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2009年5月31日 (日)

Cinema「浪漫者たち」~青春紀行 三輪山へかえる~

 映画「浪漫者たち~青春紀行 三輪山へかえる」が公開される。大阪では九条にある「シネ・ヌーヴォ」で上映予定だ。先月だったと思う。大阪市内に出た帰り道に、「シネ・ヌーヴォ」へ立ち寄った。その日は映画を観ずにパンフレットだけを取った。映画のポスターが目に入った。「浪漫者たち~青春紀行 三輪山へかえる」。奈良を舞台にした映画なのかと何気なく見ていた。ふと、見ると小さな文字で、戦前・戦中に脚光を浴びたある文学者の名が記されていた。なぜ?と、疑問と興味が涌いた。その夜、自宅に帰ってからインターネットでその映画の題名を検索した。

 映画の配役で女性研究者が出てくる。彼女はその文学者の研究者として設定され、主人公にその文学者の作品を手渡す。その文学者とは、奈良県桜井市に生まれた保田興重郎(やすだよじゅろう)だ。文学運動として、「日本浪漫派」を立ち上げた人物である。戦前・戦中に多くの若者たちが、彼の言説と作品に魅了されたという。戦後、社会政治情勢が一変して後、彼の戦中の言説、作品が封殺、封印された。

 保田興重郎の代表作に「日本の橋」「後鳥羽院」等がある。
ドイツロマン派の文学をわが国の文学と文化に応用した。「日本浪曼派」には亀井勝一郎、檀一雄らが同人となり、佐藤春夫、萩原朔太郎、太宰治、三好達治、伊東静雄らも寄稿していたという。「日本浪漫派」の最後の末裔に三島由紀夫を位置づける人もいる。

 映画の公式サイトの中で、舞踏集団「大駱駝艦」(だいらくだかん)を率いる舞踏家・俳優である、奈良・桜井出身の 麿赤兒、「三輪山の懐を母の胎内として育った私は、その霊気と保田與重郎氏の言霊の妖気とが渦巻く潮の中で、眩暈と昂りで張り裂けそうな青春であった。 今、このような映画が生まれたのには、驚いた! 多くの示唆に富む映画だ。」と書き記している。

 奈良を舞台にした映画であるというだけではなく、「日本的な、滅び散華の美学」として封殺・封印された文学者・保田興重郎がその映画の中で、なぜ今なのか、どのような視点で描かれたのか、どう評価されたのか、私には興味がある。是非とも観てみたいものだ。

「浪漫者たち」公式サイト

「シネ・ヌーヴォ」公式サイト

「奈良を歩こう。」~奈良デスティネーションキャンペーン プレキャンペーン

Img 「奈良を歩こう。」~奈良デスティネーションキャンペーン プレキャンペーン(4/1~6/30)

「はじまりの奈良、めぐる感動 奈良」
「いにしえの 心を感じる。 万葉集のふるさとへ。」
「1300年の 時の中で、 五感を磨く。」
「大和は、色のまほろば。」

 
来年、2010年4月1日~6月30日、JRが「奈良奈良デスティネーションキャンペーン」を展開する。「デスティネーションキャンペーン」のデスティネーション」とは、「目的地」という意味で、JRと行政が協働した「旅行キャンペーン」だという。今年そのプレキャンペーンとして「奈良を歩こう」が実施されている。ターゲットエリアは「桜井線 旅万葉」だ。

 「現代」という視点のみで「奈良」を捉えるだけでは、「奈良」の本当の魅力は感じ取れない。連綿と繋がりとしての「歴史」の流れに想いを馳せ「奈良」を捉えたならば、芳しい香りが漂う。観光地・京都とは一味ちがった趣がある。ゆるやかな時が流れる悠久の歴史として、おとなの五感を刺激する風土がある。「現代」という時代だからこそ、ゆったりとした時の流れに身を任せ、「奈良を歩こう。」

