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2008年5月 6日 (火)

「佐渡情話」

 佐渡へ添乗旅行に出かけた折に、バスガイドさんとなにげなく会話をかわした。「たらい舟」の話になり、昔の記憶がおぼろげながら浮かんできた。ガイドさんに聞いた。「たらい舟に乗り女の人が海を越えて対岸まで渡った恋物語があったなあ?」「それは佐渡情話です!」と答えてくれた。ああ!そうだ!「佐渡情話」だった。忘れかけていた。
 佐渡情話(さどじょうわ)は、佐渡に伝わる島の娘と対岸の越後の男との悲恋の民話だ。「むかし佐渡に漁師の娘がいた。娘は対岸の柏崎から来た船大工の男と恋に落ちた。二人は佐渡で逢瀬を重ねた。仕事がなくなり男は佐渡へ来なくなった。娘は恋情の末、夜にたらい乗って海を渡り、対岸の柏崎まで通う事にした。妻子がいる男は、最初は喜んだが恐ろしさを感じた。ある夜、娘が海を渡る目印していた柏崎の岬にある常夜灯を男は消した。娘は行く果てもなく海を漂い波にのまれ、娘の亡骸が柏崎の浜に打ち上げられた。娘を死なせてしまった男は後悔し後を追って海に身を投げて命を絶った。」
 たかだが伝承の「情話」でしかない。それでも、人びとに永く紡がれ語り続けられることは何を意味しているのだろうか? 男と女の恋物語以上の、人としての「情念」の怖さと凄さとして、また教訓として私は受け止めたい。
 芭蕉は「おくのほそ道」の中で、越後・直江津の地で佐渡についての一句を詠んでいる。                

   荒海や佐渡によこたふ天河

 この句に、私は佐渡の歴史と恋歌の匂いを感じてしまう。


「柏崎市立図書館:佐渡情話」公式サイト

佐渡の文化(1)

 4/12()13()仕事の添乗旅行で新潟・佐渡を訪れた。バスの車窓からの風景、ガイドさんの話から、二つのことが脳裏に浮かび上がった。ひとつは「流刑の島」、もうひとつは「独特な複合文化の島」。
 佐渡は歴史の中で、その当時の政変等で多くの人びとが流人として佐渡に流された。港で買った小冊子「佐渡入門」を参考に流刑を科された著名な人物4名を列挙すると、
文覚上人:北面の武士で、夫ある女人に恋慕して誤って殺害したことを悔い出家した。鎌倉幕府に対抗した陰謀に連座したことにより流刑となった。
順徳天皇:鎌倉幕府転覆に失敗した承久の変で24歳の若さで流刑となり、都に帰ることなく46歳の若さで崩御した。都に帰還できないことを絶望して、自ら餓死したと伝えられる。
日蓮上人:「立正安国論」が鎌倉幕府の逆鱗に触れ、流刑された。その島で主義・思想を結実させた。3年近く後に鎌倉へと戻ることができた。

世阿弥:「花伝書」で知られる能の大成者、将軍足利義政の理不尽な怒りにより、72歳で流刑となった。

 流刑となった人びとは、主にその当時の文化・政治の中心である都(京・鎌倉)にいた。文化的な素養ある人びとが、流刑という汚名を受けながらも、その島に文化を根付かせたことは事実だ。「流刑の島」は、実は「文化の島」なのだ。

佐渡の文化(2)

 佐渡は「流刑の島」だった。概ね都人がその島に住んだ。その時代の中で京文化(貴族文化)の影響を受けた。その後、佐渡が大きく変化したのは、徳川幕府の財政を支えた金山の発見だった。17世紀には世界有数の金の産出量を誇り、多くの人びとが佐渡に居住した。その折に、江戸文化(武士文化)が根づいた。また、佐渡は、西回り航路の寄港地となり、西日本・北陸文化(町人文化)の直接的な影響を受けることになった。
 佐渡の文化は、島でありながらも「貴族文化」「武士文化」「町人文化」が混然一体となった独特な文化を形成した。そのことは、対岸の越後文化とは土壌が大きく相違している。
 
