休日」「山河遥かなり」という今でも印象深い作品を見たのが記憶に残っている。「新橋劇場」「二葉館」で上映されている邦画作品に興味が薄れだした。

 高校時代は映画館へ出かける機会がめっきり減った。映画館へ出かけたのは数度だろうか。初めて女の子と二人で映画を観たのは、梅田・北野劇場でのキャサリン・ヘッバーン主演の「冬のライオン」だった。題名だけは覚えているが内容はまるっきり覚えていない。「ロミオとジュリエット」「ある愛の詩」なども見た記憶がある。

 祖母の無料入場券の力の範囲が届かなくなったのだ。繁華街は遠かった。映画を見るのにお金が必要だが、私にはそれがなかったのだろう。それでも、テレビの「日曜洋画劇場」で映し出される作品をよく観た。淀川長治さんの解説を聞くのを楽しみにテレビに釘付けになっていた。

 祖母の無料入場券にはじまった「映画」なのか「シネマ」なのか「キネマ」なのかわからないが、バイトをして資金を調達することができる大学時代はよく映画館へ通った。ちょうど邦画低迷期でありながらも、その頃は「ATG(日本アートシアターギルド)作品」が強烈な印象を私に印象づけた。

 社会人になってからは映画館へ出向く頻度は極端に減った。それでも年に何回は足を運び続けている。祖母の無料入場券が意図はなかったとしても私に「映画」の世界の楽しさを伝えてくれたことは間違いない。「シネマの手帖」のページを繰りながら、路地裏の駄菓子屋に貼ってあった映画ポスターを前に、祖母が「この映画見てくるか?」と、私と一緒にポスターを眺めた光景を思い出す。

P.S. あの頃、「新橋劇場」で上映された「駅前シリーズ」「社長シリーズ」が大好きだった。

2009年11月 1日 (日)

CD「阿弥陀堂だより」を聴きながら

Img  11/1(日)早朝に、加古 隆のピアノソロアルバム「阿弥陀堂だより」を聴いていた。このアルバムは映画「阿弥陀堂だより」のオリジナル・サウンドトラックだ。このCDは映画館で買ったと記憶している。

 「風のワルツ」をプロローグにして、「そっと君を」「村の朝」~「冬祭り」「春もどりぬ」、そして「風のワルツ」でのエピローグで結ばれる。ソロピアノの音色は、風のにおいを運んできて、爽やかな気分になる。

 ソロピアノを聴きながら、以前に観た映画「阿弥陀堂だより」に映し出されたのどかで安らぎを与えてくれる奥信濃の風景が脳裏に浮かんできた。

 「風のワルツ」を聴きながら、本棚にあるであろう「阿弥陀堂だより」の映画のプログラムを突然に捜し始めた。しかしながら、確かにあるはずなのに、いくら捜しても見つからなかった。やむなく、Webサイトで検索して映画の公式サイトがまだ残っているかと調べると、確かにあった。そのWebサイトを見ながら、奥信濃の飯山へ思いを馳せていた。

「映画・阿弥陀堂だより」公式サイト

2009年9月12日 (土)

Cinema 「九月に降る風」を観て

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 9/12
(土)午前中、実家の関係の所用で大阪・なんばに出かけた。所用が終わって後に、「心斎橋シネマテーク」で「九月に降る風」という台湾映画を見て自宅へ心地よく帰還した。

 
なぜ?「九月に降る風」という映画を観たのか? 9/11(金)日本経済新聞朝刊の「アートレビユー」の記事でその映画が紹介されていた。「九月」「風」という言葉にまず惹かれた。

 美術家・森村泰昌さんの映画評を読んだ。
「これは
96年の台湾ではなく、私がまだ10代だった60年代の日本の物語ではないか。そんなふうに思えてくる映画なのである。」
「ここに描かれた青春は三島由紀夫の小説“潮騒”を思わせる神話的な美しさに満ちている。」
「“九月に降る風”は青春の光と影、あるいは青春の美とその終わりが描かれた映画であるが・・・・・・
未成熟であるがゆえの美と成熟していくがゆえの美の終わりについての映画である。」としるされていた。

 その紹介の一文に惹かれ観たいと思い、事前に上映時間を確認して今日の午後、「心斎橋シネマテーク」へと出かけた。観客は10名余りだった。年齢層に隔たりがあり、性別は男女が同じ割合だった。

 まさに「青春の終わりの心の痛み」が描かれた「青春物語」であった。輝かしい時は、郷愁を誘う甘酸っぱい雰囲気から一転して儚い消え去ってゆく。自分自身の青春がスクリーンを観ながらオーバーラップした。郷愁と切なさに胸がキュンと締めつけられるような気持ちになった。