「JRおでかけネット/“奈良を歩こう”」Webサイト

高校総体県予選(サッカー)決勝リーグ【試合予定】

【決勝リーグ試合予定】

5/31(日)橿原運動公園多目的グラウンド(雨天:橿原高校 試合時間は1時間遅れ)
①11:00 一条 対 東大寺学園
②13:00 奈良育英 対 五條

6/6(土) 旧片桐高校グラウンド
①10:00 一条 対 五條
②11:45 奈良育英 対 東大寺学園

6/7(日) 五條市上野公園多目的グラウンド
①11:00 
②13:00
一条 対 奈良育英

五條 対 東大寺学園

※決勝リーグ最終日の試合時間・組合せは決定しているが、第1試合・第2試合の明記がなかった。おそらく、決勝リーグ2試合までの試合結果によって決定されるものなのだろう。

高校総体県予選(サッカー)予選トーナメント4回戦【試合結果5/30】

【予選トーナメント4回戦 5/30】
一条 3-0 大和広陵 (1-0/2-0)
五條 1-0 香芝 (0-0/1-0)
大寺学園 2-0 平城 (2-0/0-0)
奈良育英 2-0 郡山 (1-0/1-0)

 順延されていた全国高校総体奈良県予選の予選トーナメント4回戦が、5/30(土)に行われ、一条、五條、東大寺学園、奈良t育英の4チームが決勝リーグへ進出した。決勝トーナメントは5/31(日)から行われる。

2009年5月30日 (土)

デジブック「善光寺御開帳2009」

Img_0002  信州長野・善光寺の七年に一度の盛儀である「善光寺御開帳」が明日で終幕する。私にとって、さまざまな想いが湧き出た盛儀だった。信仰心が薄いわが身ながらも、人々の姿に強烈な感銘を受けたことは間違いなく忘れられない。

 科学万能の時代だ信仰など古臭いという思い込みが人々の生活を腐食する。権力も地位も名声も資産も持たぬ人々の中で連綿とした「望み」「願い」「祈り」は信仰として結ばれ続けている現実がある。

 私は幾度となく奈良・東大寺の大仏殿に足を運んだ。そのたびに圧倒された。それはあたかも権威の象徴のようにそそり立っている。その前に佇むとひるむほどにその当時の権力が覆いかぶさってくるような感覚にとらわれる。

 しかし、信州長野・善光寺にはそのような感覚を私は全くと言っていいほどに感じない。どちらかと言えば本堂の前に佇むと、その荘厳でありながら柔らかな雰囲気が自分自身の存在をすべて包み込んでいくような感覚に囚われる。

 私は今、奈良に住んではいるが、素直に言えば、東大寺大仏殿よりは善光寺本堂に惹きつけられる。建築jの好み以上に、その醸し出す雰囲気の差異だ。宗派を問わず、女人禁制などもなく、誰でもを受け入れてきた、大らかな懐深い善光寺に惹かれる。でき得れば次回の「御開帳の折にも参詣したいものだ。

※デジブック「善光寺御開帳2009」を作成しました。写真は46枚を掲載しています。5/17・18両日の5:30~6:30の善光寺の光景です。

5/31(日) AC長野パルセイロ 前期天王山 VS JPAN SC

Img_0001_2  北信越フットボールリーグDIVISION 1 第7節 AC長野パルセイロ VS JAPANサッカーカレッジの前期最終戦、天王山の一戦が、5/31(日)13:00南長野運動公園総合球技場でキックオフする。追撃レディネス態勢の2位AC長野パルセイロが首位を堅持している宿敵・強豪JAPANサッカーカレッジをホームで迎え撃つ。

 AC長野パルセイロがJAPANサッカーカレッジに勝利し、今期初の首位奪還なるか、JAPANサッカーカレッジが突き放し首位を堅持するか、北信越フットボールリーグ最大注目の無敗同士の決戦だ。

 AC長野パルセイロは、第5節VS松本山雅、第6節VSツエーゲン金沢の強豪2チームとの得失点状況を見ると、2試合の合計では、前半は3-0、後半は1-3となる。両試合とも先制点を叩き出している。しかし、75~90分の間で3失点(VS松本山雅 75分、82分  VSツエーゲン金沢91分)を食らっている。

 まずはポゼッション優位を確保して先制点を叩き出すこと、前2試合にはなかった相手を突き放す力の発揮、もっとも危険時間帯の75~90分でも人とボールを動かし続けることが勝因の鍵を握る。

