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2013年4月27日 (土)

「バタヤン」、歌手・田端義夫 逝く! 

  4月25日(木)、「バタヤン」の愛称で慕われていた歌手・田端義夫さんが亡くなった。94歳だった。戦前・戦中・戦後を通じて、活躍し続けて来られた偉大な庶民派歌手だ。ご冥福を祈る。

  私が子どもの頃、恐らく「島育ち」という歌がヒットした昭和37年頃だろうか。テレビで見た歌手・田端義夫さんの「オース!」という声とともにギターを水平に抱えたその姿が強烈な印象として残っている。

  祖母、父母とテレビで歌手・田端義夫が出てくる光景を覚えている。祖母は「バタヤンや!」と声を出してにこやかに笑ったりしていた。自然とその場の家族の雰囲気が和んだ。

  10年あまり前に、ふとしたことで、歌手・田端義夫さんが、大正末期から昭和初期の子どもの頃に、7年近く鶴橋近辺に住んでいたことを知った。

  手元にある「東成区史」を繰ると、大正14年(1925年)に、大阪市は大都市発展への都市政策として市域拡張を実施した。旧来の四区(東・西・南・北)・三郡(東成・西成・住吉)制から十三区制へと移行して、その年、「東成」は「郡」から「区」となった。

  同じく「東成区史」を見ると、東成区の人口は大正14年が13万9千人だったのが、昭和5年には33万1千人と2,4倍に増加した。「東成」は大阪市の周縁地として、さまざまな地域から人々が流入したのだろう。

  そのような時代に、歌手・田端義夫さんは家族ともども三重から、また、私の祖父母は、岐阜・愛知から、鶴橋・猪飼野へと移り住んだ。概ね同時期であったのだろう。祖母は「バタヤン」がテレビに出るとよく見ていた。それは、なぜか。

  田端義夫さんは、その後、名古屋へと出てさまざまな職業に従事してのちに歌手デビューを果たした。鶴橋・名古屋という二つの地が、恐らく祖母の心の中で、田端義夫さんに対する何かの思い入れに通じたのだろう。、50年前の路地裏のわが家で、田端義夫のレコードがあったことを、確かに私は覚えている。

  5月から、映画「オース!バタヤン」の公開が決定していた。それに先立ち、歌手・田端義夫は逝った。ただただ小学校3年生までしか暮らしていない鶴橋を「人情のある町」「思い入れのある地」と思い続けていたのだろうか。

 2006年、彼の母校・大阪市立北鶴橋小学校講堂での凱旋公演の映像が、その映画で垣間見れる。1922年、当時の鶴橋第ニ尋常小学校(現:北鶴橋小学校)から分離開校したのが、鶴橋尋常第三小学校(現:大成小学校)だ。わが母校である。

 わが実家から距離的には一番近い場所にある小学校が北鶴橋小学校だ。縁(えにし)は確かにある。6月1日から、その映画は大阪・「梅田テアトル」で上映される。必ず観にゆく。

「映画:オース!バタヤン」公式サイト

「ブラジル公演の思い出2006」You tube サイト

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