確かに、バスの車窓からの風景は、どこか文化の匂いがした。京・鎌倉から遠く離れたその島で、流刑された人びとは、己の主義・思想・教養を捨てきれずに、また繋げたい、伝えたいと為した生き様が佐渡の文化を形成したのだろう。いかなる状況になろうとも、己の思い、想いを伝える意思と行動があれば、すべてとはいえないだろうが、少なくとも何かは伝わり繋がれていく。佐渡の地を訪れて自分自身で、そのことを再確認した。

「佐渡観光navi~ときめき佐渡」公式サイト

2008年4月30日 (水)

18年前、アンナプルナを望みて

  Img  私のトレッキング許可証

1989年12月31日、ロイヤルネパール空港のチャーター便で、名古屋空港からネパール・カトマンズへ飛んだ。夜遅く、シェルパホテルに着き、宿泊した。1990年1月1日朝早く、カトマンズ空港から空路ポカラへ向かった。おんぼろプロペラ機の窓から眼下にヒマラヤの峰々が広がっていた。飛行中に操縦席を案内してもらった。古ぼけた計器類を見て、今、空を飛んでいることに不安が心の中で渦巻いた。
Img_0002  ポカラ空港からバスで、ビジャャブール・コーラに着いた。トレッキングの始まりだった。広い尾根道を徒歩3時間でその日の宿泊地のカリカタンでキャンプだった。夜は漆黒のヒマラヤ山脈を影絵にして、焚き火を囲み、シェルパたちと歌と踊りに興じた。
 1月2日、アンナプルナ連峰のパノラマを楽しみ、子どもたちに出会いながら、小さな村々が散在する広い尾根を、徒歩5時間かかってシャクルンにたどり着いた。
 1月3日、マナスル山群の遠景も楽しみ、広い尾根道を子どもたちの「ナマステ」という挨拶を交わしながらチソパニに着いた。広い丘の上でのキャンプだった。
 1月4日、チソパニを出発して、ルパ湖を望みながらベグナス湖へと下山した。3泊4日のトレッキングだった。
 今も、なぜ、家族を引き連れて、ネパールに行ったのか論理的には説明しづらい。結果として、ネパールの村々で出会った子どもたちに会い、それから私の人生は大きく変化したことは間違いない。「ナマステ!」と恥ずかしそうに挨拶をしてくれた子どもたちの声が、ときどき耳の中で響くことがある。あの日から、ネパールだけでなく日本の子どもちという存在が、それ以前は思いも着かなかったが、私の視野の中に大きく映りだした。

Img_0001  息子のトレッキング許可証

2008年4月27日 (日)

「北方文化博物館」の藤棚

 4/12(土)・13(日)、仕事の関係で一泊二日で佐渡・新潟方面へ添乗旅行に出かけた。4/13(日)、新発田城跡を見学して、新潟・「北方文化博物館」を訪れた。仕事でありながら、そのことを忘れて興味深く見学した。かつての越後随一の豪農の館だ。豪農というのは、とってつもない財力を持っていたのだと、そして、小作農の礎の上に、その地域の文化を築いたのだと、訪れて見て初めて知った。
 「北方」という言葉自体に自分自身の心が騒いだ。「茶の間」の16間半(30メートル)の一本杉の丸桁に、豪農の計り知れない財力を見た。搾取の上に花開いた豪農の文化に複雑な感慨を抱いた。
 一本の藤の木から、枝が大きく広がった藤棚があった。訪れたのは、春4月、桜満開の時だった。5月には藤の花が満開となるそうだ。その光景を思い描きながら、いつの日か、その季節に訪れてみたい衝動に駆られた。

「北方文化博物館」公式サイト

2008年4月21日 (月)

