Books

無料ブログはココログ

2007年11月 8日 (木)

保育園児の絵

003

 大阪市東成区・平野川沿いのコンクリ-トの壁に描かれていた絵です。平野川に架かる南弁天橋のたもとにある大成保育園の園児が描いたものです。太陽、青い空、白い雲、女の子たち、きれいな花。のどかな子どもの頃の郷愁を感じさせてくれます。

 上手に写真を撮ることができませんでしたが掲載します。

2007年11月 2日 (金)

小学生の絵(2)

002_2

 私が小学生だった頃の通学路、大阪市東成区・平野川沿いのコンクリ-トの壁に描かれていた小学生の絵です。南弁天橋の下、平野川という運河で子どもたちが泳いでいる。この絵を描いた子どもの想いとイメ-ジなのだろう。

2007年11月 1日 (木)

小学生の絵(1)

001

 私が小学生だった頃の通学路、大阪市東成区・平野川沿いのコンクリ-トの壁に描かれていた小学生の絵です。

2007年10月30日 (火)

大成小学校

010

  10/28(日)鶴橋の実家に寄った折に、私とわが母の母校である大阪市立大成小学校へ出かけた。校庭には子どもたちの姿はなかった。小学校前の川も、今は道路に様変わり していた。残念ながら小学校内へは入ることができなかった。鉄筋コンクリ-ト造りの校舎がそびえたっている様は、かつて通学していた時とはすっかり変わった。卒業して40年あまりの時が流れているので当然と言えば当然である。

007_3

 

2007年10月 8日 (月)

「故郷、路地裏に想う」

Photo_14

この路地裏に由緒もないわが塚本家は昭和の初めから80年間あまり住み続けている。場末の町中で80年もの時の流れを連綿としてその小さな家が存続していること自体が不可思議である。祖父・祖母がその家を昭和の初めに購入した。母はその家で生まれ今も住み続けている。最近は認知症が発症し、加えて酸素チュ-ブを鼻につけ生活している。私の妹夫婦が面倒を見ている。

私も昭和28年にこの路地裏の家で、近所の人々の産湯を授かり生まれ、結婚して生駒に新居を構えるまでを過ごした。この路地裏にある小さな家が母と私の生家である。私には3人の子どもがいる。3人とも大阪市城東区の産院で生まれた。その出産の際に、この路地裏に永年住んでいる助産婦さんに立ち会っていただいた。私の3人の子どもたちも鶴橋・大成通の人々の産湯ではないかもしれないが介添をいただいて生まれた。

今、かつての喧噪が渦巻いていた路地は嘘のように静まり返っている。祖父・祖母・父とも葬送の時、この路地から近所の人々に見守られて旅立って行った。母もその日がくれば、同じようにこの路地から旅立つのだろう。

はっきりと言えることがある。その町は確かに私の唯一無二の「故郷」である。「兎追いし彼の山」的な自然には恵まれていはいない。でも、善きにつけ悪しきにつけあまりにも人間的な人々には恵まれた。その地と人々を愛し慈しみ誇りに思っている。しかし、「捨てたのかもしれない!」「裏切ったのか。もしれない!」という思いが心の中で疼きつづけている。だからこそ、私はその路地からは旅立つことはない。その路地から旅立つ資格などはない。

詩人・室生犀星は「小景異情」の中で歌った。

ふるさとは遠きにありて思うもの

そして悲しくうたうもの  

よしや

うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆうぐれに  

ふるさとおもい涙ぐむ  

そのこころもて  

遠きみやこにかえらばや  

遠きみやこにかえらばや

「亀の湯」の煙突

Photo_13

 実家による際に「お風呂セット」を持参していた。実家から徒歩1分の所にある「亀の湯」へ出かけようと銭湯の前までいくと10/7日曜日は定休日だった。大残念、大ショックだった! しょうがないので、煙突を眺めた。煙突が子供のころから大好きだった。煙突、灯台、塔、ロケットなど空に突き刺さっていくような風景に興味をそそられた。それは「希望」を感じさせてくれたのかもしれない。

 小学生の頃は、友だちと一緒に一番風呂によく入った。大人たちがいないので自由に湯船の中を遊びまわった。泳いだり、水中で回転タ-ンをしたり、水鉄砲で遊んだりと、銭湯がもう一つの遊び場だった。敵である大人がやってきたら急に静かにした。刺青をした大人たちも何人か出会った。そのときは超静かにみんなでお利口さんを装った。

 一番風呂でよく出会ったのが、「女性のような立ち居振る舞いをした男性」だった。銭湯近くの家で何人かが共同生活していた。夜に難波の方に働きにでかけるので、仕事前に銭湯に来ていたらしい。銭湯の脱衣場・浴槽では本当に女性のような立ち居振舞いだった。僕たちは男風呂に入っているのだが、女風呂にいるようなへんてこな恥ずかしい気持ちになった。その人たちがカミソリでひげを剃っている姿が印象深く今も脳裏に焼きついている。