 現代サッカーは高度化し続けている。90分ハードワークをし続けた中で、残り時間15分で勝敗を決することが一般的統計上かなりある。力が拮抗すればするほど最後の15分が勝負になる。AC長野パルセイロの魂闘と両チームのベストゲームをまほろば奈良から楽しみにしている。


【北信越フットボールリーグ第6節終了時点順位】

順位 クラブ名 勝点
1 JAPAN SC 16 5 1 0 10 3 7
2 AC長野パルセイロ 14 4 2 0 28 7 21
3 松本山雅 13 4 1 1 15 5 10
4 ツエーゲン金沢 10 3 1 1 17 3 14

※5位以下は省略 ツエーゲンは試合消化数が1試合少ない。

「AC長野パルセイロ」公式サイト

「北信越フットボールリーグ」公式サイト

奈良県桜井市・「箸墓古墳」 邪馬台国論争に影響か?

 5/29(金)朝日新聞朝刊、5/30(土)奈良新聞は一面トップで、奈良県桜井市にある「箸墓古墳」の築造年代が、邪馬台国女王・卑弥呼の死と同時期の西暦240年~260年と、国立歴史民俗博物館(千葉)研究グループによる「放射性炭素年代測定」を用いた研究結果を報じた。

 邪馬台国の所在地を巡る論争は江戸時代から続き、いまだ決着がついていない。「畿内説」と「九州説」が対立してきた。奈良県桜井市の「箸墓古墳」はその当時での最大規模の古墳であり、誰の墓かは謎であった。一説によれば、邪馬台国女王・卑弥呼の墓とする説、卑弥呼の後継者説、全く関係のない有力者説などがあった。

 卑弥呼の死は西暦250年頃と推定されており、「箸墓古墳」が卑弥呼の墓であるという説は以前からあったようだ。今回の同古墳の築造年代が西暦240年~260年と推定された。卑弥呼の死と築造年代が概ね合致し、邪馬台国論争に影響を与えそうだ。ただ、測定方法の結果についてはより慎重な検証が必要であるという疑問的な論調があるのも確かだ。邪馬台国・卑弥呼論争に一石を投じることは間違いない。

 奈良県桜井市は、その周辺に歴史的遺跡が多くあり、三輪山、大神神社など独特な風土を醸し出している。今回の「箸墓古墳」、近日中には、三輪山を舞台にした映画「浪漫者たち」も公開され、今後より一層にその地が脚光を浴びそうだ。

「ひみこの里・記紀万葉のふるさと~桜井市観光情報サイト~」公式サイト

「太宰治」浸り

Img_2  信州へ向かう列車の中で読むために文庫本2冊をバッグに入れていた。今年生誕100年の太宰治の「ヴィヨンの妻」「お伽草紙」だ。太宰治の小説を読んだのは大学生の頃だった。「人間失格」「斜陽」などの代表作だけでなく、すべてとはいかないが多くを読んだ。しかし、それ以来、再び読もうと手に取ることもなかった。私が若かった頃、確かに凄いと思いながらも、太宰の退廃的な生き方、暗く破滅的なイメージが、私の感性を太宰の小説から遠ざけた。

 JR中央本線を長野へと向かう途上に集中して、短編集「ヴィヨンの妻」を読んだ。太宰の小説は変わることはないが、私は20歳から今55歳になった。何かが変わったのだろう。夢中になりほんとうに太宰治は面白いと思った。少し読み疲れると、うん、なるほどと、ひとりうなずきながら、缶ビールを飲み車窓を眺めた。信州長野での滞在中、移動中に短編集「お伽草紙」を読んだ。またも、うん、なるほどとうなずかざるをえなかった。

Img_0001  わが国で太宰治のようなユニークな小説を描いた小説家がいたのだろうか?思いつかない。だからこそ偉大なる小説家としてその作品は読み継がれてきたのだろう。熱烈な太宰ファンが存在すること、女性に人気がある小説家だということを、確かに解った気がした。太宰治の小説は青春の一時期に夢中になるものでもなく、年齢に応じてその魅力は放たれ続ける。