古びた建築のささやき

 4/20(日、早朝に地下鉄「九段下駅」で降りた。朝早くの「靖国神社」を訪れた。参拝するというものではなく、ただ立ち寄ったというだけでしかない。九段下の交差点から東京国立近代美術館の方へと歩き出した。周りの建築から浮き出たような古びた建築が目に入ってきた。時代を感じさせる外観だった。惹きつけられた。いつの時代のものなのだろう?昭和かそれとも大正・明治か?その建物の前に来た。「九段会館」という名だった。好奇心で建物の中に入った。外観と同様に年代を感じさせる素敵な雰囲気だった。外に出て東京国立近代美術館へ向かった。その建築には何かの匂いが漂っていた。
 その日の夜に、その建築のことが気にかかっていたので、奈良の自宅に帰ってからWebサイトで検索した。そうだったのか、その匂いの正体が判明した。歴史的な事件の場所だったのだ。旧軍人会館。この建物は、 1936年(昭和11年)の2.26事件の時には、ここに戒厳司令部が置かれたのだ。

「九段会館」公式サイト

「建築マップ九段会館」Webサイト

2008年4月15日 (火)

佐渡2008.04(2)

~佐渡金山~

Img_0001 4/12()、佐渡を訪れ見学したところは、「佐渡金山」のみだった。添乗旅行でなければ、興味が湧くところへ気の赴くままに出かけるのだが、仕事なのでやむをえないとあきらめた。「佐渡金山」は400年の歴史がある。徳川幕府の財政を支えた重要な場所だった。当時、「天領」として江戸と佐渡が直結されていた。地底の暗闇の中での過酷な労働が礎となって、徳川幕府の財政が存続しえたのだろう。いつの時代も繁栄の陰には虐げられた人々が存在するのだ。

「史跡 佐渡金山」公式サイト

2008年4月13日 (日)

佐渡2008.04(1)

 2008.04.12()、私は「佐渡」を訪れた。確かに添乗旅行という仕事なのだが、訪れたからには何かを知りたい、学びたいという好奇心が心の中で渦巻いていた。新潟港・佐渡汽船乗り場の観光案内所で、係りの女性に「佐渡全体について書かれたパンフレットはありませんか?」と尋ねると「佐渡入門」という小冊子を差し出してくれた。「ありがとう!」と言うと「100円です」と申し訳なさそうに私を見た。無料というのは都合が良すぎる。快く彼女に100円を差し出し、その小冊子を買った。Img_4
「佐渡」にわたる手段には、一般的にフェリーとジェットフォイルがある。前者は
2時間30分、後者は1時間の所要時間だ。私たちはジェットファイルで「佐渡」にわたった。その船の中で「佐渡入門」という40ページ余りの小冊子を読んだ。定価100円が安価すぎると素直に思った。情報が満載されているのと同時に、「佐渡」の歴史と文化がはじめて訪れる者にわかりやすくまとめられていた。私は、「佐渡」がどのような島なのかについて無知だった。その小冊子は、私に「佐渡」の歴史と文化を認識させてくれた。

2008年4月 2日 (水)

佐伯セントラルホテル

Photo  

 2001年2月12日、,大分県佐伯の町で泊まった。その時の宿泊領収書とパンプレットだ。後生大事にコピ-用紙に糊付けして、本棚の下の引き出しにしまったままであった。捨てようと思いながらも、捨て切れていない。誰かといっしょではなく、独りで宿泊したというエビデンスだ。行き当たりばったりの状況でその町に入り、本屋で宿泊するホテルを捜して、電話を入れた。運よく空室があった。

 今見ると、不思議とPhoto_2その町のことが浮かんでくる。城山に朝早く登り、眼下を見下ろした。佐伯鶴城高校の野球部が練習していた。その声が聞こえた。この城山に、国木田独歩を登ったんだと感慨深い気持ちになったことを覚えている。夜は、町で飲み、部屋に帰っては「二階堂」を飲み本を読んでいた。再びそのホテルに宿泊することはないのかも知れないと、今、「二階堂」を飲みながら、そのように思っている。

「佐伯市観光ガイド」公式サイト

「大分県立佐伯鶴城高校」公式サイト

2008年3月31日 (月)

知覧 2006.03

 2006年の3月、桜もまだ咲いていない春の日に、職場のお客様との恒例の一泊二日の研修旅行で鹿児島方面へ出かけた。鹿児島市内の仙巌園・城山公園を観光し、指宿温泉で一泊して翌日に長崎鼻、知覧を訪れた。その旅行の個人的な見聞メインポイントは「知覧特攻平和会館」だった。館内を巡った。一緒に巡った老齢者の方が「私も彼らと同じ運命になったかもしれない」とポツリと私に言った。その目は潤んでいた。私は冷静に受け止めていた。館内を一巡し外の風に当たった。小雨が降り肌寒かった。

