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2012年2月25日 (土)

旧大成通の町、「路地の石畳」を訪ねて

 かつて玉津3丁目にお住まいであった方からメールをいただいたことが誘因となって、2/22(水)ブログに書きしるしている間に、記憶の奥底から浮かぶ上がったことがあった。あの辺りに石畳があったような気がする。昔むかしの微かに遠い記憶なので定かではないと思いつつ、その「路地の石畳」にこだわった。その町を歩こうと考えていた。

 2/24(金)その方から再びメールをいただいて、楽しい思いを抱きながら読み進んだ。「郷愁」を誘うような言葉が連なっていた。「路地にゴザを敷き、ままごと遊びやロウセキで絵を描いたり遊んだり」「細い石畳の路地」「お地蔵さん」「地蔵盆」「ポンプ式の井戸」等。読むうちに引き込まれていった。もしかしたら、「路地の石畳」があの辺りにあるかもしれないと。

 「細い路地の石畳」という言葉から,あの辺りに石畳があったという私自身の幻想、かすかでわずかな記憶がその当時あったという確証を得たような気がした。メールをいただいた方とは、恐らく年齢的に約10年のタイムラグがある。私が見た「路地の石畳」がまずは、その方が子どもだった頃には存在していたのだ。

 ただ2012年2月に、そのものが存在しているかどうかはわからない。だから、今朝、小雨降る中、奈良・富雄からバスと電車を乗り継いでその町へと、小学校時代の「探偵ごっこ」ような気分で確認のために出かけた。

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 昭和30年代、私が幼かった頃の呼び名を使う。近鉄鶴橋駅東口を出て、市場の中を抜けてのち疎開道路へ出た。電車道(千日前通)を東へと歩いた。旧大阪市電の停留所「大成通1丁目」前にあった「アジアコーヒ」と「玉一食堂」の角を右に曲がる。ここが「大成通商店街」の入り口だ。かつてのにぎやかな面影はない。入り口右に、よく文房具を買った「岡野文具店」があった。今も看板はかかっていた。

 「大成通商店街」のこの直線の道は、北西に伸び、平野運河にかかる南弁天橋を越えて、新橋通商店街の南端につづく。この道を「陣堂道」と呼ぶ。明治時代後期、井上和三郎という東成在住の人が莫大な私財を投じて貫通させてた道だ。その道を歩いた。

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 大成通商店街を少し歩くと四辻がある。左へ行けば「亀の湯」、右に行けば「平野運河」にかかる「南弁天橋」だ。写真では見えないが、この四辻を右に曲がれば、徒歩1分、わが実家がある。

 今朝は実家に立ち寄らなかった。朝早く突然に、私の妹が住む家を訪れたならば、何が起こったのか? 分けの解らないことをして家を追い出されたのか? 定年間じかのものが糸が切れた凧のように失踪するのか?と、いらぬ心配を妹にかけたくなかったので、寄らずに歩き進んだ。

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 陣堂道を進んだ。次の四辻にさしかかった。左に見えるのが、「ミヤマヤ牛乳店」、右が「竹内のたばこ屋」だ。この四辻の手前には、左に洋品店が右に「大阪一食堂」があった。この道を真っ直ぐに行けば平野運河、左に曲がれば電車道、右に曲がれば、近鉄線のガード下を越えて生野区へと入り、一条通商店街へと通じる。

 その四辻を続けて歩いた。「坂井酒店」の角に来た。そこを左に曲がって、少し歩いたところを右に曲がった辺りに、「路地の石畳」があったはずだ。位置的には、私のかすかでおぼろげな記憶と、メールをいただいた方の言葉と概ね一致していた。ただ、何十年か前に「存在」したことは事実であったとしても、今、「存在」しているかということは別だ。

 少し心が騒ぎながら、その小通りを歩いた。電車道が大通り、大成通商店街(陣堂道)が中通りであるならば、「坂井酒店」を曲がった道は小通りだ。その小通りを50メートル余り歩いた。ふと、右側の路地をふと見た。疑いもなく、それはあった。確かにあった。間違いなく美しい「路地の石畳」が残っていたのだ。

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 雨に濡れ、ぴかぴかと光った「路地の石畳」は美しかった。幅4歩、長さ30歩の路地を何往復か歩いた。わが実家から徒歩3分の場所に、今も、「路地の石畳」は残っていた。長方形の石が立てに四列並んでいた。恐らく、昭和初期からそこにあるのだろう。なぜに、この場所にだけ、それは残り続けてきたのだろうかという思いが脳裏を駆け巡っていた。

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