9/26(土)姪の結婚式のため大阪・本町にある「セントラファエロチャペル御堂筋倶楽部」に出向いた。二人の旅立ちに似合う素敵な場所でのセレモニーだった。ウエーディングベルを鳴らすために希望の階段を一段一段と登って行くうしろ姿を見ながら、年齢は問わずに今もなお青空に向かって、我々はゆっくりでも良い、希望に向かい登り続けていくべき存在なのだとあらためて感じ入った。二人の幸せを心から願う!
「セントラファエロチャペル御堂筋倶楽部」Webサイト
かつて子どもの頃にテレビで「タイムトンネル」という題名のアメリカドラマをよく見ていた。主人公二人が時代を飛び越し、過去や未来を行き来する内容だった。「鶴橋駅」に降りて実家へ帰る時に、私はいつもタイムトンネルをくぐったように時がスリップしてしまう。
千日前通りの上にかかる大阪環状線・鶴橋駅は何十年も代わり映えがしない。「省線」と呼ばれた頃からのイメージがこびりつき残っている。
駅からすぐの北東エリアは取り残されたような静けさが漂っている。最近は旅行ガイドブックを手に持ち歩いている人を多くみかけるようになった。国際市場周辺は人々で賑わっているが、駅から徒歩1分の場所は異世界に迷い込んだような場所が存在している。
近鉄「鶴橋駅」西口近辺は、焼肉屋が集積している。駅に降りればその匂いが充満している。近鉄線は東成区と生野区の境界となっている。昼ですら暗い高架下にも串焼き屋がある。頭上を見上げれば快晴の午後であるのだが、あたかも夜かと思い違いする。近鉄電車の中は煌々と光り、乗客がシルエットのように見える。
日本全国にいくつの駅があるのだろうか?その中で一度も降り立っていない駅は無数にあるだろう。この世に生まれて後に一番多く乗下車した駅はと問われれば、JR大阪環状線「鶴橋駅」が私にとってはベストワンだ。
大阪環状線と近鉄線の乗り換えのターミナル駅でありながら、ターミナル駅でないような不思議で独特な雰囲気が匂う個性的な駅である。わが国では珍しいアジア的な駅だ。今でも職場からの帰路に、私は少なくとも一週間に一度はこの駅に降り立つ。足が自然に向いてしまうのだ。その都度に「タイムトンネル」的な感覚が心地よく脳を刺激する。
笑止されるのを覚悟で言えば、田園風景などなく、また美しくモダンでもない場末の雑然としたこの駅は、少なくとも私にとって、あの頃ののどかな想いを浮かび上がらせてくれる「ふるさとの駅」なのだ。
私の生家である。大阪市東成区、かつての大成通にあった。昭和33年(1958)頃であろうか。家の前の道はまだ石畳であった。祖母が始めた駄菓子屋「大成屋」の屋号が写っている私の手元にある唯一の写真だ。確かにあの鶴橋・大成通の路地裏で駄菓子屋「大成屋」が存在していたというエビデンスだ。昭和初期に建ったその家は今もあり続けている。
写真の私の父母は若い。恐らく30歳ぐらいなのだろうか。私の家族は真面目にコツコツと実直な生活を営んでいた。父は消防士で硬く真面目で厳しかった。母はその頃から体が弱く寝込むことが多かった。無名な庶民の日常のひとこまの家族の姿だ。祖父・祖母、父母の家族六人、その後に弟が生まれたが、あの頃を思い出させてくれる私が好きな写真の一枚だ。
私という存在はまぎれもなく、善きにつけ悪しきにつけ、路地裏・大成通で育まれた。ただ、今言えることは、私は父母に背き続けた親不孝者だと思う。私の思春期の逸脱は父母を寂しがらせただろう。「お前は、ほんとうに普通に生きてゆけるのか!」 この路地裏の家の中で私に言った父の言葉が今も聴こえる。
私は56歳になった。この写真の情景から50年、父の言葉を聴いた時から40年余りの時を経た。父母の心配から遠く、私は普通に生活している。そのことが私の父母に対するささやかな弁明である。父の七回忌、母の納骨を済ませ、秋の夜半、父母と過ごした懐かしき日々を思い描いている。
酒飲めば 心なごみて なみだのみ かなしく頬を 流るるは何ぞ(若山牧水)
私が好きな歌人・若山牧水の歌を亡き父母に手向ける。
母の百か日法要・納骨法要が始まる前に、今回の法要の件でお世話いただいていた霊園の方が、私の妹に話しかけられていた。「おかあさんは鶴橋の玉津3丁目なのですか?」と。私は何かなあとその方の方へ近づいた。偶然とは計り知れないものだ。驚いた。よく聞くと、15歳まで大阪鶴橋・大成通でお住まいだったという。
法要の打ち合わせでその方とは電話のやり取りはしていた。文書のやり取りは私の住所である奈良市へ送付していただいていたので、まったくもって「大成通」のことなど話には登らなかった。私もその方も奇遇であることに素直に驚いた。
私たち妹弟と同じ大成小学校出身だった。年齢は60歳を超えられているから先輩にあたる。話を聞くと住んでいらっしゃったのは私の実家から徒歩2分の場所だった。本籍もまだその地に残していらっしゃと聞いた。その方と会話の中で「大成通商店街」「一条通商店街」「シンヤのパン屋」「大光電機」などの言葉が飛び交った。