Img   私は戦争を知らない世代だ。「特攻」については近年、歴史としてのさまざまな検証がなされている。「英霊論」と「犬死論」が両極端の見解としてある。私などはそのことに論評する資格はない。ただ、館外に出た瞬間、冷静になろうとするも感情が高ぶったことは事実である。 

 そこに感銘があった。それは、当時の若者たちが書き残した文章・書・短歌を見たとき確かにそこに「教養」というものがあふれていたことだった。私は館内でこの「知覧特別攻撃隊」という若き隊員の遺稿が詰まった本を買った。いずれの思想的な立場からであったとしても、我々は、「広島平和記念資料館」同様に一度は訪れておくべき場所だ。

2008年3月30日 (日)

立石寺(山寺)2007.04

 3/26()日本経済新聞夕刊「夕&Eye・旅」の記事で、山形県・立石寺が取り上げられていた。冒頭は、「山形領に立石寺といふ山寺あり・・・・ことに清閑の地なり。一見すべきよし」(松尾芭蕉「奥の細道」)が引用され、芭蕉気分で出かけたと記されていた。「立石寺」、通称「山寺」に私も出かけたことがある。確かに「一見すべきよし」という芭蕉の言葉が真実であった。

Photo  昨年の春、4/7ー4/8 職場のお客様との恒例の一泊二日の研修旅行で仙台・山形方面へ出かけた。松島、青葉城、秋保温泉、立石寺を巡った。個人旅行気分にもなれず、概ね旅行添乗員のようなものだ。ただ心がけていることは、確かに仕事であることに変わりは無い。概ねお客様の添乗として時間を使う。だが、せっかく出かけたからには、時にはお客様無視で、自分自身に興味のある何かを見聞するようにしている。昨春の旅行の個人的な見聞メインポイントは立石寺(山寺)だった。

立石寺は、奇岩の山肌に仏教建築が点在し、「奥の院」まで千段あまりの石段がつづく東北の一大霊場だ。元禄2年(1689)夏に松尾芭蕉が訪れ、有名な句である「閑(しずか)さや岩にしみいる蝉(せみ)の声」を詠んだ場所である。奇岩が点在した光景は、なぜそのような場所に仏像建築をと思わざるをえないほどの不可思議さと荘厳さが漂っていた。その時代の人々の信仰心の強さと生きようとするエネルギ-が、人の寄り付きそうもない奇岩ひしめく山肌に仏教建築を造りだしえたのだろう。

(Photo:2007.04.08)

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「山寺観光協会・山寺の歩き方」公式サイト

2008年3月 1日 (土)

東京散歩2008.02(6)

Photo (Photo 2008.2.16)

~救世軍本営~

 2/16(土)神田神保町交差点近くの「救世軍本営」の前を通った。「救世軍」とは、イギリスに本部を置き世界の国々で活動する国際的なキリスト教(プロテスタント)の団体である。詳しい歴史は知らないが「軍隊のような」組織を有している。写真は、「救世軍本営」であると同時に「救世軍神田小隊」がある建物だ。

2008年2月27日 (水)

東京散歩2008.02(5)

Photo (Photo 2008.2.16)

~「日本航空発始の地」~

2/16(土)夕刻に、代々木公園のはずれにある「日本航空発始の地」に立ち寄った。代々木公園は、もとは陸軍代々木練兵場だった。19101219日に、徳川大尉が4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功。次いで日野大尉も、1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。日本における最初の飛行、航空の始まりとされている。

100年近く前にこの場所で空への想いを抱き、挑戦した人々がいたことは事実だ。その碑の前でたたずみ、周りを見回した。誰もいない。観光の名所とはなりにくいが、それでいいではないか。ひっそりとその場所を訪れようとする人々がいるのだから。

2008年2月23日 (土)

東京散歩2008.02(4)

Photo (明治神宮参道 奉献 清酒菰樽)

