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2006年12月31日 (日)

佐古旅立ち

NPO法人ソレステレ-ジャ奈良2002顧問である、佐古紳が、2005.9.15に、永年の夢であった「田舎暮らし」を実現すべく、自分自身で設計し建てた家、三重県宮川村へと旅立った。

2005.9.14. 20:09 佐古さんから携帯に電話がかかってきた。ぼくは、会社の同僚と酒を飲み、別れて、帰宅するため、近鉄布施駅のホ-ムにいた。「あした、三重へ引越しする」「もう少し早く、電話くれへんかったん?」「忙しかってん!」「気になってたけど、合併・店舗統合・希望退職で、俺も忙しくて連絡できなかって、すんません!」 しばらく電話で話した。電波状態が悪く、携帯電話が途切れた。奈良行き準急に飛び乗った。電車の中で、二名FC・西奈良ニ-ノス時代の思い出が走馬灯のように駆け巡った。奈良での最後の夜である。わが最寄り駅、富雄を過ぎた。西大寺駅で下車した。携帯で佐古さんに電話をした。「今、どこにいてるん?」 「家へ帰る途中や」 「今から行きますわ!」 「散らかってて、なにもないでえ」 「逢いにいきます。顔を見に行きますわ!」 

近鉄京都線山田川駅で降りてタクシ-に乗った。引越し準備で多忙な居宅で、奥さんを交えてビ-ルを飲んだ。短い時間であったが、合いも変わらず話し込んだ。テ-マはいつも通りの堅い話であった。奈良での最後の夜に、正確に言えば、京都・木津での最後の夜に、一緒に酒を飲み話ができて楽しかった。何も手土産を持っていかなかった。礼儀知らずかもしれない。ぼくは、何も手土産を持参せずとも、自分自身が出向くことが、最高の感謝と礼儀をあらわす行為であると信じている。人から見れば無礼かもしれない。でも、佐古さんなら理解していただけると勝手な解釈をしている。

佐古さんには、「自ら、判断して、行動していく人材を、サッカ-を通じて育成したい」という正統派のポリシ-があった。ソレステもまたそのポリシ-を継承している。末端まで浸透しているかどうかは別にして。二名小学校校区で、教育的な意味で、子どものジュニアサッカ-を地域の中で根付かした功績は多大なものがある。二人で酒を飲めば、言い合いをしていた。懐かしさがこみ上げてくるとともに、多くのことを学んだ日々を思い出す。謝! ! わが師である佐古紳の新たな旅立ちを心から祝う!2005.9.20

草の情景

平成7年夏に初参加してのち8回目の「草サッカ-」に45日参加して、8/22()に奈良に帰ってきた。私はと言えば、延べ日数にして40日間、清水で生活したことになる。10年以上前に、「コ-チ、清水の草サッカ-で知ってる?」というひとりの男の子の言葉から始まった。私は知らなかった。正直に「知らない」と答えた。それがいつ、どこで行われているどのような大会なのか全くわからなかった。Webサイトもない時代だった。当時の清水市役所へ問い合わせた。ものすごく興味がわいた。その男の子はすぐに横浜へ引っ越した。素直に「子どもたちを連れて行きたい!」と思った。①全国から集まってくるが誰でもが参加できる ②長期を要した5日間の大会である ③親元から離れられる体験ができる ③静岡・清水サッカ-の本拠地へ行ける。というのが連れて行きたいという根拠だった。

三重県・宮川にいるわがクラブ顧問の佐古紳さん(元西奈良ニ-ノス代表)と静岡の町で逢った。何度何度も登録されていない電話番号が携帯の履歴に残っていた。無視していた。最後の履歴にメッセ-ジが残っていた。「佐古です。電話番号を変えました。静岡に来ています。電話ください!」 即刻、電話をかけた。「ほんまに不携帯電話やな、今、静岡に来ている。」「何で?」「韓国のイリドンが来ている。だから静岡に来た」宿舎を出て1時間かけて静岡に出向いた。改札口を出たところで佐古さんは待っていた。逢うなり握手をしあった。近くの居酒屋へ入った。時間が無かった。集中的に会話を交わした。「「未来」についてのささやかな酒宴であった。

8/20()の監督交流会に、高円宮妃殿下がお見えになりご挨拶をいただいた。現在の社会状況のなかで、子どもたちの健全育成の観点から、草サッカ-大会の意義と、誰でもが参加できる親元を離れての45日の夏の体験の重要性を一人の母親としてのお言葉をいただいた。それのみならず、各テ-ブルをお回りになりお声をかけられた。私どものテ-ブルにもお越しになった。素直に感激した。

