この路地裏に由緒もないわが塚本家は昭和の初めから80年間あまり住み続けている。場末の町中で80年もの時の流れを連綿としてその小さな家が存続していること自体が不可思議である。祖父・祖母がその家を昭和の初めに購入した。母はその家で生まれ今も住み続けている。最近は認知症が発症し、加えて酸素チュ-ブを鼻につけ生活している。私の妹夫婦が面倒を見ている。
私も昭和28年にこの路地裏の家で、近所の人々の産湯を授かり生まれ、結婚して生駒に新居を構えるまでを過ごした。この路地裏にある小さな家が母と私の生家である。私には3人の子どもがいる。3人とも大阪市城東区の産院で生まれた。その出産の際に、この路地裏に永年住んでいる助産婦さんに立ち会っていただいた。私の3人の子どもたちも鶴橋・大成通の人々の産湯ではないかもしれないが介添をいただいて生まれた。
今、かつての喧噪が渦巻いていた路地は嘘のように静まり返っている。祖父・祖母・父とも葬送の時、この路地から近所の人々に見守られて旅立って行った。母もその日がくれば、同じようにこの路地から旅立つのだろう。
はっきりと言えることがある。その町は確かに私の唯一無二の「故郷」である。「兎追いし彼の山」的な自然には恵まれていはいない。でも、善きにつけ悪しきにつけあまりにも人間的な人々には恵まれた。その地と人々を愛し慈しみ誇りに思っている。しかし、「捨てたのかもしれない!」「裏切ったのか。もしれない!」という思いが心の中で疼きつづけている。だからこそ、私はその路地からは旅立つことはない。その路地から旅立つ資格などはない。
詩人・室生犀星は「小景異情」の中で歌った。
ふるさとは遠きにありて思うもの
そして悲しくうたうもの
よしや
うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆうぐれに
ふるさとおもい涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかえらばや
遠きみやこにかえらばや
実家による際に「お風呂セット」を持参していた。実家から徒歩1分の所にある「亀の湯」へ出かけようと銭湯の前までいくと10/7日曜日は定休日だった。大残念、大ショックだった! しょうがないので、煙突を眺めた。煙突が子供のころから大好きだった。煙突、灯台、塔、ロケットなど空に突き刺さっていくような風景に興味をそそられた。それは「希望」を感じさせてくれたのかもしれない。
小学生の頃は、友だちと一緒に一番風呂によく入った。大人たちがいないので自由に湯船の中を遊びまわった。泳いだり、水中で回転タ-ンをしたり、水鉄砲で遊んだりと、銭湯がもう一つの遊び場だった。敵である大人がやってきたら急に静かにした。刺青をした大人たちも何人か出会った。そのときは超静かにみんなでお利口さんを装った。
一番風呂でよく出会ったのが、「女性のような立ち居振る舞いをした男性」だった。銭湯近くの家で何人かが共同生活していた。夜に難波の方に働きにでかけるので、仕事前に銭湯に来ていたらしい。銭湯の脱衣場・浴槽では本当に女性のような立ち居振舞いだった。僕たちは男風呂に入っているのだが、女風呂にいるようなへんてこな恥ずかしい気持ちになった。その人たちがカミソリでひげを剃っている姿が印象深く今も脳裏に焼きついている。
10/7(日)午後、鶴橋の実家へ出かけた。実家近くの「太陽亭」で昼ごはんを食べた。五目中華そばとビ-ルを注文した。おばさんに、いや正確にはおばあちゃんだが、声を掛けた。
「ずっと店を続けられているのですね」
「もうここで店を始めて72年になります。三代目ですわ」