~明治神宮の酒樽・葡萄酒樽~

 2/16(土)午後、明治神宮の杜を歩いた。私は正直言えば信心深い人間ではないし、特定の宗教にも帰依していない。私の実家は真言宗である。なぜそのような場所に行くのかと否定的な想いを抱いている方々もいる。私などは政治思想(イデオロギ-)、宗教思想から自由な身でいたいとかねがね思っている。ただその場所が東京という都会の中で静寂を感じさせてくれる魅力あるひとつの場所だ。静けさをを感じたいと思い明治神宮の杜に立ち寄った。

都会の中にありながら杜の中での静けさを再確認するとともに、酒樽・葡萄酒樽が参道横に並んでいたことに興味を抱いた。かつて訪れた時には気づかなかった。おそらく以前からあったのだろう。その日、その時の自分自身の好奇心を安価なデジカメで写真として収めた。ただの樽の列でしかないが、そこには人それぞれの想いが献酒という行為に繋がっている現実を垣間見た。

Photo_2 (明治神宮参道 フランス・ブルゴーニュ地方醸造元からの葡萄酒献酒)

2008年2月20日 (水)

東京散歩2008.02 (3)

Photo (Photo 2008.2.16)

2/16(土)午後、国立代々木競技場に立ち寄った。独特な個性ある建築だ。親子のカタツムリのようだ。東京オリンピックでは第一体育館は水泳会場、第二体育館はバスケットボ-ル会場に使用された。東京オリンピックといえば、美しく珍妙なこの建築が私にとっては印象深い。世界でも類をみない吊り屋根方式で、建築家・丹下健三氏が設計した建物である。建築後40年余りが経過しているが、斬新なデザインは芸術性をおびていて古臭さを感じさせない。とても好きな建築のひとつである。

「国立代々木競技場」公式サイト

Photo_2 (Photo 2008.2.16)

2008年2月19日 (火)

東京散歩2008.02 (2)

014 (Photo 2008.2.16)

~麗しい「ミロンガ」~

2/16(土)夕刻、「浅草厨房」を出て、近くの「ミロンガ・ヌォ-バ」へ寄った。世界のビールがメニューに並んでいるが、ありきたりの銘柄である「レーベン・ブロイ」を注文した。またも「事業計画書」をバックから取り出し、三色ボールペンを持ち、その書類を見直した。広いテーブルなのでその上に書類を乗せてページを繰った。

ひと段落して店内を見渡した。まわりの客はコ-ヒーを飲んでいた。斜め迎えの中年男性は目を閉じながら、スピーカーから流れてくる曲に耳を傾けていた。私は「レーベン・ブロイ」をもう一本注文した。タンゴについての詳しい知識を私は持ち合わせていないが、どこか下町の民衆の匂いがするタンゴに私は魅かれる。

東京へは煩雑に行くことができないのが残念である。行けば出来るだけその店に立ち寄る。そのたびに、居心地の良さを感じる。店員さんも品位がある。ブエノスアイレスの下町で生まれたタンゴが流れ、路地裏にひっそりとたたずむ「ミロンガ・ヌォ-バ」は、私にとっての麗しい場所だ。

2008年2月17日 (日)

東京散歩2008.02(1)

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「わが反省会 神保町・浅草厨房にて」 

 2/16(土)午後、「公認クラブマネジャ-検定試験」を終え、「事業計画書」のプレゼンと口頭試問の試験受けたが自己評価で不出来だった。代々木近辺をさ迷った後に、知った人々には、その時の落ち込んでいる姿は見られては居ないが、このままでは、おめおめと奈良には帰れない。これは反省会をしなければと自分自身で思った。

携帯電話という便利な伝達手段がある。「今から、東京の神保町で、僕の反省会をします。お集まりください!」と地元奈良の面々に電話したって常識的に考えても誰も来るはずがない。やむなく、一人で神保町の安居酒屋で挙行することにした。東京メトロ千代田線の代々木駅から乗り、表参道駅で半蔵門線に乗り換えて神保町駅で降りた。