 太宰治は道化として人生を終えたが、虚構としての文学の中でのみ真摯に生きたのだろう。叛逆者でありながらも、人間の永遠の真実を描ききろうとした。その人の根底の中に、古風なまでの道徳・倫理的な、あまりに素直で正直な想いがその作品には現れている。人は強さの中の虚妄よりも、弱さの中の素直さ・正直さを好むものなのだ。だからこそ、太宰治の小説は永遠に生きつづける。

かぐや姫「神田川」を聴きながら

Img  5/26(火)朝日新聞で、シンガーソングライター・南こうせつ氏のインタビュー記事が掲載されていた。36年前に発表した“神田川”は、いまも団塊の世代にとって“青春の歌”である。この曲を歌い続ける南こうせつさんも、2月で60歳になった。」とその記事は始まっていた。

 「神田川」という歌は1973年に発表された。その時代を象徴するような歌だった。その頃、私は大学生だった。「♪貴方はもう忘れたかしら 赤い手拭マフラーにして 二人で行った横町の風呂屋 一緒に出ようねっと言ったのに ・・・・・若かったあの頃何も怖くなかった ただ貴方のやさしさが怖かった」昨晩、寝る前に、CD「かぐや姫セレクション」を久しぶりに聴いた。「神田川」「赤ちょうちん」「22歳の別れ」「なごり雪」等々の曲を。あの頃を思い出した。

 夢を抱いてはいなかった。希望と不安とが入り混じったけだるい日常が続いていた。ただ、あの女の子がいたから日常の均衡を保ててはいた。冬の中ノ島公園のベンチで二人で長時間話をした日があった。何を話したのか聞いたのかは記憶から飛んでいる。ただ、寒かった。

 いざ帰ろうとしてベンチから立ち上がると二人とも寒さで固まってしまって普通に歩けなかった。体を温めるために、やむなく京阪電鉄天満橋駅まで歩いた。手持ちのお金は少なかった。駅近くの安い居酒屋で二人で初めて日本酒を飲んだ。心も体も暖かくなった。その日のことをふと今晩、昨日のことのように思い出した。

 あの頃は、よく「神田川」という曲が流れていた。確かに二人でのささやかな生活を望んだ。あの女の子と初めて出会ってから40年が経つ。その女の子であるわが妻は6月で56歳の誕生日を、私たち夫婦は結婚して32年目を迎える。二人とも外見は変わり果てた。ただ、心の奥底の根幹はそれぞれ余り変わっていない気がする。

 少なくとも私にとって「ただ貴方のやさしさが怖かった」ままに年月が過ぎ去り続けている。「二十四色のクレパス」を買おうか、「小さな花束」を買おうかと思いつくも、56歳の誕生日に嫌味に受け止められるかもしれない。ただ、日常どおりになにげなく小さなショートケーキでも買ってこようか?「神田川」を聞きながら、わが永遠の「観音さま」にそのようなささやかな気持ちを抱いた。


「神田川・かぐや姫」You Tubeサイト

2009年5月28日 (木)

奈良県少年サッカー大会 奈良新聞 展望

 6/6(土)から第39回奈良県少年サッカー大会(兼第33回全日本少年サッカー大会奈良県大会)が32チームのトーナメントとして開催される。優勝チームは8/1~8日に行われる全国大会に出場する。

 5/25(月)奈良新聞では大会組合せ並びに大会展望の記事が掲載されていた。 「大会は関西少年サッカー大会県予選大会の4強および会場チームがシード。高田、セントラル奈良、生駒、五條、高市、アスペガス生駒のシードチームや奈良YMCA、スクデッド、ソレステレージャ、鳥見など地力あるチームが優勝争いの中心になりそうだ。」と同紙は報じていた。


 わがクラブの名が記されていることは、素直にうれしいものだ。結果如何に関係なく、積み重ねたことをピッチで遺憾なく発揮して欲しいものだ。

「スポーツ庁」新設へ、教育再生懇談会が提言

 5/28(木)日本経済新聞・朝日新聞夕刊で、教育再生懇談会がスポーツ行政を一元的に進める「スポーツ庁」設置を求める第4次報告書を政府に対して提出したと報じた。報告書は活力ある社会を築くため、校庭の芝生化、学校・地域・企業におけるスポーツ施設の整備、トップアスリートの育成支援等を求めた。 

