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2011年9月 4日 (日)

「島木赤彦下宿跡」に立ち寄って

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 「塩尻短歌館」から「広丘駅」に向かった。途中の道路沿いに「赤彦下宿跡」があった。明治・大正時代のアララギ派の歌人・島木赤彦(1876~1926)、本名:久保田俊彦が広丘小学校第6代目校長として、明治42年(1909年)に赴任して、2年間を過ごした下宿だ。

「塩尻市立広丘小学校」公式サイト

 その当時、校内には歌人・中原静子やのちに若山牧水の妻になる歌人・太田喜志子(若山喜志子)が教員として勤務していた。太田水穂、窪田空穂、等が集い歌を詠じたという。それは一体どのような世界だったのだろうか? その短歌の歴史と伝統は、子どもたちにも受け継がれている。

 今でも広丘の町は静かだ。明治の終わり、彼ら彼女らが集った頃の町は、おそらく町などでなく、村か里のような風景であったのだろうか。確かに、広丘には短歌の伝統と雰囲気がある好ましい町だ。派手さはない。それでもどこか存在感のある町だった。 

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 確か昨年も、島木赤彦のことをしるしたことを思い出した。下記に再掲載する。

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「眼のまへにそのひとはあり」

眼のまへにその人はありとこしへに消えてゆくべきその人はあり〈島木赤彦)

 
島木赤彦はアララギ派の指導的歌人にして「信濃教育」で名高い教育実践者であった。信州の小学校長の職にあるとき、妻子をおいての単身赴任だった。赤彦三十六歳。新任教師、静子十八歳との恋。 

 私たちの常識では思いもつかないことかもしれない。しかし、事実は小説よりも奇なり。実直な心と純情な心のつづれおり。しかし、世間の目は冷たく教育者にあるまじき姿に写っていたのだろう。ただ、人の心の中までは誰にもわからない。

 たった二年間の恋。もしや、清らかなる想いが存在したのだろう。

 大正十年、赤彦、五十歳、死の年の静子宛ての年賀状の隅に「十年はつつがなく生きました。なほ前途の幸福を祈ります。」と書き記す。(2006.12.16)

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 私にとって初めて訪れた塩尻。広丘の地は、情動が渦巻きながらも、静謐な「うたびとたちの群れ」の地だった。来年、アルウィンへ出向く時には、ゆっくりと巡り歩こう。そして、塩尻ワインでも飲みたいものだ。(2010.9.4)

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