「東成浴場組合」Webサイト

またも「太陽亭」

Photo_11

 10/7(日)午後、鶴橋の実家へ出かけた。実家近くの「太陽亭」で昼ごはんを食べた。五目中華そばとビ-ルを注文した。おばさんに、いや正確にはおばあちゃんだが、声を掛けた。
「ずっと店を続けられているのですね」
「もうここで店を始めて72年になります。三代目ですわ」
「小さかった頃に病気になった時に食べたかやくうどんのことを忘れられません」
「この近くにお住まいですか?」
「実家がこの裏通りにあります。今も母が住んでいます」
「失礼ですがお名前は?」
「塚本です」
「塚本さん! 今も娘さんがオムライスを頼んでくれはります。昔この近くに住んではって、違うところに行きはった人が、よく食べにきてくれはります。昔はこの辺もほんとうににぎやかやったなあ!」

 かつては前の道路を市電が走り、近くの「新橋通商店街」が活況を呈していた時期があった。旧「大成通」は、今は静かな場末の町に変わった。グルメ嗜好が多くなった中、さまざまな店舗が新規出店し消えていく。お客といえどそんなに遠くから来ることもなく概ねその地域の人々である。「太陽亭」という場末の小さな食堂が72年間も営業を続けていることに驚く。いつまでも、いつまでも、「太陽亭」が「大成通」のその場所にあり続けて欲しいと心から願っている。

Photo_12

大阪市立玉津中学校

 Photo_8

 わが母校の大阪市立玉津中学校である。私が在学していた40年以上の前の姿とは全く変わってしまった。運動場・校舎の位置までもがその当時の面影はない。今は知らないが、当時はあまり学力が高くなく、俗にガラの悪い中学校だと言われた。ケンカやさまざまな問題が生じていた。それが日常だった。、その環境の中で学んだ。 「あまりいい環境じゃないよね」と他地域の幾人の人々に言われたことだろう。

Photo_9

 大阪市立玉津中学校前にある公園である。1968年10月、日本サッカ-がメキシコオリンピックで銅メダルを獲得したことを契機として わが中学校でも猫も杓子もサッカ-らしきものに興じるようになった。授業の合間の中休み、昼休みには、それぞれが野球の小さなゴムボ-ル、ソフトボ-ルぐらいの大きさのゴムボ-ルで授業が始まるのも忘れてサッカ-らしきものをすることに没入した。多くの者が授業に出るのが遅れた。先生に怒鳴られ立たされた。先生曰く、「サッカ-と授業のどっちが大切やねん。解かってんのか?」  ちゃんと解ってますよ。先生の授業なんて面白くない。サッカ-のほうが面白い。授業も面白くしたらいいのに。と心の中でつぶやきながらも口が裂けても言わなかった。返事だけはしなければならないと思い、「はい、授業です!」と答えた。軟弱である!

Photo_10

 わが母校の校訓である。「希望に起き、努力に生き、感謝で眠る」 平成5年に碑が建立されたようだ。私の在学時代からの校訓かどうか定かではない。校内に入ると部活動をしている幾人かの生徒に出会った。私の40年前の姿を想起した。あれから40年生きてきて、人として成長をしたのだろうか? 希望を持ちつづけてきたのだろうか? 努力をし続けてきたのだろうか? 感謝を忘れずに生きているのだろうか? 40才も年が違う後輩を前に自問自答した。

お肉屋さん

 Photo_7

 実家から徒歩2分の場所にある「中村精肉店」と「丸中電機」である。千日前通り(通称:電車道)に面している。市電が走っていた当時、「大成通」停留所前にあった。私が幼なかった頃から、我が家は肉と言えば「中村屋」、電気修理と言えば「丸中電機」だった。少なくとも50年以上はこの地で店を構え続けている。

 今でも正月に実家に帰った折には、「中村屋」で買った肉ですき焼きを食べる。安価な割りにおいしいというのが評判である。天王寺区寺田町に住む義妹も、はるばる肉はこの店に買いにやってくる。面白いのはショ-ウンドウに商品そのものがあまり並んでいない。知らない人が来店すると売り切れかなと間違ってしまう。実は、顧客の用途を聞いてその場でスライスするからだ。本当に売り切れならば、そのショ-ウンドウの商品名のところに「売り切れ」の札が乗る。

 大量の顧客が訪れるわけではなく、さまざまな商品を並べて置く必要もない。効率的であるし、顧客ニ-ズに素早く対応している。質も良い。場末の小さい店だと馬鹿にしてはいけない。50年以上もの間、同じ場所で営業を継続していることはすごい。

「松下幸之助起業の地」

Photo_4

松下電器産業㈱の創業者である松下幸之助氏の「起業の地」がわが実家から徒歩5分の場所にある。大正6年、同氏が22歳の時にその地で起業した。旧地名は「大阪府東成郡鶴橋町大字猪飼野13991400番地」、現地名は「大阪市東成区玉津3丁目7および14」である。四畳半と二畳の借家の小さな工場だったらしい。

私の実家は通称「電車道」(現正式名:千日前通)の今は消え去ってしまった旧市電停留所「大成通」の南側に位置する。「起業の地」はその通りの北側にある。その地は大阪市立玉津中学校区の民家が密集し小さな町工場が周囲に点在する地域である。「松下幸之助氏が、「世界の松下」になる原点がその地であったことを、大成通で生まれ育ったものとして誇りに思うとともに自分自身のささやかな人生の励みとしたい。

Photo_5

Photo_6

最近の写真

  • Img
  • Img
  • Img_0001
  • Img
  • Img
  • Img
  • 生駒山ケーブルカー
  • 20091206_050
  • 20091206_044
  • 20091206_040
  • 20091206_038
  • 20091206_035