 現在、スポーツの行政窓口として、学校体育・競技スポーツは文部科学省、障害者スポーツは厚生労働省、企業スポーツは経済産業省、スポーツ公園整備は国土交通省となっている。これらの窓口を一元化して、「国家戦略としてのスポーツ振興」を図るために「スポーツ庁」構想が浮かび上がり、政府も前向きであるという。

「ショーヘイコール」を聞いて

 今晩、なにげなくインターネットで、興味ある言葉や知人・家族の名を入力して検索していた。偶然にも、昨年か一昨年かはわからないが、南長野運動公園総合球技場でのAC長野パルイセイロのゲームで、息子の名がサポーターからコールされているビデオと偶然に遭遇した。有り難いものだ。

ビデオ」Webサイト

ファストフードでコーヒーを

 5/26(火)日本経済新聞朝刊で、スターバックス、ドトール、タリーズの主力コーヒーチェーン店の利用客が減少し、マクドナルドなどのファストフード店でコーヒーを飲む利用客が増加した。不況はコーヒーの飲み方にも変化が生じているという記事が掲載されていた。

 私は毎朝、富雄駅6:37発の電車に乗り、近鉄大阪線・八尾駅に7:15に到着する。駅近くのマクドナルドでコーヒーを飲む。一杯120円だ。缶コーヒーを飲んだとしても同じ価格で、その場で立って飲むよりは、マクドナルドで椅子に腰掛け新聞を読みながらコーヒーを飲む方がいい。

 味の方は、通常の喫茶店とさほど変わりはないし、価格は半分以下である。20分程度、ゆっくりした後、職場に向かうのが日課だ。店の2階は、サラーリマンや学生で賑わっている。学生はセットメニュー、サラーリーマンはコーヒーのみが多い。それぞれが一日の始まりをマクドナルドで過ごしている。マクドナルドの存在価値も世につれて、確かに変化してきている。

2009年5月24日 (日)

伝説の「中津川フォークジャンボリー」 38年ぶり復活

 5/24(日)朝日新聞朝刊を詠んでいると、「復活 伝説のフォーク」「38年ぶり中津川ジャンボリー8月1日」という見出しが目に入った。1969年~1971年まで岐阜県坂下町(現:中津川市)で開催された伝説の野外フォークコンサートで、通称を「中津川フォークジャンボリー」と呼ぶ。1971年には2万人以上の若者たちが、その野外コンサートに集まった。当時、運営に関われた方々もすでに70歳近くになる。「やるなら、今だ!」ということで復活へと立ち上がったという。

 私は高校生だった。当時、フォークソング全盛時代で、高石ともや、岡林信康、加川良、遠藤賢司、高田渡、吉田拓郎、泉谷茂、五つの赤い風船のレコードを友人たちと回しながら聞いていた。友人たちの幾人かは確か1971年の「中津川フォークジャンボリー」へ出かけたはずだ。

 私でさえギターを持ち、ささやかな校内での小さなコンサート、発表会に近いが、仲間の前で一人で歌い、文化祭ではグループで「五つの赤い風船」風にグループで歌ったものだ。上手上手でないに関わらず、当時の多くの若者たちにとって、歌うことは何かの表現の手段だったのだろう。
 
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 新聞の記事を読んで、書棚の上部にある埃が積もった一枚のLPレコードを取り出した。高田渡のファストアルバム「ごあいさつ」(1971年、1800円)だ。レコードプレーヤーなどわが家にはなく、ただ、ジャケットを開き、その中の「生活の柄」という曲の歌詞を見た。詩人・山之内獏の詩だった。日本経済新聞朝刊で毎週日曜日に「彼らの第4コーナー」で、今、沖縄生まれの詩人・山之内獏が取り上げられている。私が初めて詩人・山之内獏を知ったのは、高田渡の歌からだった。

「歩き疲れては 夜空と陸との隙間にもぐり込んで 草に埋もれては寝たのです 所かまわず寝たのです・・・・」

 5/24日曜日の朝、へたくそながらもフォークソングを歌っていた高校時代を思い出した。鶴橋・大成通りの路地裏で何かを表現したいという想い、ギターを奏でながら歌うための練習や曲を作っていたことなど、ちっぽけな伝説にすらなりえない。しかし、「中津川フォークジャンボリー」は、フォークを愛した当時の若者たち、今の壮年になった者たちの偉大なる「伝説」である。今年、8月1日の「復活コンサート」の盛況を心から祈念する。

「09椛の湖 FOLK JAMBOREE」Webサイト

「1970フォークジャンボリー写真集」Webサイト

2009年5月23日 (土)

「サラリーマン川柳」入賞作発表!