 夜、無断で学校のプールに忍び込み素っ裸で飛び込み、はしゃぎ泳ぐシーンがあった。それは私の高校時代に仲間たちといっしょになって素っ裸で夜のプールで泳いだ情景を思い出させた。心地よさ、爽快さ、開放感をその時感じたことを遠い昔でありながら昨日のような感覚として蘇ってきた。

 1996年の台湾での青春群像であるが、確かに、森村泰昌さんが映画評でしるされたように、この映画に、1960年代後半から1970年代前半のわが国の時代の匂いを私もまた感じた。

 この映画の原題は「九降風」、旧暦の九月に吹く季節風のことを指すという。台湾では卒業・入学の季節、それは別れと旅立ちの節目となる。甘い心地よい風から冷たく厳しい風を受ける新たなリスタート、甘酸っぱい青春への決別、この映画は青春を過ぎ去った者たちが観るべきものだろうか。少なくとも私にとっては素敵な映画だった。

 エンドクレジットで「我期待」という曲が流れその歌詞が字幕に映し出された。
「さよならを言おう さよならを言おう 胸を張って進もう 心残りを振り払って」

「九月に降る風」公式サイト

2009年7月11日 (土)

Cinema 「浪漫者たち」を観て

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 7/11(土)朝、大阪市内へ所要のため出かけた。その所要を済ませて、午後、大阪市西区・九条にある「シネ・ヌーヴォ」で、映画「浪漫者たち」を観た。

 私は、「シネ・ヌーヴォ」という映画館が大好きだ。こじんまりとして芝居小屋のような雰囲気がある。商業的映画館では取り上げられない価値ある作品を数多く上映し続けている稀有な映画館だ。

 「浪漫者たち」という映画を観たいと思ったのは、ポスターに掲載されていた「青春紀行」「三輪山」「ゲーテ」「大和」「日本浪漫派」という言葉だった。特に「日本浪漫派」という言葉は、少数の人々しか知らない。それが、なぜ今?という素朴な疑問が、よりいっそう興味を抱かせた。

 日本的なものに憧れを抱く、俳優である一人の若者が「やまと」「三輪」を旅して、昭和初期の文学運動「日本浪漫派」、大和・桜井で生まれ育った文学者・保田與重郎(やすだ よじゅろう)を知り、最後に、くじけない「浪漫者たち」の魂を独白する。「浪漫者」は、「青春のさまよい人」なのだろう。

 三輪山、大神神社、桧原神社、狭井神社など、やまとまほろばの風景が、映像として、たおやかに美しく描かれている。日本的象徴として、「能」「謡曲」「茶道」が作品の中にちりばめられている。 「日頃使わない“まほろば”という言葉が頭に浮かび、自分が日本人であることを内面から認識させられる。これがわれわれの原風景なのだと。」と、かつて著名な文部官僚であった寺脇 研 氏(京都造形芸大教授・映画評論家)が、映画のプログラムの中に記していた。

 文学者・保田與重郎は、戦前・戦中の言動に対して、戦後、「国粋主義者」「戦争の賛美者」と位置づけられ封印された。戦後のその評価がほんとうに正当なものであるのだろうか? この映画の中では、保田與重郎は肯定的にとらえている。

 「三輪山の懐を母の胎内として育った私は、その霊気と保田與重郎氏の言霊の妖気とが渦巻く潮の中で、・・・・・・ 張り裂けそうな青春であった。今、このような映画が生まれたのには驚いた!多くの示唆に富む映画だ。」と奈良・桜井で育った舞踏集団「大駱駝艦」を主宰する麿赤児(舞踏家・俳優)は一文を寄せている。作家・三島由紀夫を追慕した田中千世子監督の渾身の共感を抱く作品だった。

「浪漫者たち」公式サイト

「大和桜井フィルムコミッション」公式サイト

「シネ・ヌーヴォ」公式サイ

「大駱駝艦」公式サイト

2009年7月 9日 (木)

「原爆症の妻を撮り続けて」を読んで

 7/8(水)日本経済新聞朝刊文化面に掲載されていた「原爆症の妻を撮り続けて」を読んだ。執筆者は川本昭人さんだ。妻が原爆症を宣告されて後、41年間、その姿を映し続けている。その作品が、映画「妻の貌(かお)」としてまとまられ上映される。

 「ささやかな幸せに包まれ、私たちは人生を歩んできた。だが時折、静かに流れる日々の暮らしに黒い影が差す。妻は原爆症だから。」 その一文の言葉は重い。41年間、8ミリビデオ、ビデオ等で映し出そうとした想いとはいかなるものだろうか? 