「小さかった頃に病気になった時に食べたかやくうどんのことを忘れられません」
「この近くにお住まいですか?」
「実家がこの裏通りにあります。今も母が住んでいます」
「失礼ですがお名前は?」
「塚本です」
「塚本さん! 今も娘さんがオムライスを頼んでくれはります。昔この近くに住んではって、違うところに行きはった人が、よく食べにきてくれはります。昔はこの辺もほんとうににぎやかやったなあ!」
かつては前の道路を市電が走り、近くの「新橋通商店街」が活況を呈していた時期があった。旧「大成通」は、今は静かな場末の町に変わった。グルメ嗜好が多くなった中、さまざまな店舗が新規出店し消えていく。お客といえどそんなに遠くから来ることもなく概ねその地域の人々である。「太陽亭」という場末の小さな食堂が72年間も営業を続けていることに驚く。いつまでも、いつまでも、「太陽亭」が「大成通」のその場所にあり続けて欲しいと心から願っている。
わが母校の大阪市立玉津中学校である。私が在学していた40年以上の前の姿とは全く変わってしまった。運動場・校舎の位置までもがその当時の面影はない。今は知らないが、当時はあまり学力が高くなく、俗にガラの悪い中学校だと言われた。ケンカやさまざまな問題が生じていた。それが日常だった。、その環境の中で学んだ。 「あまりいい環境じゃないよね」と他地域の幾人の人々に言われたことだろう。
大阪市立玉津中学校前にある公園である。1968年10月、日本サッカ-がメキシコオリンピックで銅メダルを獲得したことを契機として わが中学校でも猫も杓子もサッカ-らしきものに興じるようになった。授業の合間の中休み、昼休みには、それぞれが野球の小さなゴムボ-ル、ソフトボ-ルぐらいの大きさのゴムボ-ルで授業が始まるのも忘れてサッカ-らしきものをすることに没入した。多くの者が授業に出るのが遅れた。先生に怒鳴られ立たされた。先生曰く、「サッカ-と授業のどっちが大切やねん。解かってんのか?」 ちゃんと解ってますよ。先生の授業なんて面白くない。サッカ-のほうが面白い。授業も面白くしたらいいのに。と心の中でつぶやきながらも口が裂けても言わなかった。返事だけはしなければならないと思い、「はい、授業です!」と答えた。軟弱である!
わが母校の校訓である。「希望に起き、努力に生き、感謝で眠る」 平成5年に碑が建立されたようだ。私の在学時代からの校訓かどうか定かではない。校内に入ると部活動をしている幾人かの生徒に出会った。私の40年前の姿を想起した。あれから40年生きてきて、人として成長をしたのだろうか? 希望を持ちつづけてきたのだろうか? 努力をし続けてきたのだろうか? 感謝を忘れずに生きているのだろうか? 40才も年が違う後輩を前に自問自答した。
実家から徒歩2分の場所にある「中村精肉店」と「丸中電機」である。千日前通り(通称:電車道)に面している。市電が走っていた当時、「大成通」停留所前にあった。私が幼なかった頃から、我が家は肉と言えば「中村屋」、電気修理と言えば「丸中電機」だった。少なくとも50年以上はこの地で店を構え続けている。
今でも正月に実家に帰った折には、「中村屋」で買った肉ですき焼きを食べる。安価な割りにおいしいというのが評判である。天王寺区寺田町に住む義妹も、はるばる肉はこの店に買いにやってくる。面白いのはショ-ウンドウに商品そのものがあまり並んでいない。知らない人が来店すると売り切れかなと間違ってしまう。実は、顧客の用途を聞いてその場でスライスするからだ。本当に売り切れならば、そのショ-ウンドウの商品名のところに「売り切れ」の札が乗る。