 5/23(土)日本経済新聞夕刊」を見ていると、「第22回サラリーマン川柳コンクール」の入賞作が発表されていた。
第1位 「しゅうち心 なくした妻は ポーニョポニョ」
第2位 「久しぶりに ハローワークで 同窓会」
第3位 「ぼくの妻 国産なのに 毒がある」

 
Webサイトで「サラリーマン川柳入賞作100を詠んだ。面白いながらも、う~んと胸に来る川柳もある。ただ、「妻・川柳コンクール」と視点を変えればもっと面白いのではないだろうか? それこそ男連中は驚愕、女連中は歓呼の声を挙げるだろう。あまり難しいことは考えず、今回の入賞作100の中から私好みの川柳を抽出した。

1 「愛してる」 妻の返信 「愛すてる」
2 「パパが(・)いい!」 それがいつしか 「パパは(・)いい」
3 父さんに 「似てるね」と言われ 泣く娘

4 「ストレスか?」 聞かれる上司が その原因
5 妻が買う 義理チョコリストに 俺の名が

 現実は、ゆめ、きぼう、ねがい、いのり、などとは関係なく重い。それもまた楽しからずや。川柳もまたよし。

「MSN 産経ニュース」Webサイト

「信州」、私にとっての「香りある風土」

087_3 若い時から「信州」という風土に憧れつづけてきた。学生時代には毎年のように夏に、一人で、また妻とともに「信州」へ出かけていた。私は24歳で高校時代の同級生である妻と結婚した。子ども三人が続けて誕生し、共働き家庭にとって、「信州」どころではなくなった。圧倒的な現実的の生活が押し寄せてきた。

 しばらくして、子どもたちが少し成長し、一番末っ子の長男が3歳の時に、安曇野、八方を訪れた。私たち夫婦はひさしぶりで、わが三人の子どもたちとっては、初めての「信州」だった。それ以降、5~6年、毎年と言えるほどに「信州」を訪れた。

 観光名所を訪れることは少なく、ただ、それそれが重いリュックを背負い、北アルプスの山に登り、降りてくるただそれだけのために。なぜ、家族で山歩きをしようと思ったのか解らないが。家族で山道を歩きながら、幾人もの人々に抜かれながらも、ゆったりと頂を目指し歩み続けた。素直に楽しい時間だった。山の天候は変わりやすい。その中をただ自分達の力で歩むしかない。人生そのものの縮図のようなものだった。

 わが子どもたちは、夏の旅行が「信州」であると言うと、「また、信州なん? どこか他にないの?」と不満の気配が漂ったが、現地に行けば何のこともなく、「信州」の美しい風景と戯れていた。

 今、わが息子は「信州」長野市に住んでいる。それは偶然なのか? それとも必然なのか? それはどちらでもよい。私にとってそれほど重要なことでもない。私は息子が「信州」にいることを大義名分として、その地を訪れることができるという大きなメリットを得ている。

 ただ「観音」のような妻が、心の中で「般若」のような心持を抱いていることは察知してはいるのだが。そのことを度外視してはっきりと言えることは、「信州」という地は、私にとって「香り高い風土」なのだと。

信州・中野在住のパルセイロサポーターへの心からの御礼

Img_0005_3 AC長野パルセイロサポーターである信州・中野市在住のご家族一同に、わが息子、翔平の父親として心から感謝申し上げます。

 「信州ダービー」ゲーム終了後。南長野運動公園総合公園球技場で手渡しいただいたCDを、今日の午前中に拝見させていたいた。息子がテレビ出演した際の映像を見た。恥ずかしくて見ていられなかった。

