« 3/13(日)「JFL」開幕 パルセイロが関西圏へ | トップページ | 司馬遼太郎「街道をゆく」を新年早々から読み始めた »

2011年1月22日 (土)

大阪・千日前「自由軒」で名物カレーを食べて



 1/21(金)夜、大阪・難波の南海通りの居酒屋へ、職場の者といっしょに立ち寄った。2時間ばかり時を過ごし別れた。ふと、千日前「自由軒」の名物カレーが食べたくなった。その店に入り、名物カレーと黒ビール小瓶を注文した。飲み食べながら壁に飾ってある額を見た。「トラは死んで皮をのこす 織田作死んでカレ-ライスをのこす」という無頼派の作家・織田作之助の言葉に目が入った。何度、その言葉を見た事だろう。ふと祖母と織田作おじさんを思い出した。

 以前にブログに書きしるした雑文を再度、下記に掲載する。


・・・・・・・・・・・

「織田作おじさん」(2007.9.15

 45年近く前、鶴橋にある実家の西3軒となりに「織田作之助研究会」という木の看板を掲げていた家があった。そこに一人のおじさんが住んでいた。わが家では「おださくおじさん」と呼んでいた。着流し姿で、その家の玄関先で電化製品の修理をしていた。青白く弱々しい姿が目に焼きついている。

 小学校4年生の頃だった。ある日、父に聞いた。「おださくおじさんの家の前にある看板て、あれ何?」「おださくのすけという小説家を勉強しているらしい。おじさんは文士や」と父は教えてくれた。でも、わたしは織田作之助がどんな人か、文士という言葉の意味もわからなかった。

 父は消防署に勤務していた。家の本箱から「消防月報」という雑誌を持ってきてペ-ジを開いた。「これや!」と私に見せた。そこには、おださくおじさんの本名で書かれた文章が載っていた。それを見て、文士というのが文章を書く人であるということを理解した。確かにおじさんは文士だった。

 後年、織田作之助という作家が「夫婦善哉」という作品を残し、好んで大阪の庶民の暮らしを描いたことを知った。おださくおじさんは社会的な評価を得ることはできなかった。だが、確かに、わが路地裏に「織田作之助研究会」という看板を掲げた「文士」がいたことは事実である。

千日前「自由軒」(2007.9.15

「トラは死んで皮をのこす 織田作死んでカレ-ライスをのこす」

 大阪・難波「ジュンク堂書店」にでかけた折には、千日前にある「自由軒」によく立ち寄る。黒ビ-ルを注文し、「名物カレ-」を食べる。おいしい!

 昔むかし私の祖母がここで働いていたと聞かされた。「あそこのカレ-はおいしいでえ」とよく言っていた。私が
24才の時に、祖母は亡くなった。それ以降に「自由軒」によく立ち寄るようになった。

「大阪・難波 自由軒」公式サイト

« 3/13(日)「JFL」開幕 パルセイロが関西圏へ | トップページ | 司馬遼太郎「街道をゆく」を新年早々から読み始めた »

なにわ大阪」カテゴリの記事