その方は私たちの法要に寄り添い手をあわせていただいた。「以前にお住まいだった場所から大成通商店街へ向かって歩いて、路地を左に曲がり右側四軒目に駄菓子屋があったのをご存知ですか?」 と法要が終わりその方に尋ねてみた。「ええ、知っています。あのあたりは私の遊び場でした」と。私は墓石の右側に刻まれた祖母・かつの名を指して、「おばあちゃんがそこで駄菓子屋をしていたんです」と話すと、「そうですか!」と懐かしそうな表情だった。駄菓子屋「大成屋」をご存知だったことに素直に嬉しい気持ちが湧き出た。
母の百か日法要・納骨法要の日に、偶然にも「大成通」にゆかりのある方にお世話をいただき手を合わせていただいたことは、墓に眠る「大成通」で無名の生を終えた祖父・祖母・父・母の生きた証として、最高の弔いと手向けであった。 「大成通」という地名は消え去ってしまった。しかし、人が死に墓石にその名が刻まれるように、その地名は私の記憶の中に鮮やかに刻み込まれ続けている。
9/19(土)11:00、奈良・東大寺北側にある三笠霊園で、母の百か日法要・納骨法要を執り行った。塚本家の墓は昭和43年(1968年)3月、40年余り前に祖母が資金を出して私の父母の名で建立したものだ。霊園には私の妻の実家である松本家の墓もある。結婚してしばらくたってから広島からこの地へ墓を移した。また、私の弟の分家としての墓地もこの霊園の同じ街区にある。
墓石の右側には祖父、祖母、左側には父、母の名が刻まれている。私が幼かった頃から暮らした大人たち、祖父・祖母・父・母の四人はこの墓に眠っている。墓の下に母の納骨をした。墓石に刻まれた海一、かつ、留利、美貴子という名を眺めていると、遠く過ぎ去った大阪鶴橋・大成通りの路地裏での日々が脳裏に浮かんだ。ちっぽけな私の家の世代の歴史がフェードアウトし、新たな世代の歴史が始まりつつあるという感慨が湧いた。
9/12(土)、台湾映画「九月に降る風」を観て、新聞紙上で書かれた美術家の森村泰昌さんの印象深い映画評をブログに掲載した。
「これは96年の台湾ではなく、私がまだ10代だった60年代の日本の物語ではないか。そんなふうに思えてくる映画なのである。」
「ここに描かれた青春は三島由紀夫の小説“潮騒”を思わせる神話的な美しさに満ちている。」
「“九月に降る風”は青春の光と影、あるいは青春の美とその終わりが描かれた映画であるが・・・・・・未成熟であるがゆえの美と成熟していくがゆえの美の終わりについての映画である。」としるされていた。
美術家の森村泰昌さんの存在は、いままでメディアを通じて存じ上げていた。9/17(木)日本経済新聞夕刊の「ぶんか探訪」で、「森村泰昌さんと行く大阪・鶴橋」という記事が掲載されていた。「今や一大観光スポット」「新旧混在、日常に面白み」という見出しが並んでいた。私は、森村泰昌さんが鶴橋を訪れての印象記なのだろうかと思い読み進んだ。
偶然に新聞紙上の映画評の中で美術家の森村泰昌さんの文章に惹かれ、その5日後、新聞で森村泰昌さんの記事に眼がいった。読み進むと同氏が、鶴橋近くで生まれ育ち、現在、アトリエを鶴橋駅近くの高架下に構えていることを初めて知った。
「面白い場所があるんです」と同氏が記者を伴い訪れたJR鶴橋駅近くの場所を、偶然に私もまた興味深いタイムスリップしたような空間として好んでいた。「鶴橋」は「少なくとも、自分にとってはすごく大事な場所」と話されていた言葉が私には印象的だった。同氏もまた、不思議な町として「鶴橋」にこだわり続けていらっしゃるのだろう。
「“森村泰昌”芸術研究所」Webサイト
今日は、職場での早帰りの日だった。17:50頃、近鉄八尾駅で準急電車に乗り鶴橋駅で降りた。鶴橋駅前、居酒屋「一福」に立ち寄った。心地よいほろ酔い気分の中で、徒歩5分の場所にある「比売許曽神社」(ひめこそじんじゃ)へ寄り道をした。鶴橋で酒を飲んだ時の恒例行事、ただの習性なのだろうか。
「比売許曽神社」から、いつも鶴橋駅へ戻る時に千日前通沿いの「牧野レコード店」の前を通る。今晩もそうだった。「牧野レコード店」の場所に差し掛かった。「あれぇ? 何だ? これは?」想定もしていなかった。心地よいほろ酔い気分も醒めるようなショッキングな光景だった。その場所は、たこ焼き屋の看板がかかり、店内の改装が行われていた。「牧野レコード店」が消失していた。酒の酔いなど吹っ飛んでしまった。その時の感情は、「さみしさ」「せつなさ」だった。
「牧野レコード店」は、鶴橋駅周辺での唯一の「レコード店」だった。私の実家から鶴橋駅へ向かう途上にある。私は若かった頃からその店の前を幾度も通った。その店でレコードを幾枚も買った。ずっとずっと私の中で、56歳になった今も、「牧野レコード店」は私の心の中で存在し続けている。下町の場末の一角で確かに「音楽」を通じて「文化」を発信したのだと、私は個人的に確信をもって書き記すことができる。嗚呼!「牧野レコード店」よ、心から、謝! 謝! 謝!