20回記念で初回から全大会参加したチ-ムが表彰された。50歳のとき始めて参加され全大会参加された70歳の代表の方がいらっしゃった。そこには情熱と思想がある。及びもつかないほどの畏敬と敬意の念を抱いた。

 子どもたちは何かを学んだのろう。サッカ-が上手、上手でないに関係なく、この夏の5日間が、子どもたちの今後生きていくうえでの糧となることを心から念じている。草サッカ-は終わったが、生きることは今後も続く。今からが始まりである。今年の夏も、そのことを肝に銘じて心に焼き付けた。夏小僧の旅は終わった。これからこそ、草サッカ-に参加した子、参加できなかった子、それぞれの子どもたちの新たな旅が始まる。サッカ-をするということは自分で感じ、考え、判断し、行動するという生活の上にはじめて成り立つものです。(2006.8.31

蹴られ 千切られ 踏みにじられて 茎も 根っこも 強くなる・・・・・草 有る所 人は 栄える(「草讃歌」3番抜粋)

父親が息子に伝えた言葉

・汽車(電車)に乗ったら窓から外を見て、駅についたら人の乗り降りに注意し、よく観察せよ。
・村でも町でも新しくたずねて行った所は、かならず高い所へ上がってみよ。
・時間のゆとりがあれば、できるだけ歩いてみることだ。
30歳までは、おまえの好きなようにやれ。しかし、30歳すぎたら親のあることを思い出せ。
・病気になったり、自分で解決できないことがあったら、郷里へ戻ってこい。
・自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は、責めはしない。
人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。

上にしるした言葉は、民俗学者・宮本常一氏の父親が息子に伝えた言葉です。もう、亡くなられましたが、有名な民俗学者である、宮本常一氏の父親が話された言葉の一部です。宮本常一氏は、そのはなし言葉を、必死でノ-トに書き写し、心に大切にきざみ、その言葉の意味を理解し、精一杯生き、日本でも有数の民俗学者になられました。宮本常一さんの父親が、息子に伝えた言葉はたいせつなものです。私たちのこころにきざみ、日常生活に生かしていくべきものです。

馬鹿に想う!

2005年の秋が始まろうとしている。春、夏、秋、冬。それが、本当に移り行く季節の順番なのだろうか? 数日前に新聞の記事で、季節を二極でとらえるという内容の一文を読んだ。「至」という文字があるのは、夏と冬だと、「夏至」「冬至」。春と秋は「春分」「秋分」。春の分れに始まり夏に至り、秋の分れを経て、最後に冬に至る。最後の季節を、冬ととらえるという季節感と、秋の分れに始まり冬に至り、春の別れを経て、最後に夏に至る。最後の季節を、夏と捉える季節感の二つの季節循環があるそうです。間違いなく、後者の季節循環で生きている。「ばか」「バカ」ではないが、「馬鹿」なように、ぼくは生きている。

8/19()、職場の店舗統廃合で、僕の店舗は無くなった。32年の歴史を終えた。2年半余りチ-ムを組んだメンバ-が、その日消滅した。この4年間の生活は、その終末日のための前奏曲だったのだろう。最後の営業日が終了した夜、職員だけの営業店の中で、本当の意味での打ち上げをした。終わりかけようとしていた時、店舗敷地内の駐車場におびき出され、男女職員全員にビ-ルかけを受け、胴上げされた。狂乱であった。思いもしなかった。体が宙を舞っていた。その場、本当の意味で、「チ-ムになった」とそれぞれが思っただろうか? 業績の如何に関わらず。びしょぬれになった。事前に用意してくれていたジャ-ジに、着替えさせられ、タクシ-に乗せられ、八尾・志紀から富雄まで帰った。同僚が生駒・平群で降りた。それまで抑えていた感情が噴出した。車内で、ととめどもなく涙が溢れた。運転手さんには申し訳なかった。「ばか」「バカ」ではないが、「馬鹿」なように、ぼくは涙を流した。