夕刻、神田すずらん通り入口近く、三省堂書店裏にある安価な「浅草厨房」に入った。ビールを注文し、わが「事業計画書」(26ページ)を開き、右手に三色ボールペンを持ち最初から読み直した。酔いながらも至らない点が浮かび上がってきた。焼酎お湯割を頼んだ。店員も、わが「事業計画書」を横目で見た。何をしているのだろう?と疑問が生じたのだろう。競馬か競輪の予想をしているのかと思ったかもしれない。残念だが店員の予想は間違いなく外れている。

私は心の中でつぶやいた。~奈良からスポーツ関係の試験を受けるために来ている。その反省会だ! 試験のために東京にやって来たのは19歳の大学受験以来だ。あの時も出来が悪かった。35年後の今日もだ! あの時は酒を飲めなかったから、近くの「ミロンガ」でコーヒーを飲んだ。35年前と同様に落ち込んでいる。二次会は近くの「ミロンガ」だ!~ 2,000円余りのお金を払ってその店を出た。

2008年2月 3日 (日)

「会津藩・什の掟と日新館」(7)

200110月、「異年齢」「地域」「教育」という三つのキーワードを胸に、私は会津若松市にある「会津藩校日新館」を訪れた。地域でのサッカーという場に関わり、私にとってその場がただなんとなくスポーツをする場というだけでなく、子どもたちの成長にとって、将来の糧になるヒントを得る学びの場であると常々思っていた。しかし、子どもたちの「自律」「自立」「規範」という概念の薄さを感じていた。それは子どもたちの責任ではなく、先に生きている私たち大人の責任が大きい。

Img_0004 日本人に「品格」を問い、ベストセラーとなった藤原正彦氏の「国家の品格」(2005.11)でも、「会津藩の教え」として「什の掟」を紹介している。田嶋幸三氏の「言語技術が日本のサッカーを変える」(2007.11)の中でも、数ページにわたり「什の掟」のことを論じている。「『日新館』という藩校を中心とした会津若松の子弟教育からJFAアカデミーのスタッフは多くのヒントを得ることができました。」「日本流サッカーを作り上げていくためのヒントでもあるのです。」「什の掟」は「人間として絶対に身につけなければならない、自分の意思決定の基準を表した内容です。」と

Img_0005 サッカー関係の書籍の中で、私は上記のような言葉を初めて見た。現代でいうプレ・ゴールデンエイジの時期に、かつては「郷中教育」「什の掟」の教育内容が実践されていた。われわれはそのようなことを実践しているのであろうか。そのことを成さずに時が経過した時、ジュニア高学年、ジュニアユース、ユース、トップとつけを回すような状況になる。習慣は幼い頃からの積み重ねである。サッカーおよび人間としての「よい習慣」はやはりジュニア年代から積み重ねるべきものである。エリート教育の側面からではなく、地域でのノーマル教育としてジュニア年代の「自律」「自立」「規範」に関するコーチングは不可欠である。()

「会津藩・什の掟と日新館」(6)

下北半島・斗南藩で少年期を過ごし、のちに陸軍大将に上り詰めた柴五郎は、「ある明治人の記録」の中で、「幾たびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢すでに八十路を越えたり。落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移村されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥(しとね)なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆(むしろ)を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消えうせて、いまは知る人もまれとなりにけり」と屈辱のおもいを激情を抑え書いた。

Img_0003 作家・司馬遼太郎は「会津について書きたい。なにから書きはじめていいかわかないほどに、この藩についての思いが、私の中で濃い。」「権力の座に着いた一集団が、敗者にまわった他の一集団をこのようにしていじめ、しかも勝利者の側から心の痛みをみせなかったというのは、時代の精神の腐った部分であったといっていい。」「歴史のなかで、都市ひとつがこんな目に遭ったのは、会津若松市しかない。」と「街道をゆく:白河・会津の道:会津藩」の中で書いている。

そのような悲惨な歴史を持つ会津藩から、その屈辱に負けず、「白虎隊」の生き残りでありながらも、東京帝国大学総長を務めた山川健次郎などの多数の有能な人材が輩出した。その根底にあったのは、「什」や「日新館」に象徴される会津藩の教育理念の発露であった。藩が屈辱と悲惨な歴史を歩んだが、人材が育ったことは事実である。