 私は 幾日か前、映画「妻の貌(かお)」が上映されることをプログに掲載した。
 「家族に迷惑をかけないように、いつも黙って耐えていたキヨ子。ある時、私が向けたカメラを見据えて叫んだ。“戻してちょうだい。私の人生を”。本音だったと思う。」 
 
その言葉を読んだ時、正確に書記せば、「観たい!」という希望ではなく、「観るべきだ!」 「観なければならない!」という義務感が私を襲った。

「妻の貌(かお)」公式サイト 

2009年7月 3日 (金)

Cinema 「妻の貌」~その瞳にはヒロシマと家族の姿が写っている~

 「家族を撮る。それは私の愛情表現です。」と、広島在住の82歳の映像作家が映し出した「ヒロシマ」と「家族の姿」。わが国は世界で唯一の「被爆国」である。「ヒロシマ」「ナガサキ」の悪夢から64回目の夏がやってくる。

 被爆した人々にとって、その「記憶」は消えることはない。しかし、被爆しなかった人々にとって、それは「亡失」されつつあるのだろうか? 「ヒロシマ」「ナガサキ」のあの日のことは永遠に語りつながれなければならない。わが妻の母も、あの日「ヒロシマ」で被爆した。この夏に観て見たい映画だ?

「妻の貌~」公式サイト

2009年5月31日 (日)

Cinema「浪漫者たち」~青春紀行 三輪山へかえる~

 映画「浪漫者たち~青春紀行 三輪山へかえる」が公開される。大阪では九条にある「シネ・ヌーヴォ」で上映予定だ。先月だったと思う。大阪市内に出た帰り道に、「シネ・ヌーヴォ」へ立ち寄った。その日は映画を観ずにパンフレットだけを取った。映画のポスターが目に入った。「浪漫者たち~青春紀行 三輪山へかえる」。奈良を舞台にした映画なのかと何気なく見ていた。ふと、見ると小さな文字で、戦前・戦中に脚光を浴びたある文学者の名が記されていた。なぜ?と、疑問と興味が涌いた。その夜、自宅に帰ってからインターネットでその映画の題名を検索した。

 映画の配役で女性研究者が出てくる。彼女はその文学者の研究者として設定され、主人公にその文学者の作品を手渡す。その文学者とは、奈良県桜井市に生まれた保田興重郎(やすだよじゅろう)だ。文学運動として、「日本浪漫派」を立ち上げた人物である。戦前・戦中に多くの若者たちが、彼の言説と作品に魅了されたという。戦後、社会政治情勢が一変して後、彼の戦中の言説、作品が封殺、封印された。

 保田興重郎の代表作に「日本の橋」「後鳥羽院」等がある。
ドイツロマン派の文学をわが国の文学と文化に応用した。「日本浪曼派」には亀井勝一郎、檀一雄らが同人となり、佐藤春夫、萩原朔太郎、太宰治、三好達治、伊東静雄らも寄稿していたという。「日本浪漫派」の最後の末裔に三島由紀夫を位置づける人もいる。

 映画の公式サイトの中で、舞踏集団「大駱駝艦」(だいらくだかん)を率いる舞踏家・俳優である、奈良・桜井出身の 麿赤兒、「三輪山の懐を母の胎内として育った私は、その霊気と保田與重郎氏の言霊の妖気とが渦巻く潮の中で、眩暈と昂りで張り裂けそうな青春であった。 今、このような映画が生まれたのには、驚いた! 多くの示唆に富む映画だ。」と書き記している。

 奈良を舞台にした映画であるというだけではなく、「日本的な、滅び散華の美学」として封殺・封印された文学者・保田興重郎がその映画の中で、なぜ今なのか、どのような視点で描かれたのか、どう評価されたのか、私には興味がある。是非とも観てみたいものだ。

「浪漫者たち」公式サイト

「シネ・ヌーヴォ」公式サイト

2009年3月 7日 (土)

ピエトロ・ジェルミ 「鉄道員」


【 ピエトロ・ジェルミ監督
 「鉄道員」(1956年イタリア)】

 
イタリアネオリアリズムの名作である。ピエトロ・ジェルミ扮する鉄道機関士のマルコッチ家族の物語だ。ドラマは末っ子サンドロ少年の目を通して家族の出来事がつづられてゆく。家族の崩壊と再生、裏切りと友情、父と息子の物語だ。