8/28(金)夜、母の納骨の段取りの件で、鶴橋の実家に立ち寄った。妹から8/21(土)夜の地蔵盆の時の話が出た。大騒動が生じ大変だったそうだ。私が幼かった頃から地蔵盆の夜には、近所の人々がお地蔵さんの前で御詠歌を詠う。だんだんと詠える人は少なくなってきたが、今年も行われたという。
妹の話によると、その夜、妹は家で家事をしていた。突然、何度もインターホンが鳴り、「みきちゃんが帰ってきたでえ!早く地蔵さんの前へ来なあかん!」と一大事とばかりに、近所のおばちゃんに大きな声で妹は呼ばれた。「みきちゃん」とは私の母の名前である。「美貴子」というが近所の人は「みきちゃん」と呼んでいた。妹はなんのことかわからずに出かけた。
信心深い近所のNおばちゃんが、おばちゃんといってももう90歳近いが、「みきちゃんが帰って来てるで、そこに、なあ見えるやろ」と地蔵さんの前で妹に言った。妹は家へ帰るに帰れず御詠歌が終わるまで地蔵さんの前に居続けたようだ。妹は隣に座っていたおばちゃんに、「見える?」と聞くと、「見えない!」という。妹にも見えなかったらしい。信心深いNおばちゃんにだけは、初盆に帰ってきた母の霊が見えたのだろう。その夜は、路地裏では、母の霊のことで久しぶりの大騒動だった。
その楽しい話を妹から聞きながら、初盆に生まれ育った地へ帰ってきた母の霊が見えようが見えまいが、その人々の心の中で、母は生きていると思うと心地よい嬉しさがじんわりと滲んで来た。
7/18(土)朝日新聞朝刊スポーツ面の下部に掲載されていたサントリーの広告を見た。「日本で輝く、世界で輝く“ザ・ジャパニーズ・ゴールドピープル”のひとりが紹介されていた。そのヘッドコピーは、 「最初のひと振りで、演奏者を動かす。世界のどこで振っても、そうやっています。」
また、その広告文の中で、「音と音の間に潜む、何か。音の行間。それを感じられることが日本人的なのかな」という指揮者・西本智実さんの言葉が記されていた。その言葉から、私は、大学生だった頃に聞いた、わが国を代表する現代作曲家・武満徹の代表曲「ノヴェンバーステップス」という尺八と琵琶の曲を思い浮かべた。
9月に、指揮者・西本智実さんは、大阪・シンフォニーホールでマーラー「交響曲第5番」を演奏されるという。その曲から、私はかつて観た、映画監督・ルキノ・ビスコンティの「ベニスに死す」を思い浮かべた。その作品は、ドイツの文学者、トーマス・マンの同名の小説の映画化だった。
老作家・アッシェンバッハ(ダーク・ボガード)、美少年・タジオ(ビョルン・アンドレセン)が印象深かった。老作家が美少年を追い求める。それは、「美への殉教」の表現だった。その作品の中で、マーラー「交響曲第5番」が流れ続けていた。「美」に魅了され惹きつけられれば、「美」の恐ろしさにたじろく。
新聞広告の写真で、西本智実さんが右手にグラスを持ち、左手でタクトを振るかのように指を動かすしぐさを見ていた。時の移り変わりはあるのだろうが、私が見た大阪市東成区「大成通商店街」の光景を恐らく彼女も見たのであろう。その光景は、今も彼女の脳裏の片隅に少しでも残存しているのだろうか? そのような他愛もないことを思い浮かべた。サントリー「山崎」を飲んでみたい気分になった。西本智実さんのよりいっそうのご活躍を祈り願う。
「指揮者・西本智実」公式サイト

先日に買った指揮:西本智実さんのCDアルバム「ボレロ」を聴いている。今晩はアルバム第1曲目のボロディン「ダッタン人の踊り」というなじみのある曲を繰り返し聴いた。 その方がタクトを振る姿を脳裏に思い描きながら。
有り得ないのかもしれないが、もし、お逢いできることがあれば、お聞きしてみたいことがある。「貴方が今、奏でられている音楽の中に、小学校時代に見えた光景、また、その町の情景が何か生きているのですか?それとも無為な時間と空間だったのでしょうか?」と。
私と同じ町、「大成連合第三町会」の独特な光景を見て育った方が、その町とはかけ離れた世界の中で活躍され、タクトを振っている。その町で育った者として、一度はその方がタクトを振る姿、奏でる音楽を聴く義務を、自分勝手であったとしても私は痛切に感じている。
「指揮者:西本智実」公式サイト
「病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあおぞらの煙かなしも」(石川啄木)
感傷(センチメント)、郷愁(ノスタルジー)を抱く馬鹿者と笑止されるのだろうか? そのような思いを持たれたとしても、私はなんらひるむこともない。ただ、素直に正直に書き記せば、今日の夕暮れ時、石川啄木のこの歌が自然と思い出され湧き出て口ずさんだことは事実だ。