「馬鹿」とは、①おろかなこと ②取るに足らないつまらないこと、無益なこと、とんでもないこと ③役に立たないこと ④度はずれての意と「広辞苑」に記載されている。「馬鹿」とは、それは個性的に生きている証である。否定的な意味合いは少ない。凡庸な誰とともに一緒で、何気なく生きているのではなく、何かを意図して、おろかで、取るに足らないつまらないこと、無益なこと、とんでもないこと、役に立たないことを、度が外れてでも、思い、考え、実践しようと、なお、行動を成す人間に対する尊称である。「夢中である「一途である」と同じような意味と意義を持っている。「ばか」「バカ」ではないが、「馬鹿」なように、ぼくは信じている。(2005.9.05

2006年12月17日 (日)

フランシスコ・カナロを聴いている

 「いいちこ」を飲みながら、フランシスコ・カナロ(1888~1964)を聴いている。タンゴの世界的普及に最も貢献した人間として、フランシスコ・カナロは位置づけられている。カナロは、1925年、パリ公演、1940年台のアメリカ公演、1950年代のブラジル公演、1960年代の日本公演と、タンゴを世界に知らしめた。ほろ酔いの中で、アルゼンチン・ブエノスアイレスの港町を想い描いている。

 「タンゴ」なんて、そんな古臭い音楽を聴いているの? と人からよく言われる。理屈じゃなくて、好きだ。高校2年生の時、はじめて人から借りたレコ-ドが、アルゼンチンタンゴのアルバムだった。その当時は音楽に無頓着だった。ただ、好きだった女の子が、「家でタンゴがかかっているの。お父さんとお母さんがダンスを踊ってるの」と私に言った。私は無知だった。「タンゴ? だんごかな? わからない!」と心の中でつぶやきながらも、「タンゴのレコ-ドを貸してよ!」 好きだった女の子が、好んでいた音楽がタンゴだった。それが始まりだった。

 フランシスコ・カナロ「SuperBest」のアルバムの中で、「黄金の心」が大好きである。アルゼンチン風ワルツの曲である。曲の中ごろで、メンバ-がメロディをハミングするときがある。スペイン語はわからない。でも、わからなくとも、ほろ酔い気分でまぶたが潤む。タンゴという音楽は素敵である。今はおばさんになっているだろう、その女の子に感謝している。

赤坂の夜は更けて

 20028月、東京・代々木・国立青少年総合スポ-ツセンタ-での総合型地域スポ-ツクラブマネジャ-講習会に参加した。8/24()に奈良県立橿原公苑のH氏と、東京・赤坂の居酒屋で二人酒を飲んだ。正に意気投合した。彼は、一条高校・天理大剣道部、教員となり郡山高剣道部を指導していた。登美ケ丘北中学校サッカ-部の全国大会出場の件もご存知でした。大会開会式にも参加されていた。奈良のスポ-ツの現状や未来について、お互いが語り合った。赤坂の夜は更けて、一瞬、青春の時を思い出した。不思議な縁ですね! 楽しかった! 会えてよかった! お互いがそう感じたのは事実です。

 奈良から遠く離れた花のお江戸、赤坂の安酒場で、素直に会話できたことを喜んでいる。明日は研修前期の最終日です。行政の人々が多く出張参加していた中で、4泊5日、個人として休暇を取り、実費参加したことの意義を自分なりには評価している。ただ,人から見れば訳のわからないような経済的・時間的浪費の狂気の沙汰かもしれない。来年3月に、また後期4日間参加です。明日の夜、奈良へ帰る。妻に恥ずかしくないように、ささやかな研修体験をきっと生かす。(2002.8.24()夜、神保町のビジネスホテルにて)

十津川高校の寮長

H氏が奈良県立十津川高校の寮長として4月に赴任したことを知った。何度も携帯に電話をしたがつながらなかった。私の携帯電話に登録していない局番の電話がかかってきた。あのなつかしい声だった。「山奥やから携帯電話の着信が一日遅れますねん」ほんまかいな? 元気そうな声だった。「十津川高校の寮長として赴任しました。温泉めぐり案内しますわ! 」あとはよもやま話だった。赴任した経緯は理解した。

3年余り前の赤坂の夜を思い出した。20028月、東京・代々木・国立青少年総合スポ-ツセンタ-での総合型地域スポ-ツクラブマネジャ-講習会に参加した。Hさんと、東京・赤坂の居酒屋で二人で酒を飲んだ。正に意気投合!奈良県のスポ-ツの現状や未来について真剣にお互いが語り合った。赤坂の夜は更けて、一瞬、青春の時を思い出した。