 長男は定職につかず家でぶらぶらしている。長女は誰のこともわからない子を妊娠していた。末っ子のサンドロはまだ小学生だった。長女の結婚式の日、長女の出産の日、マルコッチは酒を飲んで遅く帰ってきた。娘の死産を聞かされた。「あの日、早く帰っていれば」マルコッチは悔い悩んだ。

 機関車を運転していた。ふと気がつくと前方の線路に人が立っていた。急ブレーキをかけたが間に合わず轢いてしまった。特急電車からはずされボロ機関車の運転手に格下げになった。マルコッチは酒に溺れるようになった。組合ストライキ中に、マルコッチは列車を運転した。スト破りの「裏切り者」として白い目で見られる。マルコッチは場末の酒場で酒に溺れ家族は崩壊の状態となる。

 ある日、末っ子サンドロは酒場にいた父マルコッチを呼びに出かけた。そして仲間が集まっている酒場へ連れて行く。久しぶりに仲間と再会したマルコッチは昔どおりにみんなと飲み唄った。しかし、機嫌よくギターを弾いていたマルコッチが突然倒れた。

 クリスマスの日。静養していたマルコッチのもと昔の仲間たちが駆けつけた。長男も戻って来た。長女からも電話が入った。妻と末っ子サンドロもそばにいた。幸せな時間が戻った。その夜、マルコッチは幸せな気持ちの中でギターを奏でながら眠るように息を引き取った。

 
 小学5年生の頃から、遊びつかれてた後に、平日夕方にテレビで放映していた「名画劇場」を、路地裏の実家で寝転びながらなにげなくよく見ていた。その時、初めて洋画というものを見た。心地よかった。子ども心にいままで体験したことのない感情が湧き出た。「鉄道員」という映画はその時初めて見たときから、幾度観たことだろう。今、一部を観てもその時に湧き出た感情を思い出すことができる。やはり名作なのだ。

2009年3月 1日 (日)

3/11(水)「学園前ホール」で映画「おくりびと」上映

Img_0001 「あなたは大切な人をどう“おくり”ますか? そしてどう“おくられ”たいですか?」

 今年の米国アカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画「おくりびと」が、3/11(水)近鉄奈良線「学園前駅」南隣にある奈良市西部公民館「学園前ホール」で上映される。

【とき】 3/11(水)
【ところ】 奈良市西部公民館「学園前ホール」(近鉄奈良線「学園前駅」南隣)
【上映時間】 ①10:30 ②14:00 ③17:00
【入場料】 当日 大人1000円 小中学生・60歳以上900円
【主催】 奈良県映画「おくりびと」を観る会 

「映画おくりびと」公式サイト

「シニア世代よ、再び映画館へ」を読んで

 2/26(木)朝日新聞朝刊、「アスパラクラブ」面の「シニア世代よ、再び映画館へ」を読んだ。映画評論家・品田雄吉氏の記事だった。同氏は幼少期を北海道北部の遠別村で過ごした。「70年前、ここに初めて汽車が通った。汽車は映画のフィルムを運んできた。毎週1回、上映日は村中が浮き立ち、大人は仕事を早めに切り上げた。やってくるのは三流の日本映画だけ、外国映画はこなかった。それでも娯楽の少ない村は華やぎました。」と同氏は語る。

 同氏は今、79歳、そのおもいでは小学生時代のことなのだろう。映画評論家を仕事とするようになった原体験なのかもしれない。私は大阪の場末の町で、小学生時代に、近くの新橋通商店街にあった「二葉館」「新橋劇場」という映画館で、祖母からもらった無料招待券を使いよく映画を観た。

 祖母は駄菓子屋を営み、その店先に二つの映画館のポスターを貼っていた。そのポスターの張替えの都度、無料招待券をもらっていた。祖母は私に「映画を観に行っといで」とよく私に無料招待券を渡した。一人ではいけないので近所の仲間たちとよく出かけた。そのときは、祖母からもらった無料招待券とお菓子を持って。品田雄吉氏の記事を読みながらその日々のことを思い出した。

 関東地区で洋画を観に映画館へ足を運んだ人の中で、40歳代以上が、2002年は41%であったのに対して、2008年は47%と6%増加した。かつて映画はデートの定番だった。当時の若者たちがシニア世代になって映画館へ回帰しているのだという。今は、「夫婦50割引」制度がある。夫婦の一方が50歳以上なら2人で2000円と割安になる。今一度、「シニア世代よ、再び映画館へ」戻ろう!

「映画館へ行こう!」公式サイト

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