わが大切な3人の子どもたちに告ぐ。亡き母の通夜が終わった後に、信州・長野から遅れて駆けつけた息子が呆然と、棺の前で泣き崩れていた姿を垣間見ながら、亡き母の前で「好きに生きたらええ!」と、わが子どもたちに告げた言葉に虚言はない。再度、伝えておく。
「病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあおぞらの煙かなしも」その歌が私の心に共鳴版のように響いている。大成通の路地裏の竹の縁台に、多くの人々が寄り集まった情景を思い描きながら、初夏の夕暮れ時、親不孝者の息子として、また、ひとりの父親としての感情を書き記しておく。
6/21(日)昼近く、所用で大阪鶴橋へ出かけた。所用をすませ、駅前の「うをさ」で昼食をとった。今日はすみやかに自宅へ帰りたいと思い、近鉄鶴橋駅の改札口を入った。きらびやかなポスターが目に入った。パチンコ店の広告だった。 「鶴橋魂」という文字が私の感覚を刺激してしまった。
「鶴橋魂」と記せば、「魂」という言葉から、私のことを政治思想的に「極右翼」であると曲解する人もいるのかもしれないが、全く私はその世界とは無縁な存在だ。また、それに対置する「極左翼」とも同様に全くもって無縁な存在だ。
政治嫌いな私からして、もし、何かの位置づけを必ず成さねばならないと義務づけられたなら、その主義を詳細、正確に認識しているかどうかを別にして、言葉としては「保守的リベラリスト」(保守的自由主義者)の範疇に入れてしまうのかもしれない。
「鶴橋魂」という言葉は素敵だ。私は初めてその言葉を初めて見た。パチンコ店の広告と侮るなかれ。その言葉を選んだことは、その人々の何かの想いがあり、その表現された言葉は幾人かも知れないが、その人々の心に何かを呼び起こす。
「地域の名を冠するのには理由がある」とキャッチフレーズが記されていた。そうだ!そうだ!と自分自身心の中でうなづいていた。もしかしたら、私は、「鶴橋病」「大成通病」に掛かっているのだろう。それも良し。人は振り返りながら前に進むものだから。

6/16(火)午後、旧大成通「太陽亭」で観た「たいせい 創立80周年記念誌」で、一人の著名な女性が私の出身小学校のはるか後輩で、実家から徒歩1分の所に住んでいらっしゃったことを、私は初めて知った。私はその方のことを、以前からメディアを通じて存じ上げてはいた。しかし、今の今まで同じ地に住んだ方などとは思いもすらしなかった。驚きなどという言葉などでは言い表せないほどに心が震えた。
その記念誌の中で、「郷愁のシンボル 大成小学校」とその方が一文を寄せられていた。 「当時の思い出は、季節感や、光と影の濃淡さえも伴いながら、今も鮮明に私の中に生き続けています。」と記されていた。それはまるで私にとって、「美神」からの言葉だった。
その日、「太陽亭」を出てから鶴橋駅近くの「牧野レコード店」へ立ち寄った。店の中を眺め回した。店主が私を見て、「何かお探しですか? 演歌ですか?」と聞いた。私は演歌好きな雰囲気を醸し出しているのだろうか? 「いや、クラッシックです!」と答えた。店主は怪訝そうな顔をしながら「何の曲ですか?」と聞いた。私はその方の名を告げた。店主はその方の名を知ってはいたが、「ここでは、クラッシックがあまり売れないので、置いていないですね」とやさしく語りかけるように私に言った。私は、その方がこの地の出身ですよとだけ伝えその店を出た。残念だった。
6/20(土)鶴橋の実家へと立ち寄った折に、なんば「タワーレコード」まで足を伸ばし、その方のCDを買った。クラシック音楽アルバムを買ったのは実に10年ぶりぐらいになろのだろうか?私はほんとうにクラシック音楽などを理解できるような人間ではなく、その音楽は、はるかかけ離れた世界だ。
昨晩、真夜中、その日買ったCDを聴いた。録音:2003年1月、モスクワ音楽院大ホール。演奏:ロシアボリショイ交響楽団。曲目は、ボロディン「ダッタン人の踊り」、ハチャトリアン「剣の舞」ほか、ムソルグスキー「禿山の一夜」、チャイコフスキー「ポロネーズ」「アンダンテ・カンタビーレ」、ラヴェル「ボレロ」「亡き王女のためのパヴァーヌ」。

私の実家から小学校へと行くには、必ず平野川を越えなければならない。「剣橋」、「南弁天橋」のいずれかの橋を渡らずには小学校にはたどりつかない。、その方もいずれかの橋を渡り小学校へと通ったのは間違いない。電車道(現:千日前通)沿いを歩くと「剣橋」を渡る。その方もその風景を見ながら小学校への道を歩んだのだろうか?

