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2008年5月 6日 (火)

「佐渡情話」

 佐渡へ添乗旅行に出かけた折に、バスガイドさんとなにげなく会話をかわした。「たらい舟」の話になり、昔の記憶がおぼろげながら浮かんできた。ガイドさんに聞いた。「たらい舟に乗り女の人が海を越えて対岸まで渡った恋物語があったなあ?」「それは佐渡情話です!」と答えてくれた。ああ!そうだ!「佐渡情話」だった。忘れかけていた。
 佐渡情話(さどじょうわ)は、佐渡に伝わる島の娘と対岸の越後の男との悲恋の民話だ。「むかし佐渡に漁師の娘がいた。娘は対岸の柏崎から来た船大工の男と恋に落ちた。二人は佐渡で逢瀬を重ねた。仕事がなくなり男は佐渡へ来なくなった。娘は恋情の末、夜にたらい乗って海を渡り、対岸の柏崎まで通う事にした。妻子がいる男は、最初は喜んだが恐ろしさを感じた。ある夜、娘が海を渡る目印していた柏崎の岬にある常夜灯を男は消した。娘は行く果てもなく海を漂い波にのまれ、娘の亡骸が柏崎の浜に打ち上げられた。娘を死なせてしまった男は後悔し後を追って海に身を投げて命を絶った。」
 たかだが伝承の「情話」でしかない。それでも、人びとに永く紡がれ語り続けられることは何を意味しているのだろうか? 男と女の恋物語以上の、人としての「情念」の怖さと凄さとして、また教訓として私は受け止めたい。
 芭蕉は「おくのほそ道」の中で、越後・直江津の地で佐渡についての一句を詠んでいる。                

   荒海や佐渡によこたふ天河

 この句に、私は佐渡の歴史と恋歌の匂いを感じてしまう。


「柏崎市立図書館:佐渡情話」公式サイト

佐渡の文化(1)

 4/12()13()仕事の添乗旅行で新潟・佐渡を訪れた。バスの車窓からの風景、ガイドさんの話から、二つのことが脳裏に浮かび上がった。ひとつは「流刑の島」、もうひとつは「独特な複合文化の島」。
 佐渡は歴史の中で、その当時の政変等で多くの人びとが流人として佐渡に流された。港で買った小冊子「佐渡入門」を参考に流刑を科された著名な人物4名を列挙すると、
文覚上人:北面の武士で、夫ある女人に恋慕して誤って殺害したことを悔い出家した。鎌倉幕府に対抗した陰謀に連座したことにより流刑となった。
順徳天皇:鎌倉幕府転覆に失敗した承久の変で24歳の若さで流刑となり、都に帰ることなく46歳の若さで崩御した。都に帰還できないことを絶望して、自ら餓死したと伝えられる。
日蓮上人:「立正安国論」が鎌倉幕府の逆鱗に触れ、流刑された。その島で主義・思想を結実させた。3年近く後に鎌倉へと戻ることができた。

世阿弥:「花伝書」で知られる能の大成者、将軍足利義政の理不尽な怒りにより、72歳で流刑となった。

 流刑となった人びとは、主にその当時の文化・政治の中心である都(京・鎌倉)にいた。文化的な素養ある人びとが、流刑という汚名を受けながらも、その島に文化を根付かせたことは事実だ。「流刑の島」は、実は「文化の島」なのだ。

佐渡の文化(2)

 佐渡は「流刑の島」だった。概ね都人がその島に住んだ。その時代の中で京文化(貴族文化)の影響を受けた。その後、佐渡が大きく変化したのは、徳川幕府の財政を支えた金山の発見だった。17世紀には世界有数の金の産出量を誇り、多くの人びとが佐渡に居住した。その折に、江戸文化(武士文化)が根づいた。また、佐渡は、西回り航路の寄港地となり、西日本・北陸文化(町人文化)の直接的な影響を受けることになった。
 佐渡の文化は、島でありながらも「貴族文化」「武士文化」「町人文化」が混然一体となった独特な文化を形成した。そのことは、対岸の越後文化とは土壌が大きく相違している。
 
確かに、バスの車窓からの風景は、どこか文化の匂いがした。京・鎌倉から遠く離れたその島で、流刑された人びとは、己の主義・思想・教養を捨てきれずに、また繋げたい、伝えたいと為した生き様が佐渡の文化を形成したのだろう。いかなる状況になろうとも、己の思い、想いを伝える意思と行動があれば、すべてとはいえないだろうが、少なくとも何かは伝わり繋がれていく。佐渡の地を訪れて自分自身で、そのことを再確認した。