CDには300枚近くの息子の写真が写しだされていた。写真一枚一枚すべてを拝見させていただいた。その写真の枚数は、その回数、被写体に向かってカメラのシャッターを押された方がいらっしゃるという事実があることの証明だ。奥様に心から御礼申し上げます。

 「信州ダービー」ゲーム前、バックスタンド中央のピッチに近い席に座っていた。私の前に男性が現れた。ご主人だった。私の目の前で、雨具の下のパルセイロのゲームシャツを見せていただいた。その背番号は「6」番だった。「買ってしまって!」とつぶやかれたような気がする。私は笑顔でなにげなく平静さを装った。ご主人が席に戻られた後、私の息子の背番号「6」のゲームシャツを着ていらっしゃる方がいることに感情が揺らいだ。降る雨が、私の流れる涙を隠した。

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 「信州ダービー」の日に旧知の人々に出合った。現在、パルセイロでプレーしている奈良育英高校時代の盟友のご両親にお会いした。ほんとうに懐かしかった。お元気そうだった。当日、ゲーム終了後に車で京都まで帰られると聞いた。
 昨年、福井・三国、見知らぬ地、パルセイロ対サウルコスのゲーム終了後、とぼとぼと訳もなく歩き続けている私に、「しょうへい君のおとうさんですか?」と声を掛けていただき車に乗せていただいた女性にも、今回もお会いできた。お元気そうだった。
 ただ、その折に同乗されていたその方のお母さん、もう一人の女性にはお会いできなかった。そして、あるもう一人の男性にお会いできなかったことも心残りではあった。

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 パルセイロサポーターである信州・中野市在住のご家族に、ゲーム終了後に、南長野運動公園から宿泊先のビジネスホテルまで車で送っていただいた。加えて心から御礼申し上げます。

 ※ 信州・中野市在住のパルセイロサポーターに撮っていただいた写真を幾枚か紹介させていいただきました。

JR長野駅前 海鮮酒家「北の家族」にて

Img  5/17(日)18:00、JR長野駅前の「東急百貨店」前の広場で息子と待ち合わせた。「何を食べる?」と聞くと、「何でもいい、居酒屋でいい!」と言うので、昨年末に一人で立ち寄った「飛騨」へ行ったが、残念ながら日曜日なので休んでいた。一作年に二人で入った「花の舞」を通り過ぎ、「東急百貨店」北側にあった「海鮮酒家 北の家族」に入った。

 北海道直送というだけあって魚はおいしく、店の雰囲気もよかった。小部屋のようにパーテーションで区切られていたのでちょっとした隠れ家気分だった。ひもじい思いをしているのかどうか知らないが息子はよく食べる。私はと言えばそれほど食欲もなく、その姿につられながらビールや焼酎を久しぶりによく飲んだ。心地よく酔えた。

 息子にとっては嫌な奴と飲んでいる気分でいるのかもしれないが、私には心地よい気分だった。さまざまな話題が対話として流れ続けた。18:15から飲み始め、はっと気づいたのが21:45だった。3時間30分はあっと言う間に過ぎ去った。、誰にも気兼ねせずに酒を飲んだまれなひとときだった。

 さまざまな話題が出た。「サッカー」がキーワードだった。息子の過去から現在に至るまでのそのサッカー環境、また関わっていただいた人々の名前や現況のことが会話として流れた。現在所属するAC長野パルセイロのサッカー環境の良さ、いままでサッカーをしてきた小中高校・大学のサッカー環境の良さを、私が言うまでもなく息子本人がはっきりと認識していた。

Img_0001  奈良のサッカー環境の変化についてもよく知っていた。友人・知人のネットワークからの情報なのだろう。「信州ダービー」のゲームについては、私が述べる資格などはないので観客として見た感じを少し私は述べたが、別段それ以上の詳細については何も語ることもなかった。

 一般的なサッカーの技術の話題で、「ボールタッチ」という言葉が息子から出た。「ソレステでは、ボールタッチを大切にしてるの?」と聞くので、ソレステ・ジュニアユース指導者である、息子の教育実習の折の指導教官、また中学校時代のサッカー部指導者の名を挙げ、「サッカーの生命線として、一生懸命に取り組んでいる!」と伝えた。私と同様に、いや当たり前のことなのだが、育てるためにも勝つためにも、小中学生にとっての「ボールタッチ」の習得の重要性を息子は私以上に認識していた。