大量の顧客が訪れるわけではなく、さまざまな商品を並べて置く必要もない。効率的であるし、顧客ニ-ズに素早く対応している。質も良い。場末の小さい店だと馬鹿にしてはいけない。50年以上もの間、同じ場所で営業を継続していることはすごい。
松下電器産業㈱の創業者である松下幸之助氏の「起業の地」がわが実家から徒歩5分の場所にある。大正6年、同氏が22歳の時にその地で起業した。旧地名は「大阪府東成郡鶴橋町大字猪飼野1399・1400番地」、現地名は「大阪市東成区玉津3丁目7および14」である。四畳半と二畳の借家の小さな工場だったらしい。
私の実家は通称「電車道」(現正式名:千日前通)の今は消え去ってしまった旧市電停留所「大成通」の南側に位置する。「起業の地」はその通りの北側にある。その地は大阪市立玉津中学校区の民家が密集し小さな町工場が周囲に点在する地域である。「松下幸之助氏が、「世界の松下」になる原点がその地であったことを、大成通で生まれ育ったものとして誇りに思うとともに自分自身のささやかな人生の励みとしたい。
「猪飼野郷土誌」に「熊沢天皇寓居跡」という一文がある。 「小川治海税理士事務所というのがある。その並びの東の端、現在ガレ-ジになっている所に辰巳屋さんという小料理屋があったらしい。そしてこれと小川事務所との間に以前旅館をしていた建物があった。これを辰巳屋が買得して所有していたが、その一室に熊沢天皇が一時身を寄せていた」
「熊沢天皇」こと熊沢寛道氏は、後南朝の「自分自身こそ正真正銘の天皇である」と時の連合国最高司令官マッカ-サ-元帥に嘆願書を出した。米「ライフ」誌にも写真入で大きな記事として取りあげられた。熊沢寛道氏は昭和天皇を相手取り東京地方裁判所に対して「天皇不適確確認」の訴訟を起した。その訴状の原告・熊沢寛道氏の当時の住所は「大阪府大阪市東成区大成通1丁目90番地」となっている。しかし、「天皇は裁判権に服しない」という理由で訴状は却下された。
私の実家から徒歩1分もかからない場所に「熊沢天皇と名乗るひとが住んでいた」と私は祖母から幾度となく聞いた。だがどんな人物なのかどうかを考えるなどはしなかった。子どもながらに、「天皇さんがそんな場所に住まれることはない。その人はうそつきだ」と思った。最近、熊沢天皇に関する「我輩は天皇なり」という新書が刊行された。読み進むにつれて、祖母から聞いた話が断片的によみがえってきた
実家に帰った折にはその寓居跡前の道を通る。気の強い辛らつな祖母から似非天皇である熊沢天皇のことに関して悪口を聞いた記憶が私にはない。そのことは今振り返れば不思議だ。推測の域をでないが、祖母が熊沢天皇と同じ地域で生まれたという同郷意識と祖母の南朝びいきがそうさせたのだろうか。今は確かめる術はない。
参考 「猪飼野郷土誌」/著者・発行:猪飼野保存会/
「我輩は天皇なり」/著者:藤巻一保/発行・学研新書
45年近く前、鶴橋にある実家の西3軒となりに「織田作之助研究会」という木の看板を掲げていた家があった。そこに一人のおじさんが住んでいた。わが家では「おださくおじさん」と呼んでいた。着流し姿で、その家の玄関先で電化製品の修理をしていた。青白く弱々しい姿が目に焼きついている。
小学校4年生の頃だった。ある日、父に聞いた。「おださくおじさんの家の前にある看板て、あれ何?」「おださくのすけという小説家を勉強しているらしい。おじさんは文士や」と父は教えてくれた。でも、わたしは織田作之助がどんな人か、文士という言葉の意味もわからなかった。
父は消防署に勤務していた。家の本箱から「消防月報」という雑誌を持ってきてペ-ジを開いた。「これや!」と私に見せた。そこには、おださくおじさんの本名で書かれた文章が載っていた。それを見て、文士というのが文章を書く人であるということを理解した。確かにおじさんは文士だった。