「会津藩・什の掟と日新館」(5)

会津藩は幕末期から明治維新期にかけて、悲惨な歴史を負わされた。「朝敵」という汚名を着せされ、標的となりその城下は壊滅状況に追い込まれた。「白虎隊」のものがたり、城に籠城し最後の戦いをしなければならなかった時に、足手まといになっては、恥をさらしてはならないと幾多の婦女子の自害のものがたりは悲惨を極めた。

明治維新期を迎える最後の戦いである戊辰戦争後、会津藩は凄惨な運命をたどらされた。明治維新政府は、降伏した会津藩をシベリア流刑のごとくに処し、下北半島に追いやり斗南藩とした。過酷な風土の下、農作物の生産もおぼつかず、草根木皮を食べながら赤貧のくらしの中でも、大人たちは誇りを失わず、その地に移住した子弟のために教育を施したという。

「会津藩・什の掟と日新館」(4)

「什の掟」

一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ

一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ

一、嘘言を言うことはなりませぬ

一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ

一、弱い者をいじめてはなりませぬ

一、戸外で物を食べてはなりませぬ

一、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

 ならぬことはならぬものです

Img_0002 これが、「什の掟」、会津藩幼年者である六歳~九歳の子どもたちの決まりごとだ。その掟の中には、確かに現代という時代にマッチしない事柄もある。しかし概ねその規範は現代でも通用するし、大人たちが教え伝えることを忘れ怠った事象が、現実に子どもたちの日常生活の中で「負の現象」として現れている。古臭いと思う前に、「温故知新、故(ふるき)を温(たず)ねて新しきを知れば、以って師(し)たるべし」。

「会津藩・什の掟と日新館」(3)

会津藩における「什」は、六歳~九歳の子どもたちの自治組織で、大人たちが取り仕切るものではなかったし、「什」内部に口出しはしなかった。そのことは、自己責任・社会性を習得させようとする会津藩の青少年教育の根幹を成した。基本的には「什」は「あそび」ための集団であった。その集団には自制を失い行動の危険性が生じるというリスクがある。そのリスク回避のため、集団の規範として「什の掟」があった。毎日全員で「什の掟」を確認した。

「什」の子どもたちは、午前中は家や寺小屋で学び午後はあそびの時間だった。順番に各家に集まり、あそぶ前に「什の掟」を確認しあう。これを「お話の什」と呼んだ。順番で決められた家では、夏は水、冬は湯以外出してはならなかった。子どもたちの将来のため、自律・規範・社会性を育むために「贅沢」「物」は必要がなかった。「什の掟」は会津藩の幼少者にとって「規範」として必ず守らなければならないものだった。

「会津若松市観光公社」Webサイト

「会津藩・什の掟と日新館」(2)

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 会津藩は人材育成のため青少年の教育を藩の根幹に置いた。その中心施設が「藩校日新館」であった。訪れて驚いたのは、広大な敷地の中に現代的な言葉を使えば、「講堂」「図書館」「プール」「天文台」等、現代の学校にある施設の大半がそこにあった。藩の男の子どもたちは、十歳になると「日新館」の素読所(小学)に入学する。成績によるが十六~十八歳ぐらいになるとその上位の講釈所(大学)で学ぶ。特に優秀な生徒は、日新館を修了すると藩費で、江戸、他藩に遊学することも出来た。

 「日新館」入学前の六歳~九歳までの子どもたちは、「日新館」での生活の準備段階として、住んでいる地区ごとに異年齢の十人程度の組に分かれた。子どもたち同士の中で自律・社会性を学ぶ場とした。この「組」のことを「什」(じゅう)という。まだ幼い子どもたちにとって、「什」では「あそび」が中心となっていた。「あそびの什(じゅう)」と言われていた。幼い子どもたちに「あそび」を通じて自律・社会性を育むことを、会津藩は藩の方針とした。

「会津藩校日新館」Webサイト

2008年1月31日 (木)

「会津藩・什の掟と日新館」(1)

