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2013年1月 2日 (水)

NHK大河ドラマ「八重の桜」に、「会津」を想いて



 
  NHK大河ドラマ「八重の桜」が放映されるという。日頃はテレビを見ることは少ない。また、NHK大河ドラマも見ることもない。でも、「八重の桜」を観たいという気持ちが湧いている。

  なぜか? 確かに、主人公・新島八重(旧姓・山本八重)の生涯だけでなく、そこに、少なくとも「会津藩」の歴史とその人々の姿が描き出されるだろうと思うから。
 
  以前、自分自身の「会津藩」の歴史に対する認識は、明治新政府軍に対しての「朝敵」「賊軍」という、あくまでも教科書的な、ささやかな知識しか持ち合わせていなかった。

  2011年夏、インターハイが熊本で開催された。その折に、鹿児島まで足を伸ばした。「黎明館」に入り、薩摩「郷中教育」のこと、またその当時教育レベルが高かった会津藩藩校「日新館」のことを初めて知った。

  その秋、国体が宮城県仙台市で行われた。これ幸いに仙台へと向かった。競技日前日に福島から会津若松へと立ち寄った。いの一番に駅からタクシーで会津藩藩校「日新館」へ向かった。

  その館内をゆっくりと観覧した。そこで、「会津藩幼年者 什の掟」のことを初めて知った。観終えたその時、感情の起伏が生じた。ひとことで言えば、「会津藩」のほんとうの歴史を少し知った。

 自分自身、無知極まりなかったことを恥じた。「会津藩」は、「朝敵」「賊軍」ではないという直観が湧いた。

「会津藩校 日新館」公式サイト

 


  その年の冬だったろうか。司馬遼太郎の「街道をゆく33」に収録されていた「会津藩」を、偶然に読む機会を得た。

 その冒頭の一文は、「会津藩について書きたい。なにから書きはじめていいかわからないほどに、この藩についての思いが、私の中で濃い。」と記されていた。その一文が、「会津藩」について知りたいという始めとなった。

  上の写真は、会津藩関係で読んだ中での新書・文庫本関係の一部だ。それらを読み進むうちに、会津藩校「日新館」で直観した思いが、間違いではなかったことを確認できた。

  その中で、感涙するほどの感銘を受けた本があった。司馬遼太郎「会津藩」の末尾で紹介されていた「ある明治人の記録~会津人柴五郎の遺書」(中公新書)だった。

  明治政府は降伏した会津藩を藩ぐるみで下北半島に追いやり斗南藩とした。その下北の激寒地で、寒さと餓えと、「朝敵」「賊軍」との汚名、屈辱にさいなまれながら、10歳からの少年期を過ごさざるをえなかった会津人・柴五郎の遺文である。

  のちに陸軍大将まで立身出世し、上り詰めた会津人・柴五郎が、昭和20年、87歳で亡くなる3年前に、屈辱多かった少年期の頃を回想してこの遺文を綴ったものだ。

  その冒頭、「血涙の辞」で、「いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢(よわい)すでに八十路(やそじ)を超えたり。」という書き出しで始まる。

 血涙あふれた記録は、明治維新後の近代の歴史の「明」は、その「暗」の上に突き進んだということを知らしめてくれる、悲痛で貴重なものだ。

 NHK大河ドラマ「八重の桜」が放映されるというので、「ある明治人の記録~会津人柴五郎の遺書」を読み直した。読む進むうちに、抑えることもできずに涙がページに落ちた。

  司馬遼太郎は、会津藩のことを「私の中で濃い」と記した。同感、共鳴、琴線に触れる自分自身の思いでもある。 

  NHK大河ドラマ「八重の桜」が、会津で生まれ育った新島八重(旧姓山本八重)の生涯をどのようなドラマとして組み立てるのかは知らない。  ただ、彼女の生き方に敬服する。それは、「会津藩」の礎の上に立ったものであったろう。

  「朝敵」「逆賊」という意図的なレッテルを貼られた「会津藩」は敗れ去り、滅んだかのようであるが、その「会津魂」は冷厳な事実として生き続け、多くの人材を世に繋いだ。「会津」の精神は、今、見直されている。

「NHK大河ドラマ 八重の桜」公式サイト


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