裏道沿いに小学校へと歩くと「南弁天橋」を渡らなければならない。電車道よりは静かな道である。私はこの道の方が好きだった。その方もこの橋を渡られたのだろうか?そのような想いが、昨晩真夜中に、チャイコフスキーの「ポロネーズ」を聴きながら、その想像の光景が私の脳裏を駆け巡っていた。
指揮は、「西本智実」さんだった。今、わが国で一番著名な女性指揮者だ。その方が私の実家近くにお住まいで大成小学校へ通っていたという事実を知った時、私は驚きなど通り越したえもいわれぬ感情の震えが止まらなかった。
その町の「物語」「伝説」などというものではなく、私から言わせれば、想像すらできなかったほどの「神話」だ。その存在は、私にとって、「美神(ミューズ)」となった。
「指揮者 西本智実」公式サイト
6/16(火)15:00 鶴橋の実家で、葬儀費用の精算のため「ベルコ」の担当者と会うことになっていた。11:45 少し早めに富雄の自宅を出た。妹には昼食をしてから行くと電話を入れた。鶴橋の実家近くの「太陽亭」で昼食を摂ろうと思いその店に入った。オムレツ定食を注文した。
おばちゃんがテーブルに注文の品を持ってきてくれ食べ始めた。しばらくして、顔を見上げると、あっ!と心の中でつぶやき、すばやく立って、調理場から出てきた男性のそばへ寄った。「太陽亭の兄ちゃん」だった。私が若かった頃、大成通の路地裏を自転車に乗り、出前箱を持ち駆け巡っていた姿が目に浮かんだ。私の網膜の奥底が潤んだ。「覚えてますよ!」と私の方を見て声を掛けていただいた。
「太陽亭の兄ちゃん」とテーブルに向かいながら、私が幼かった頃、風邪などで寝込んだ時、幾度も、近所のおばちゃんが「太陽亭」へ「かやくうどん」を注文して、自分で木製の出前箱を自宅へ運んでくれて私に食べさせてくれた。私はその情景が50年近く経ても忘れられない。私にとっては、実家に戻るたびに「太陽亭」を思い出していた。「私にとって、“太陽亭”は特別ですねん!」とその兄ちゃんに伝えた。
先代が洋食メニューを主に「太陽亭」をこの地に開業し、地域特性を考えて和食メニューも取り入れたという。「かやくうどん」のことを話していただいた。しいたけ、たまごが入っており、その当時はどんぶりの上に木蓋をかぶせていた。七味はその蓋の上にと、私はその話を聞きながら、その当時の「かやくうどん」の味わいを思い出した。
「太陽亭」は昭和8年に開業し、創業76年となる。場末下町の食堂として、電車道(現:千日前通)、旧:市電停留所「大成通1丁目」前において、長きにわたり営業をし続けている。「太陽亭」は、かつてのこの町の光景・情景を見続けてきただろう。「太陽亭の兄ちゃん」は私よりも5歳年長である。二人の「大成通」の記憶は共有されている。会話はとめどもなく続いた。
「弁天市場」「雷湯」「亀の湯」「市電」「花電車」「ひめこそ神社」「夜店」「駄菓子屋」「紙芝居」「ヤングマン」「トロリーバス」「松下幸之助創業の地」「小説・映画“血と肉”の舞台」「大成小学校」「玉津中学校」等々、話題は事欠かなく延々と会話は続いた。
「太陽亭の兄ちゃん」が店の片隅の棚から小冊子らしきものを私に見せた。それは、平成14年に発刊された大成小学校の創立80周年記念誌だった。私はパラパラとページを繰った。卒業生のメッセージの中のある女性の写真が目に止まった。一瞬、はっきりと理解できなかった。余りの驚きに思考が凍りついていた。
その女性は有名な方で、さまざまなメディアに出ておられ有名な方だった。卒業生だったのか? 話を聞くと、私の実家から徒歩1分の場所に住んでいらっしゃったと聞いて、よりいっそう不思議な思いに囚われた。
私はその記念誌を是非とも欲しいと思い、小学校の電話番号を聞きすばやく電話をかけた。卒業生で、記念誌を今見ている。言葉で言い表せないほどに感銘、感激を受けた。その記念誌をいただけないだろうかと伝えた。途中で、「太陽亭の兄ちゃん」が私の電話を取り、追い討ち援助をしていただいた。やっと戴けることになった。
「太陽亭のおばちゃん」が、突然私に、「小学校へ貰いに行ってきますわ!」と言って自転車で5分の小学校へ自ら出かけていただいた。10分ほどしてもどってこられた。門が閉まっていて開かないという。インターホンで呼べばよいと、ご主人が言うのを聞き、再び小学校へと向かっていただいた。
しばらくして妹から電話が掛かった。ベルコの担当者が実家へ来たという。やむなく、太陽亭を出た。「あとで来ますわ!」と声をかけ店を出た。路地の入口で、自転車に乗った「太陽亭のおばちゃん」に会った。茶封筒に入った冊子をいただいた。「あとで寄りますわ!」と言い徒歩1分で実家に着いた。
