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2010年9月16日 (木)

興味ある検索ワード2010.9.16

熊沢天皇寓居跡

 9/16(木)、「興味ある検索ワード」として、「熊沢天皇寓居跡」が、1アクセスあった。そこは、私の実家から徒歩1分の所、私の生まれ育った町、大成通にあったのだ。その名を知る人は少ないだろう。学校の教科書、歴史の本にも出てこない。その名で検索した方いらっしゃること自体、不思議でならない。ただ、その方にとって、「熊沢天皇」とは何なのだろう? 何らかの興味湧く存在なのだろうか?と自問している。

 以前にブログに書いた「熊沢天皇」についての記事を再掲載する。

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Books「我輩は天皇なり」  207.9.12

 なぜ、この本を買って読んだのか? 昭和23年当時「熊沢天皇」は、鶴橋・大成通のわが実家から徒歩1分のところに住んでいたという。私が幼かった頃に、祖母や母から「熊沢天皇」の名を聞いた。幼い頃に聞いたその名を記憶の奥底から目覚まさせてくれた。以前読んだ本、保阪正康「天皇が19人いた」(角川文庫)、秦郁彦「昭和史の謎を追う」(文春文庫)の中でも論じられていたが、この本は「熊沢天皇」に関しての初の単行本である。

「熊沢天皇寓居跡」 2007.10.8

「猪飼野郷土誌」に「熊沢天皇寓居跡」という一文がある。 「小川治海税理士事務所というのがある。その並びの東の端、現在ガレ-ジになっている所に辰巳屋さんという小料理屋があったらしい。そしてこれと小川事務所との間に以前旅館をしていた建物があった。これを辰巳屋が買得して所有していたが、その一室に熊沢天皇が一時身を寄せていた」

 「熊沢天皇」こと熊沢寛道氏は、後南朝の「自分自身こそ正真正銘の天皇である」と時の連合国最高司令官マッカ-サ-元帥に嘆願書を出した。米「ライフ」誌にも写真入で大きな記事として取りあげられた。熊沢寛道氏は昭和天皇を相手取り東京地方裁判所に対して「天皇不適確確認」の訴訟を起した。その訴状の原告・熊沢寛道氏の当時の住所は「大阪府大阪市東成区大成通1丁目90番地」となっている。しかし、「天皇は裁判権に服しない」という理由で訴状は却下された。

 私の実家から徒歩1分もかからない場所に「熊沢天皇と名乗るひとが住んでいた」と私は祖母から幾度となく聞いた。だがどんな人物なのかどうかを考えるなどはしなかった。子どもながらに、「天皇さんがそんな場所に住まれることはない。その人はうそつきだ」と思った。最近、熊沢天皇に関する「我輩は天皇なり」という新書が刊行された。読み進むにつれて、祖母から聞いた話が断片的によみがえってきた。

 実家に帰った折にはその寓居跡前の道を通る。気の強い辛らつな祖母から似非天皇であるかもしれない熊沢天皇のことに関して悪口を聞いた記憶が私にはない。そのことは今振り返れば不思議だ。推測の域をでないが、祖母は熊沢天皇とは同郷意識があったのかもしれない。祖母の南朝びいきがそうさせたのだろうか。今は確かめる術はない。

「猪飼野郷土誌」と「熊沢天皇」 208.8.19

 「猪飼野郷土誌」(1997.03./発行:猪飼野保存会)を以前に読んだが、今晩何気なく手に取り拾い読みをした。P.77「熊沢天皇寓居跡」の一文を再読した。

 「熊沢天皇」こと熊沢寛道(大阪市東成区大成通
1丁目90番地)は、昭和26年昭和天皇を相手取って”天皇不適格確認”の訴訟をおこした。これに対する裁判所の命令は、主文「本件訴状を却下する」、理由「天皇は裁判権に服しないというものだった。

 米国「タイム誌」にも紹介された「熊沢天皇」は、一大センセーションを捲き起こしたが、その後、昭和
416月、東京板橋で76歳の波乱の生涯を閉じた。

 「熊沢天皇」については、2007.09に刊行された「吾輩は天皇なり」(著者:藤巻一保/学研新書)に生い立ちからの詳細が記載されている。戦後最大の奇人と著者が称する人物が、わが実家の近くに居住していたことから興味をいだき続けていた。

 「猪飼野郷土誌」にもその存在が記載されていることは、その地にとっての何らかのインパクトを与えた存在であったのだろう。「吾輩は天皇なり」の中の一文で、著者は「熊沢寛道をドンキホ-テと笑うことはできない」と書き記していた。兎にも角にも、私にとって「熊沢天皇」は奇妙な存在であり続けることに変わりはない。

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