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 200183日に熊本から人吉を経て、鹿児島に立ち寄った。その地の「黎明館」で、私は「郷中教育」(ごじゅうきょういく)という言葉を初めて知った。「異年齢」・「地域」・「教育」というキ-ワ-ドが脳裏にこびりついた。「郷中教育」とは、薩摩藩独特の教育であった。45町(約440550メ-トル)四方の「方眼」(ほうぎり)と呼ばれるエリアを基盤とする。概ね4080戸中で居住する青少年を教育する仕組みであった。その根幹を成したのは、

●武士道の義を実践せよ  ●心身を鍛錬せよ  ●嘘を言うな  ●負けるな  ●弱いものいじめをするな ●質実剛健たれ

大人たちはただのアドバイザーとして、子どもたちを主体として「人間の行うべきすじみち」を日常生活の中で育もうとする地域の教育の仕組みがそこに存在した。当時の教育水準の高さを誇った薩摩藩の「郷中教育」と並び称されるものに、「白虎隊」で有名な会津藩の「什」(じゅう)があることをその時初めて知った。20011013日に、私はある想いを抱いて福島県会津若松市にある「藩校日新館」を訪れた。

2008年1月20日 (日)

「曽根崎心中」ゆかりの碑にて(1)

1/20()、仕事関係の用事で大阪・梅田に出かけた。わずらわしい所要が済んだので、高架下の新梅田食堂街の立ち食いの串かつ屋で、スーツ姿のままビ-ルを飲み串かつ4本を食べた。広い店内では多くの従業員が忙しそうに働いている。その多くは中国人である。

その店の中でひときわ異彩を放つほど美しい女性がいた。最初は日本人だと思っていたが、隣の壮年男性がその女性に、正月に中国へ帰ったかどうかを聞いていた内容から中国人であるとわかった。別に北新地のラウンジで働いていても、その容姿からも可笑しくはない。ビールを飲みながら「楊貴妃」を思い描き、この店の「マドンナ」だ!と心の中でひとりつぶやいていた。

「曽根崎心中」ゆかりの碑にて(2)

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まっすぐ帰宅するのも能はない、寄り道、回り道が人の視野を広げる。サッカーのテキストにも「視野の確保」の重要性が説かれている。視野を広げるぞ!と自分勝手な思い込みで、あの「マドンナ」が何らかの契機となり、近松門左衛門の人形浄瑠璃「曽根崎心中」の舞台となった曽根崎センター街はずれにある「お初天神」に立ち寄った。

「此世のなごり。夜もなごり。死に行く身を たとふれば あだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く。夢の夢こそあわれなれ。・・・・・誰が告ぐるとは  曽根崎の森の下 風音に聞え 取伝え貴賎群集の回向の種。未来成仏 疑ひなき恋の。手本となりにけり。」と近松門左衛門は「曽根崎心中」に名文で記した。

「曽根崎心中」ゆかりの碑にて(3)

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庶民の絶大な好評を得て、お初・徳兵衛の恋物語として「曽根崎心中」は後の世に語り継がれた。「お初天神」は正式には「露(つゆ)天神社」という。「曽根崎心中」の絶大なる影響により「お初天神」と呼ばれるようになった。現在でも、「恋の成就」を願う若者たちの参拝が絶えないという。

私は「心中」などに憧れはない。「死の哲学」ではなく「生の哲学」だ。とかっこよく強がって言ったとしても、それはそのような体験もできない負け犬の遠吠えなのだろう。「もし、あなたが恋をしたいと思ってもそんな相手はできません。片思いのままです」「だれがあんたを恋の相手になど選ぶもんですか」という言葉が聞こえてきそうだ。

Photo_3 「曽根崎心中」のような世界は、私には無縁であることは百も承知している。しかし、死んでいく「心中」といものは回避したいが、「心の中」を奪われるような体験がしてみたいとは思いませんか。「恋」(れん)とは「想い慕うこと」とするならば、人それぞれの対象は森羅万象さまざまな領域があるのでしょう。その対象が、私にとって「異性」であったならば大きな問題が生じてくるが、別の何かであるならば、なんら問題はないのでしょう。「曽根崎心中 ゆかりの碑」の前に立ち、己にとって、「恋」(れん)とは? その対象があるのか?ないのか? ほろ酔い気分の中で自問自答した。

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