「佐渡観光navi~ときめき佐渡」公式サイト

2008年4月30日 (水)

18年前、アンナプルナを望みて

  Img  私のトレッキング許可証

1989年12月31日、ロイヤルネパール空港のチャーター便で、名古屋空港からネパール・カトマンズへ飛んだ。夜遅く、シェルパホテルに着き、宿泊した。1990年1月1日朝早く、カトマンズ空港から空路ポカラへ向かった。おんぼろプロペラ機の窓から眼下にヒマラヤの峰々が広がっていた。飛行中に操縦席を案内してもらった。古ぼけた計器類を見て、今、空を飛んでいることに不安が心の中で渦巻いた。
Img_0002  ポカラ空港からバスで、ビジャャブール・コーラに着いた。トレッキングの始まりだった。広い尾根道を徒歩3時間でその日の宿泊地のカリカタンでキャンプだった。夜は漆黒のヒマラヤ山脈を影絵にして、焚き火を囲み、シェルパたちと歌と踊りに興じた。
 1月2日、アンナプルナ連峰のパノラマを楽しみ、子どもたちに出会いながら、小さな村々が散在する広い尾根を、徒歩5時間かかってシャクルンにたどり着いた。
 1月3日、マナスル山群の遠景も楽しみ、広い尾根道を子どもたちの「ナマステ」という挨拶を交わしながらチソパニに着いた。広い丘の上でのキャンプだった。
 1月4日、チソパニを出発して、ルパ湖を望みながらベグナス湖へと下山した。3泊4日のトレッキングだった。
 今も、なぜ、家族を引き連れて、ネパールに行ったのか論理的には説明しづらい。結果として、ネパールの村々で出会った子どもたちに会い、それから私の人生は大きく変化したことは間違いない。「ナマステ!」と恥ずかしそうに挨拶をしてくれた子どもたちの声が、ときどき耳の中で響くことがある。あの日から、ネパールだけでなく日本の子どもちという存在が、それ以前は思いも着かなかったが、私の視野の中に大きく映りだした。

Img_0001  息子のトレッキング許可証

2008年4月27日 (日)

「北方文化博物館」の藤棚

 4/12(土)・13(日)、仕事の関係で一泊二日で佐渡・新潟方面へ添乗旅行に出かけた。4/13(日)、新発田城跡を見学して、新潟・「北方文化博物館」を訪れた。仕事でありながら、そのことを忘れて興味深く見学した。かつての越後随一の豪農の館だ。豪農というのは、とってつもない財力を持っていたのだと、そして、小作農の礎の上に、その地域の文化を築いたのだと、訪れて見て初めて知った。
 「北方」という言葉自体に自分自身の心が騒いだ。「茶の間」の16間半(30メートル)の一本杉の丸桁に、豪農の計り知れない財力を見た。搾取の上に花開いた豪農の文化に複雑な感慨を抱いた。
 一本の藤の木から、枝が大きく広がった藤棚があった。訪れたのは、春4月、桜満開の時だった。5月には藤の花が満開となるそうだ。その光景を思い描きながら、いつの日か、その季節に訪れてみたい衝動に駆られた。

「北方文化博物館」公式サイト

2008年4月21日 (月)

古びた建築のささやき

 4/20(日、早朝に地下鉄「九段下駅」で降りた。朝早くの「靖国神社」を訪れた。参拝するというものではなく、ただ立ち寄ったというだけでしかない。九段下の交差点から東京国立近代美術館の方へと歩き出した。周りの建築から浮き出たような古びた建築が目に入ってきた。時代を感じさせる外観だった。惹きつけられた。いつの時代のものなのだろう?昭和かそれとも大正・明治か?その建物の前に来た。「九段会館」という名だった。好奇心で建物の中に入った。外観と同様に年代を感じさせる素敵な雰囲気だった。外に出て東京国立近代美術館へ向かった。その建築には何かの匂いが漂っていた。
 その日の夜に、その建築のことが気にかかっていたので、奈良の自宅に帰ってからWebサイトで検索した。そうだったのか、その匂いの正体が判明した。歴史的な事件の場所だったのだ。旧軍人会館。この建物は、 1936年(昭和11年)の2.26事件の時には、ここに戒厳司令部が置かれたのだ。

「九段会館」公式サイト

「建築マップ九段会館」Webサイト

2008年4月15日 (火)