後年、織田作之助という作家が「夫婦善哉」という作品を残し、好んで大阪の庶民の暮らしを描いたことを知った。おださくおじさんは社会的な評価を得ることはできなかった。だが、確かに、わが路地裏に「織田作之助研究会」という看板を掲げた「文士」がいたことは事実である。
「トラは死んで皮をのこす 織田作死んでカレ-ライスをのこす」
大阪・難波「ジュンク堂書店」にでかけた折には、千日前にある「自由軒」によく立ち寄る。黒ビ-ルを注文し、「名物カレ-」を食べる。おいしい!むかしむかし私の祖母がここで働いていたと聞かされていた。「あそこのカレ-はおいしいでえ」とよく言っていた。私が24才の時に、祖母は亡くなった。それ以降に「自由軒」によく立ち寄るようになった。
8/11(土)夜、わが母校である大阪市立大成小学校の「大成納涼盆踊り大会」へ出かけた。校庭にはやぐらが組まれ、屋台が出て、老若男女を問わず多くの人々でにぎわっていた。かつては、町会ごとで細長い路地で多くの盆踊りが催されていた。小学校の校庭を利用しての「大成納涼盆踊り大会」が一番大きなイベントだった。
大成小学校校区は、私が小学生だった頃から、日本、韓国、北朝鮮の人々が混在して地域を形成していた。「民族」というものを自然と意識せざるをえない環境であった。その当時私の友だちは日本人よりも韓国人の方が多かった。大人たちの作り上げた「民族」という概念など関係もなく遊びにふけっていた。
韓国の子どもたちが、民族の踊りを披露した。太鼓と鐘を鳴り響かせ駆け回った。その音色とリズムが、私の体中に響きわたった。路地裏で聞いていた音だ。体が自然と動いた。子どもたちの踊る姿から、私は生きるエネルギ-を分け与えられた。
私は、校庭の夜店を巡った。さまざまな団体が出店していた。「まとあて」「スマ-トボ-ル」が目に入った。私は「スマ-トボ-ル」が大好きだった。祭りの夜店に出かけると必ず「スマ-トボ-ル」をしたことを思い出した。
本職屋台を巡ると、団体の出店は多くの人々が店内にいてにぎやかだった。ある屋台の店で70歳ぐらいのおばあさんが、ぽつりとひとり座
り出店していた。一瞬、写真を撮ろうと思ったが、シャッタ-を押すことができなかった。自分自身の心に突き刺さった。そのおばあさんは一所懸命、一生懸命に生きている。だが、お前はその人以上に今を生き切っているのか? そのような想いが脳裏をよぎった。
「大成女性会」がおでんを販売していた。「のぼり」「横断幕」「白いスカ-フ」。その光景は、私が幼かった頃のおばさんたちを思い出させた。当時の路地裏のおばさん連は、事あるごとに白いエプロンをしていた。あれは一種の制服であったのだろうか?
幼少の頃から存じ上げている連合町会長さんがご挨拶をされた。私の父が亡くなった折の葬儀委員長を務めていただいた。告別式が終わった時、「大成通を誇りに思います」と伝えた時、手を差し伸べていだき涙ぐまれた姿を思い出した。ご挨拶されている姿を見た時、私は網膜の裏が潤んだ。ご高齢に関わらず一生懸命に生きていらっしゃる。自分のためだけではなく、その町の人々のためにも。その地で生まれ育った私は、その町の大人たちの背中を見て生きてきた。ものの見方、考え方の根本はこの地で学んだ。間違いなく私の産土(うぶすな)は「大成通」である。
◇ ブログを見ていただいている方々への盆中お見舞いとさせていただきます。
8/5(日)午後、鶴橋の実家に寄る前に我がなつかしの「太陽亭」で食事をした。五目中華そばとビ-ルを注文した。ビ-ルを飲みながら、走馬灯のように昔のことが思い浮かんだ。