奈良から遠く離れた花のお江戸、赤坂の安酒場で、素直に真剣に会話できた。あの夜に語ったことは、今も変わらず思い続けている。本気で人が真摯に取り組み、真剣に語り合う中からこそしか、大切なものは生み出せない。H氏は伝統ある十津川高校で生徒と寝食を共にして、剣道というスポ-ツを通じて人育てに取り組むのだろう。同志として心から健闘を祈っている。(2005.5.10)

サッカ-は子どもを大人に、大人を紳士にするスポ-ツである

 2000年8月18日、午後3時キックオフだった。その時、鹿児島から遠く離れた静岡県清水市にある高部東小学校のグラウンドにいた。同時刻に、鹿児島では奈良県代表として奈良市立二名中学校が、清水市では誰もが参加できる草サッカ-大会で西奈良ニ-ノスFCが、加えて、二名中サッカ-部OBであるわが息子も、国体・近畿ブロック予選で和歌山市紀三井寺競技場のピッチに立っていた。

それは偶然なのか? 二名中学校区のサッカ-ボ-ルに魅せられた者たちは、それぞれの想いを抱いてピッチを駆け巡り、また、サポ-タ-たちはピッチの動向に一喜一憂していた。青空にポカリと浮かんだ白い雲、心地よい浜風、蝉時雨、ゆったりとした豊かな時間が流れる中、高部東小学校のグラウンドに携帯電話を通じて鹿児島での途中経過・結果が入ってきていた。

 ふりかえると、二名中学校サッカ-部3年生の幾人かは、小学校2年生の時、激寒のひょうが降っていた大柳生小学校で、初めて対外試合に参加した。訳もわからずにボ-ルを追いかけていた姿を思い出す。あれから数年が経ち、子どもたちは確実に成長した。その過程で、保護者のみならず、小中学校の先生、地域の多種多様なおとなたち、仲間たち、先輩、後輩の目に見ない支えがあったことは事実であろう。

「俺達だけの力で出場できた!」と奢り高ぶるのではなく、「みんなの支えがあって出場できた!」と想える人間であって欲しい。技術・戦術的に能力があってもパ-ソナリティ-が伴わないのであればGood Playerとは言えない。また、On the pitchで能力を発揮しても、Off the pitchで自律的な行動をとれなければGood Playerとは言えない。「サッカ-は子どもを大人に、大人を紳士にするスポ-ツである」。新たなる健闘を祈る。(2000.8.27)

文集「なつぐさ」によせて

 小学校6年生の夏は二度と戻ってはこない。子どもから大人への分岐点。たった一度きりの夏。35年前の夏、近所のおじさんが私たち路地裏少年団をひきつれて、宝塚・武田尾へ飯盒すいさんに行った日の事は今も忘れない。蒼い空。川のせせらぎ。涼風。塩・コショウのシチュ-。なつぐさの匂い。荷物を持ち長い距離を歩いてしんどかったのであろうが、あまりにも楽しすぎたことしか思い出せない。

 2000年の夏、私は16名の子どもたちを引き連れて草サッカ-に参加した。もしかしたら、継続的に参加してきたのは、知らず知らずのうちにそのおじさんの想いを受け継いでいたのかもしれない。それは、私の勝手な想いである。

 子どもたちは、わくわく、どきどき、はらはら、ひやひやしながらも、のびのび、いきいきと時を過ごしていたようだ。親の管理体制から離れた5日間は、子どもにとって数限りない失敗があったであろうが、天国だったのかもしれない。日ごろは垣間見せないすてきな表情をしていた。ただ、如何せんゲ-ム中は、日に日にオ-バ-ヒ-トのためのエネルギ-消耗と疲労の蓄積で金縛り状態になっていった。

 草サッカ-は試合の結果・成績よりも、たまたまサッカ-を通じて出逢った仲間たちが、親元を離れて5日間寝食ともにすることに意義がある。その体験の中で、即効性はもてないかもしれないが,子どもたちの中で私たち大人が思っている以上の内的変化の芽がゆっくりと伸びようとしている。子どもたち自身が自分のことは自分でできると少しは自信をもったのかもしれない。

 いつの日か、子どもたちが大人になったとき、忘れ捨てられているかもしれないこの文集がどこからともなく現れ、少年の日の夏に行った草サッカ-のことを、身近でたいせつな人々に語りかけてくれることを。また、その時の仲間たちを想い出してくれることを心から祈っている。(2000.9.11)

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