佐渡2008.04(2)

~佐渡金山~

Img_0001 4/12()、佐渡を訪れ見学したところは、「佐渡金山」のみだった。添乗旅行でなければ、興味が湧くところへ気の赴くままに出かけるのだが、仕事なのでやむをえないとあきらめた。「佐渡金山」は400年の歴史がある。徳川幕府の財政を支えた重要な場所だった。当時、「天領」として江戸と佐渡が直結されていた。地底の暗闇の中での過酷な労働が礎となって、徳川幕府の財政が存続しえたのだろう。いつの時代も繁栄の陰には虐げられた人々が存在するのだ。

「史跡 佐渡金山」公式サイト

2008年4月13日 (日)

佐渡2008.04(1)

 2008.04.12()、私は「佐渡」を訪れた。確かに添乗旅行という仕事なのだが、訪れたからには何かを知りたい、学びたいという好奇心が心の中で渦巻いていた。新潟港・佐渡汽船乗り場の観光案内所で、係りの女性に「佐渡全体について書かれたパンフレットはありませんか?」と尋ねると「佐渡入門」という小冊子を差し出してくれた。「ありがとう!」と言うと「100円です」と申し訳なさそうに私を見た。無料というのは都合が良すぎる。快く彼女に100円を差し出し、その小冊子を買った。Img_4
「佐渡」にわたる手段には、一般的にフェリーとジェットフォイルがある。前者は
2時間30分、後者は1時間の所要時間だ。私たちはジェットファイルで「佐渡」にわたった。その船の中で「佐渡入門」という40ページ余りの小冊子を読んだ。定価100円が安価すぎると素直に思った。情報が満載されているのと同時に、「佐渡」の歴史と文化がはじめて訪れる者にわかりやすくまとめられていた。私は、「佐渡」がどのような島なのかについて無知だった。その小冊子は、私に「佐渡」の歴史と文化を認識させてくれた。

2008年4月 2日 (水)

佐伯セントラルホテル

Photo  

 2001年2月12日、,大分県佐伯の町で泊まった。その時の宿泊領収書とパンプレットだ。後生大事にコピ-用紙に糊付けして、本棚の下の引き出しにしまったままであった。捨てようと思いながらも、捨て切れていない。誰かといっしょではなく、独りで宿泊したというエビデンスだ。行き当たりばったりの状況でその町に入り、本屋で宿泊するホテルを捜して、電話を入れた。運よく空室があった。

 今見ると、不思議とPhoto_2その町のことが浮かんでくる。城山に朝早く登り、眼下を見下ろした。佐伯鶴城高校の野球部が練習していた。その声が聞こえた。この城山に、国木田独歩を登ったんだと感慨深い気持ちになったことを覚えている。夜は、町で飲み、部屋に帰っては「二階堂」を飲み本を読んでいた。再びそのホテルに宿泊することはないのかも知れないと、今、「二階堂」を飲みながら、そのように思っている。

「佐伯市観光ガイド」公式サイト

「大分県立佐伯鶴城高校」公式サイト

2008年3月31日 (月)

知覧 2006.03

 2006年の3月、桜もまだ咲いていない春の日に、職場のお客様との恒例の一泊二日の研修旅行で鹿児島方面へ出かけた。鹿児島市内の仙巌園・城山公園を観光し、指宿温泉で一泊して翌日に長崎鼻、知覧を訪れた。その旅行の個人的な見聞メインポイントは「知覧特攻平和会館」だった。館内を巡った。一緒に巡った老齢者の方が「私も彼らと同じ運命になったかもしれない」とポツリと私に言った。その目は潤んでいた。私は冷静に受け止めていた。館内を一巡し外の風に当たった。小雨が降り肌寒かった。

Img   私は戦争を知らない世代だ。「特攻」については近年、歴史としてのさまざまな検証がなされている。「英霊論」と「犬死論」が両極端の見解としてある。私などはそのことに論評する資格はない。ただ、館外に出た瞬間、冷静になろうとするも感情が高ぶったことは事実である。 

 そこに感銘があった。それは、当時の若者たちが書き残した文章・書・短歌を見たとき確かにそこに「教養」というものがあふれていたことだった。私は館内でこの「知覧特別攻撃隊」という若き隊員の遺稿が詰まった本を買った。いずれの思想的な立場からであったとしても、我々は、「広島平和記念資料館」同様に一度は訪れておくべき場所だ。

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