小学校4年生の冬だった。路地裏に住む大人の野球チ-ムの朝練習についていった。ライトバンの荷台に定員オ-バ-の人数が乗り、沸騰したヤカンがつまれていた。車が走り出しでこぼこ道にさしかかった時、突然、ヤカンがひっくり返り僕の左足首に熱湯がかかった。すぐに病院へ担ぎ込まれた。
病院で治療を受け自宅に帰りふとんの中にいた。熱くて痛かった。路地裏のおばちゃん連中が入れ替わり見舞いにきた。あるおばちゃんが、木製の出前箱を掲げてきた。「太陽亭の玉子とじうどんを食べて元気になるんやで」。僕はおばちゃんの手助けを得て、その玉子とじうどんを食べた。おいしかった。病気で寝込んだ時、僕だけではなく、路地裏の子どもの誰もが、自分の家族以外の人々の施しを受けた。相互扶助という世界があったのかもしれない。
「太陽亭」は場末の大衆食堂として、50年近くその場所で営業している。通常、企業の寿命は平均30年と言われている。そのことから考えると驚嘆に値する。今日、そのとき、客は僕一人だった。ビ-ルを飲みながら、目が潤んだ。「太陽亭」も消える日が来るのだろうが、そうなったとしても、僕の心の中には、「太陽亭」はずっと生き続ける。
「大成通」という町名が、大阪市東成区にあった。昭和16年、「猪飼野大通」と命名されたその場所は、昭和19年1月1日に「大成通」に、昭和45年9月1日、「玉津3丁目」に住居表示が変更となった。私は昭和28年にその地で生まれ、24歳で結婚するまでの多感な年頃を「大成通」で過ごした。
「大成通」という町名は、「大成小学校」の由来と「猪飼野大通」の名の一部を結びつけて命名された。「大成」とは、大阪市立大成小学校創設に際して、「大阪市」の「大」と、「東成区」の「成」を採り、その地の児童が、行く末、物事を大きく成し遂げることを願った。「大成通」の「通」は、旧町名の「猪飼野大通」の「通」を採ったと言われている。
7/28(土)、母が退院をした折に、実家近くを徘徊した。以前見た懐かしい住居表示板が、今もあるのか確かめた、確かに、そこにあった。「大成通」という町名が消え去って37年が経つにも関わらず、その家の表札の横に、ブリキ版で作られた住居表示板が掲げられていた。その家に居住し続けている方も、「大成通」に何らかの愛着を抱いているのだろう。
その町を出て、30年の年月が経過した。大阪市立大成小学校創設に際しての由来である「行く末、物事を大きく成し遂げる」という「大成」とは程遠く、「錦を飾っていない」今の私がある。しかし、その地の人々との見聞と生活・体験によって、その町で過ごした時よりは、ささやかであるが、私は「大」きく「成」っていると自分自身では思っている。あの街の無名の一生懸命生きていたおじさん・おばさんの思想が、今の私の根底にある。「大成通」は、私の「ル-ツ」である。
6月中旬の日曜日に、母を見舞った帰りに寄り道をした。JR玉造駅から東へ徒歩で5分の所にある「旧真田山陸軍墓地」へ出かけた。
小学校高学年のとき、狭い路地でのいびつな形の三角ベ-ス野球に飽き足らずに、どこかの「原っぱ」「広っぱ」を駆け回ることを願った。夏休みになるとその場所へ煩雑に出かけた。時間は有り余るほどあった。目的は遊ぶこと、虫取り、かけっこ、鬼ごっこ、探偵ごっこ、基地づくり、ソフトボ-ル。 時にはその墓地の周辺の校区の名も知らぬ小僧っ子連と軟式野球の対外試合をした。その試合の多くは負けた。
ボ-ルが墓石の間を転々としその中、ボ-ルが消えてなくなったこと、墓石につまずきあわや墓石が倒れそうになったこともあった。帰り間際に水道の水をがぶ飲みした。ひんやりとして気持ちがよかった。路地裏小僧っ子連は、山の手の者に惨敗を喫したことをぶつぶつとつぶやきながら、とぼとぼと、わが住処の路地裏へと戻っていった。