実家での1時間ほどの所要を終え、再び「太陽亭」へ戻った。延々2時間、「大成通」の話に花が咲いて時間を経つのも忘れた。「太陽亭」はずっと続けると、「魂を継ぐ」という想いをその方は私に語った。水俣に生まれ育った作家、石牟礼道子さんの「魂の形見」という言葉がその時、私の脳裏に浮かんだ。まさに同じだった。
私のふるさと「大成通」の地、場末の町の片隅で、母が亡くなった翌日に、4時間余りにわたり安らぎの時間を与えられ魂の言葉を聞いた。母は永眠したが、私に新たな再生の時間を与えた。人の生命、存在は必ず繋がってゆく。
心の中で輝き続ける大成通・「太陽亭」へ、ささやかなわが雑文を捧げる。
母は6/14(土)午後6:14 享年82歳で永眠した。80年余り大成通(現:玉津)で育ち過ごした母は、実にやすらかなで美しい死顔だった。「一所」のみでそのささやかな庶民としての人生を終えた。
華やかさなどとは無縁な人生であった。ただ、下町、東成、大成通、「一所」のみで生き終えたことは、何にも増して誇るべき幸せな人生であったと思う。
今は失われつつある人々の営為が、断末魔のほのかな灯火として確かにその町には存在している。母が80年余りその町で生き終えたことは、ひとえに大成通の人々の暖かい心の支えがあったからだと、私は自分自身生まれ育った東成・大成通の地とその人々に心から感謝の念を抱いている。
「大成連合第三町会」旗である。その地で生まれ育ち、今はその町を離れて生活している私自身にとっても拠り所として、ずっと心の中でその旗は翻り続ける。
近鉄鶴橋駅奈良線のホーム西端に立っていると、線路に沿って㈱徳山物産のセピア色の写真広告が見えた。「この街が、私たちの原点です。」というキャッチコピーが目に入った。私の琴線に触れる言葉と写真だった。
「株式会社徳山物産」公式サイト
新潟県上越市大島区にある「大島四季ふるさと会」のたよりである。私の父は新潟県東頚城郡大島村で生まれ育ち、17歳の時にその村を出た。その地が故郷である。父が生前の時から、「大島四季のふるさと会」に入会している。年4回、ふるさとの四季の味覚が、今も鶴橋の実家に届いている。
大島区総合事務所編集・発行の「おおしまだより」を読んだ。そこにその区の人口・世帯数が、平成21年2月現在、2,118人(男1,011人、女1,107人)、773世帯と記されていた。その無味乾燥な数字を見ながら、父の故郷の小学生は、今何人いるのだろうか?とふと想いを馳せた。
鶴橋の実家に帰った日に私は妹に伝えた。私は小学校4年生だった時に、父のふるさとを家族で一度だけ訪れたきりだ。今年か来年には、もう一度だけ訪れたいと思っている。「大島四季ふるさと会」は私が引き継ぐと。
「上越市大島区」公式サイト
「上越市立大島小学校」公式サイト
5/6(火)、母が入所している施設を出て実家へと向かった。平野川にかかる剣橋の手前を左折し川沿いのコンクリート護岸の壁面には、東成区に住む子どもたちの絵が描かれている。「ふれあいとぬくもりのギャラリー」と呼ばれている。子どもたちが描いたさまざな絵は童話的で見ていても楽しい。
実家へ戻った折には、よくこの場所に立ち寄る。美術館にある著名な画家が描いた絵と、この平野川のコンクリートにプリントされた東成の子どもたちの絵と、どちらが美術的に価値があるのかは言わずとも知れている。ただ、美術的な評価云々などと関係なく、思い、想いを表現したもの、私の遥かな後輩が描いたものとして、笑止されるのかもしれないが、同じ価値あるものだと少なくとも私は思っている。
5/6(水)、大阪市東成区今里、母がいる施設へ出向いた。幾ばくかの時間をすごし、そこから徒歩10分の実家へ立ち寄った。妹と二人だけで、路地裏のあまり綺麗とはいえない部屋で、とりとめもなく四方山話をした。
写真のことが話題になり、妹はアルバムを私の前に置いた。整理できていない写真の群れを見ながら、懐かしさに酔った。私の姿を見ながら、妹は何気なく私に缶ビールを差し出した。ほろ酔いの中で、さまざまな写真に見入り感慨にふけった。
一枚の写真があった。私の祖母と母の写真である。写真の裏に「びわこ八景めぐり」と記されていた。日付の記載はなかった。、ただ、他の写真の状況と比較すると、恐らく、昭和10年頃の写真だと推測できる。母は昭和3年に生まれた。その写真は母の小学生低学年の頃の写真なのだろう。
遊覧船らしきものに乗っている祖母と母の写真を見ながら、先日、私は奥琵琶湖を巡ったが、70年以上前に、祖母と母の二人が琵琶湖を巡ったのだと思うと、連休最後の日に万感の想いを抱いた。
鶴橋駅に隣接する市場の中を歩くと、韓国の民族衣装を並べている店が多くある。色彩がきらびやかで魅力的な衣装が目をひきつける。その街を歩くことが好きだ。私の実家近くの路地は、日本人だけでなく、韓国の方も多く住んでいた。路地を行き交う民族衣装の綺麗さに子ども心に、「うわっ~キレイ!」と思ったものだ。
私が幼かった頃、鶴橋駅周辺の市場は、一般的に「国際市場」と呼ばれていた。少なくとも、私の祖母・母は私にその場所を「国際市場」だと言っていた。「国際」という言葉は英語で言えば「International(インターナショナル{)」となるのだろう。最近は「国際的」「インターナショナル」という言葉も余り使用されなくなりつつある。それに代わり「地球的(グローバル)」という言葉が氾濫している。
その街は、グローバルではなくインターナショナルだった。地球的なものではなく、国が際立ったという意味において、インターナショナルな街だったと好感を持って言うことができる。国を超えなければ、インターナショナル、グローバルにはなりきれないが、それぞれの国家の礎となる避けられない民族の独自性を認識しながらも、他の民族性をも受容するべきであるということを自然と学べたのは、その環境があってからこそだと、私は今も思い続けている。
私が小学生低学年だった頃、路地裏で三角ベース野球をしていた時に、大きな白いボールを持って私たちの前を通り過ぎる朝鮮中学校へ通うお兄ちゃんのことを思い出した。私たちは野球しか知らなかった。後にその大きな白いボールがサッカーボールだと知った。そのお兄ちゃんは、いつ知らず路地裏から引っ越して行った。そのお兄ちゃんは、今もサッカーに関わり続けているのだろうか?と、店先に並ぶきらびやかな民族衣装を見ながら、ふとそのお兄ちゃんのことを思い出した。
4/24(金)夜、職場帰りに鶴橋駅で途中下車した。居酒屋「一福」で飲み、ほろ酔い気分で、徒歩3分のところにある「比売許曽神社」へ立ち寄った。喧騒の表通りから少し入ったところに神社はある。鶴橋の実家に寄る時は、深い意味合いなどはないが概ね立ち寄ることにしている。
本殿へ拝礼して後に、帰り際に、神社入口近くをふと見ると、若い女性がひとり暗がりで佇んでいた。一瞬目があった。拝礼する私の後ろ姿を見ていたのだろうか? その若い女性も何らかの想いで立ち寄ったのだろうと想像しながらも、私はただ黙って通り過ぎた。
鶴橋駅近くの通りで夜店が開かれていた。「夜店開き」という張り紙を見ると、毎月「4」のつく日に開かれているようだ。その日も4~5軒の夜店が並んでいた。「風来饅頭」という文字が飛び込んできた。最初、「風来」という言葉から「風来坊」、「フーテンの寅」を思い浮かべた。どんな饅頭なのだろうとその店の前に立った。あっ!ああ~!これはあれだ。ひょんなことから忘れ去っていたことが、突然に思いだされてきた。それは、私が幼かった頃、夜店でよく買って食べた「フライ饅頭」だった。
「おっちゃん、一個ちょうだい!」とポケットから100玉を取り出して、フライ饅頭一個を買ってその場で食べた。あげたてのほかほかのフライ饅頭を食べながら、4/24(金)20:30~20:35の5分間、懐かしい味わいに一瞬にして、55歳の私が10歳の僕へとタイムスリップしてしまった。
先月のある日、鶴橋卸売市場を徘徊していた。ある店の前を通り過ぎようとした。店の中をのぞくと綺麗な女性から声が掛かった。「いかかですか?」と。私は恥ずかしげに、「いや、いいです!」とそっけなく答えてしまった。
隣にいた女性が、「とん足をください!」と店の女性に言った。「何本しときましょ?」「5本ください!」と聞くなり、その店の綺麗な女性は、その外見からは想像もつかないワイルドな手際で、手早くとん足を裂いた。その光景を見て、すごい!と心の中で唸った。
その女性には、容姿の綺麗さと野生的な行動が共存していることに素直な感銘を受けた。人は見た目の綺麗さだけではほんとうの存在価値は少ない。人間もまた動物だという観点から野生を備え付けておかなければならないという基本常識を改めて認識した。
3/20(金・祝)午後、ソレステの6年生を送る会に参加し、一旦自宅に戻ってから、母が入院している大阪・JR森之宮駅近くの病院へ寄った。母は大阪・今里にあるケアホームに入所したのだが、10日余りで体調を崩し再び病院へ戻った。食事もよく食べることができ、よく眠れるようだ。顔色も良かった。ただ、認知症は進行しているような気がする。
病院からの帰り道、大阪城公園入口近くの児童公園に寄った。ベンチに座りながら遊具で遊んでいる子どもたちを見ていた。楽しそうに男の子と女の子が声を掛け合いながら空中の円筒の中をくぐっていた。ふと自分自身の子どもの頃の情景が走馬灯のように浮かんできた。母はベットで寝たきりである。母もまた、まどろみの中で自分自身のむかしの情景を思い描いているだろうか?