いつも、その場所の記憶は「夏という季節」しかない。大人たちはいなく子どもたちだけの世界であった。「フィ-ルドオブドリ-ムス」という題名の映画があった。その名を使えば、その場所は、子どもたちだけの「フィ-ルド・オブ・ホ-プス」(希望の広っぱ)だった。
「旧真田山陸軍墓地」について詳しく知りたい方は、下記のWebサイトをご覧ください。
Webサイト「NPO法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」
「比賣許曾神社(ひめこそじんじゃ)」は、垂仁天皇時代(約2000年前)に起源を有する。「下照比賣命(しもてるひめのみこと)を本殿祭神とした格式ある「延喜式内神大社」である。大阪市東成区東小橋3丁目に鎮座する。同神社はJR環状線鶴橋駅を降りて、千日前通りを東へ徒歩5分、南北に走る疎開走路の交差点の左側にある。鶴橋という雑踏の町の傍らにある小さな神社である。
私は氏神様「御幸森天神宮」よりも「比賣許曾神社」へ足を運ぶ回数が多かった。なぜならば、「比賣許曾神社」は、最寄り駅である鶴橋駅へと向う途上に位置し、自宅から徒歩5分の場所である。一方、「御幸森天神宮」は自宅から南へ徒歩20分もかかってしまう。物理的な方角と距離の問題である。「夏祭」は、いつも近くの「比賣許曾神社」に出かけた。ただ、氏地である関係で、「獅子舞」は氏神様「御幸森天神宮」からやって来た。
近所のおばさん連中の「比賣許曾神社略縁起」は、「姫は、姫らしく静かにしていなければならないのに、こそこそ話をしたからその名前がついたんや」と幼い時に聞いた。本来の縁起からは程遠いものである。でも、私には同神社の本来の縁起よりも、そのおばさんが話した縁起らしきものが懐かしい記憶として今も残っている、私がその地で生まれ育ったという証のために、今も、私は氏神様「御幸森天神宮」と、なじみの「比賣許曾神社」の両神社のお守りを仕事鞄の中に入れ持ち歩いている。
【鎮座地】大阪市東成区東小橋3丁目8番14号
【参 考】「式内 比賣許曾神社略縁起」
私が生まれ育った地の氏神様は、「御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)」である。JR環状線桃谷駅を降りて、桃谷商店街を東へ歩き、南北の疎開道路を横切った所にある。幼い頃から、「御幸森神社(みゆきもりじんじゃ)」と私たちは呼んでいた。私の実家は大阪市東成区玉津3丁目にある。もとの住居表示は大成通1丁目、その前は猪飼野大通1丁目という住居表示であった。今里・難波を結ぶ千日前通りの南側、JR環状線鶴橋駅から歩いて10分の場所にある。同宮は旧猪飼野村全域の氏神様であり、私の実家は同宮の氏地の北端に位置している。
昔、仁徳天皇が鷹狩りのためこの地に「御幸(行くことの敬語)」された折、幾度となく当地の森で休憩されたところから、このあたりを「御幸の森」と呼ぶようになった。西暦406年、人々はこの森に天皇の御霊を祀ったのが由緒として語り継がれている。西暦850年頃にこの地域で疫病が流行し、当時の社僧が京都五條天神社に詣でて災厄追放を祈願し、同社の御祭神である「少彦名命(すくなひこなのみこと)」の御神霊を御幸宮に祭ったところ疫病が収まったことから「天神宮」とも呼ばれるようになった。
「御幸森天神宮」は、幼い頃から氏神様として事あるごとに詣でた。ただ、実家から歩くと20分近くかかる。父や祖母に連れられていくことがあったが、氏神様は遠い場所にあるので出かける時はいつも億劫な気持ちでいた。1年に何度か自ら気持ちよく氏神様に詣でるようになったのは、45歳を過ぎてからである。私がその地で生まれ育ったという証のために、今も、私は「御幸森天神宮」のお守りを仕事鞄の中に入れ持ち歩いている。
【鎮座地】大阪市生野区桃谷3丁目10番5号
【参考】「御幸森天神宮由緒略記」
環状線・桃谷駅を降りて、桃谷本通 商店街を東に向かい、南北に走る「疎開道路」を横切った場所に「史跡・日本最古 つるの橋跡」がある。江戸時代・元禄14年(1698年)に「摂陽群談」に、「猪甘津橋(いかいつはし)東生郡猪飼野村にあり。此処平野川筋にして、
小橋村の南、木村の堤の上より東に渉り、猪飼野村に至る所也」と記載された文言が、「日本書記」に記された「猪甘津(いかいつ)の橋」と「つるの橋」を結びつけた。なお、同文書に、「鶴橋 東生郡猪東小橋村、平野川筋にあり。昔此橋の辺に、鶴多集まる事あり。夫より以来、橋の号と成と云えり」とも記載されている。
今は大阪の下町であるが、かつては、その地に鶴が舞い降り舞い上がり、美しい自然の風景があったのだろう。「猪甘津(いかいつ)の橋」と「つるの橋」とが同一の場所にあった橋であるという根拠はない。しかしながら、それが別の橋であったとしても、同じ地域にあったことは、人それぞれの心の浪漫を醸し出す。
【参考資料 編集:猪飼野保存会「猪飼野郷土誌」】
日本で最も古い橋の例として、「日本書紀」仁徳14年条にある「猪甘(いかい)の津に橋わたす、すなわち其のところをなづけて小橋という」との記述がある。それ以前「橋」の記録・遺跡として残されているものはないと言う。「日本書紀」に記述のある「橋」としての「猪甘津の橋」(いかいつのはし)が、日本最古の橋の記述であると伝承されている。ただ実証的に証明されたわけではない。
「猪甘津の橋」は、現在の鶴橋駅と桃谷駅を南北に結んだラインの東側、勝山大通り北側にあったと推定されている。資料が少なく、現在では、その橋の位置を限定することは困難となっている。「日本書紀」に記載があることから見て、その時代、確かに「猪甘津の橋」が存在した。その時代の人々が、川を越え、東の対岸に行き着く必要性があり、小さな橋を築いたのであろう。「猪甘津の橋」は、仁徳天皇時代以降、存続したのか、消滅してしまったのかは定かではない。「日本書紀」以降、徳川・元禄時代まで、その橋についての記載された文献はない。ただ、歌枕に詠まれていることからも、人々の心の中には存在し続けていたことは事実である。
しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡りそめにし 猪甘津の橋 (小野小町)
(参考資料 編集:猪飼野保存会 「猪飼野郷土誌」)
約6000年前、大阪・和泉山脈から北へ延びた上町台地は岬となっていた。上町台地の西部は大阪湾、東部は現在の東大阪市北部、大東市あたりの河内平野は海域であった。大阪湾の内海として河内湾と呼ぶ。2000年前、海岸線は西部に後退し、河内平野の北部の河内湾は縮小しながら淡水化し河内潟となった。地名に「津」の着く場所は港であった。摂津、中津、高津、玉津、盾津。「江」のつく場所は入江として海に面していた。住之江、野江、片江、深江、若江、菱江。大阪市東成区今里交差点近くで丸木舟とクジラの骨が発掘されたことからも、現在の大阪市東成区東部の地域が海であったことが実証されている。
「日本書紀」仁徳天皇14年の条に「冬十月猪甘津(いかいつ)に橋をかけその処を号けて小橋と曰う」と記された。「猪甘津(いかいつ)」とは「猪甘の港」という意味で、「猪飼野」という地名は、この「猪甘津(いかいつ)」に由来する。「播磨風土記」において、「日向の肥人(くまびと)が献上し猪を飼い放った。そこを猪飼野と云う」と由緒が示されている。「猪甘(いかい)」という地にある野原が「猪甘野→猪飼野」と呼ばれるようになった。現在は存在しない地名としての「猪飼野」は、古来よりの由緒ある地名であった。