3/7(土)、母が入居している大阪市東成区今里にあるケアホームを訪ねた。自宅を出て最寄のバス停「春日橋」からバスに乗り、近鉄富雄駅まで出た。準急乗り近鉄鶴橋駅で、地下鉄に乗り換え今里駅で下車した。地上に出ると今里ロータリー、徒歩1分で母が入居しているケアホームがある。ちょうど、新橋通商店街の入口に近い。南向きの部屋からは大成小学校も見える。
母の話を聞く。キーワードは、今里ロータリー、新橋通商店街、映画館、芝居小屋、焼きそば屋、今里車庫、花電車、満州、モンゴル等々。「歴史」という大げさなものではないかもしれないが、人それぞれの生きてきた歩みは確かにある。
今日初めて知ったことがある。新橋通商店街に「芝居小屋」があったのだ。私は新橋劇場、二葉館という映画館の存在は知ってはいたが、「芝居小屋」があったことは知らなかった。母はその「芝居小屋」へむかしむかし出かけたことがあるのだろう。市電の終点として、かつてその商店街は賑わっていたらしい。そこは繁華街だったという。
ケアホームを出た。その近隣を歩きまわった。密集し雑然とした町並みは人々の生活の匂いがする。見慣れた風景が心地よい。なぜか心が落ち着く。私の母校である大成小学校、玉津中学校を経て、玉造駅まで歩いた。
玉造駅近くの「三養軒」で食事をした。おじいちゃんとおばあちゃん二人で店をやっている。大正時代からこの地で営業しているとむかし人づてに聞いた。確かに料理はおいしかった。テレビではプロ野球のオープン戦、阪神対ロッテのゲームが放映されていた。緩やかな時が流れる私好みの昔風の食堂だ。
夕方、クラブの所要があったので、急いで自宅へ戻り、二名公民館へ出かけた。わすかな時間ではあったが、わが「パトリ」を歩いて懐かしくも新鮮な心地になった。
大阪・鶴橋にある私の実家から徒歩10分、地下鉄千日前線・今里駅徒歩3分の大阪市東成区大今里2-5-12に、「大阪セルロイド会館」がある。列柱構成と町家風という対照的な意匠を持つビルで、昭和6年(1931年)に建築された。下町の長屋風情が一般的なこの近辺に、異彩を放っている趣のある建物だ。その当時は、華やな芳香を周囲に漂わせていたのだろう。平成13年に文化庁により登録有形文化財(建造物)に指定された。
建物の中に入ると、モノトーンの落ち着いた世界が広がっていた。いままで幾度となくこの建物の中に入った。外観だけではなく、私は、カメラに収めた窓、階段、廊下が好きだった。いや、今もだ。だからこそカメラのシャッターを押した。好きだと思ったのはいつ頃のことだろうか。近くには平戸公園がある。敷地が三角の形をしていたので私たちは三角公園と呼んでいた。小学校時代にそこで遊んだ帰り道に、その建物の中に入った時だろうか?
セルロイドはおよそ150年前、アメリカで発明され天然素材に代わる新素材として一躍脚光を浴びた。大阪はセルロイド櫛の輸出で大きな飛躍を遂げ、不動の地位を築き上げたという。その当時はこの建物も活気があったのだろう。今は静けさが漂っている。建物の中に入居している団体を見ると、一般企業はあるのだが、(社)日本山岳会関西支部、大阪府山岳連盟、大阪府スキー連盟の事務所が入居していた。入居団体の顔ぶれからみても趣ある歴史的な建築である。
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