降る雪は あはになふりそ 横森の 猪飼野岡の 寒い巻に (穂積皇子)
村すずめ 幾世をかけて 百済野の 猪飼の岡に 笹わけて啼く (聖連法師)
(参考資料 発行:猪飼野保存会 「猪飼野郷土誌」)
私が幼児だった頃の記憶が今も鮮烈に残っている。幼稚園へ入る前の記憶だ。家の前の路地を騒々しく、あわただしく、白いエプロン姿のおばさんたちが行き来していた。自分たちの家で沸かしたお湯をある家へ順次に運び入れていた。おじさんたちは、指示だけは出すが高みの見物気分のようだった。私はそのことがどんなことか解らなかった。「早く、早く、」おばさんの形相は怖かった。
「何してんの?」と母に聞いた。「赤ちゃんが生まれるんやで」 長屋のおじさん、おばさんそして私たち小僧っこは、今までの騒々しさが嘘かのように静まり返りその家の玄関前に立っていた。家の中から、Sおばさんのうめき声が聴こえてきた。「Sちゃん、がんばんねんで」両手をあわせてAおばさんは真剣な顔で拝んでいた。「まけたらあかんで」みんなは両手を胸の前にあわせて立ち尽くしていた。
「おぎゃ-ん」という声が聞こえた。静まり返っていた雰囲気から一転して、「産まれた!」「産まれた!」 歓声が長屋中にとどろきわたった。それでもみんなは立ち尽くしていた。産婆さんが、赤ちゃんを抱いてその家から出てきた。歓声がまた沸いた。おとな連中は、産まれたばかりの赤ちゃんに群がった。そのあと小僧っこたちの番だった。順番に赤ちゃんと対面した。私の番だった。恐る恐る覗き込んだ。小さかった、赤かった。手と頬に触れた。柔らかかった。不思議な気分だった。
そばにいた祖母が私にささやいた。「あんたもこうして産まれたんやで」。
私は、昭和28年7月22日 大阪市東成区大成通り1丁目56番地で産まれた。大阪・下町の路地裏で、この世に生を受けた。その時の情景は知る由もない。ただ、後日、長屋の大人たちの産湯を授かり産まれたことを、祖母、母、長屋のおばさん連中から聞かされた。
私の幼い日の記憶は、同様な状況の中で私もまた産まれたことを証明している。私は自分自身の産まれた瞬間を見てはいないが。隣組の人々の騒々しくあわただしく立ち回り、また静寂の中で両手を胸の前で合わして拝んでいただいた中で産まれたと、私は信じている。
私の本籍は現在、大阪市東成区玉津3丁目56番地となっている。昭和49年に住居表示が、旧来の大成通り1丁目から玉津3丁目に変更となった。産まれて54年を経た私は、今はっきりと確信を持っていうことが出来る。私のうぶすな(産土)は、大阪市東成区大成通り1丁目の、その地とその路地裏に住む人々である
私は、今、生存している。昭和28年に生まれ53年間にわたりこの世に生きてきたことは事実である。私は、どこから来て、どこにいて、どこへいこうとするのか。人には誰もが、その原初的な時間と空間である「場」をもつ。それを「ふるさと」「故郷」「郷土」と言葉で呼んでいるのかもしれない。もうひとつ言葉を付け加えれば、「産土」(うぶすな)である。
私の「うぶすな」とは、どこか? 私は確信を持って言うことができる。そこは、私が産まれ育った町である「大阪・鶴橋・大成通り」であると。「うぶすな鶴橋」として、まとまりもなく書き記そうと思う。私を見守ってくれ育ててくれた「もうひとつの学校」であった「路地裏」のすべての人々に対して感謝を込めて。
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