 酒の酔いに身を任せながらも、私は息子の「一途な気持ち」は受け止めた。小・中・高校、大学で、またその他の社会人チームであれば、自分自身がそこでプレーし続けたいと願うならば概ね実現できる。しかし、地域リーグで上を目指すクラブでは、クラブ事情で願いを叶えられないことは当然に在りうるべきだ。ただ、息子の言葉の端々から、クラブがどうであれ、AC長野パルセイロと命運を共にするという、古風で化石的な想い、私流の言葉を使えば「曽根崎心中」的な想いを抱いているのだろうと受け止めた。

 酒を飲み楽しい気分に没入しながらも、これだけは冷静になって息子に伝えて置かなければならないということがあった。一つは、「好きに生きたらええ!」ということ。二つ目は、「サッカーをし続けられている一番の功労者はおかあさんの存在だ!」ということだ。その二つのことだけを、信州の夜に二人だけの会話の中で私は父親として伝えたかった。

 息子と「北の家族」の店の前で別れた。信州・長野の夜道をひとりホテルまで歩きながら、身体能力、サッカー能力が人に比べて劣る息子が、今もサッカー選手としてピッチに立ち、活躍できるかどうかなどとは関係なくボールを追いかけることができているのは、サッカーを始めてから出合った無数の人々、小学校時代の地域のおじさん・おばさん、中・高校、大学時代の指導者、それぞれの仲間たち、そして、AC長野パルセイロの指導者・選手・サポーターの御蔭だと一人の父親として万感の思いを抱きながら、さまざまな人々の顔を想い描いた。感謝!!

「海鮮酒家 北の家族」公式サイト

善光寺「回向柱」 結縁(けちえん)

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 5/17(日)、18(月)両日、朝5:30に善光寺へ詣でた。初日は雨模様、2日目は快晴だった。本堂の前に「回向柱(えこうばしら)」が空に突き刺すように立つ。本堂内の「前立御本尊(まえだちごほんぞん)」の御手と「回向柱」は「善の綱」で結ばれている。

065 061  青空、雲、建築、柱、綱。ただそれだけなのかもしれないが、その場所と流れる時間は、ゆったりとしたもので、日常的な雑然とした生活を省みることができる非日常的でありながらも、在るべき荘厳なひとときだった。

 われわれは何か大切なものを失くしてきたのか、消し去ろうとしてきたのかと罪を感じながらも、悠久の歴史の中で、北信濃の地に存在しつづける善光寺、いかなる宗派も問わず、多だある寺院は「女人禁制」であったにも関わらず、女人をも迎え入れてきた。そのおおらかな世界が私を静かな安らぎの世界へと導いてくれる。

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 「回向柱」に触れることにより、「善の綱」と繋がる「御本尊」に触れることと同様な功徳をうることができると信じられている。多くの人々が長い列に並び、「結縁(けちえん)」の時を待ち続けていた。その光景を、現代という効率を重視する世界から意味のないものと見る人々もいるだろうが、情念というものが希薄になりつつある今の社会の中で、人が生きてきた、生きていく、その根底の最も大切な「想い」「願い」「祈り」というものを私は好感をもって垣間見た。

和泉庄の「大きんつば」

 5/17(日)18:00、JR長野駅近くの「東急百貨店」前で息子と待ち合わせた。少し時間があったので地下の食料品売り場で「桜井甘精堂」の栗菓子を土産に買った。なにげなくその近くの和菓子店のウインドゥーの中をのぞいていたら、あれっと、余りにも興味をひきつける品が目に飛び込んできた。

 普通は四角いものが多いと、自分自身で思い込んでいたのだが、それは素朴な丸い形状をしていた。薄皮から「あずき」が少し見えている。見た目にもおいしそうだった。「きんつばだ!」と心の中でつぶやいた。その和菓子店には、「信州飯田 和泉庄 名代大きんつば」と書かれていた。一切迷わずに、2個のきんつばを買った。

 その夜、息子と酒を飲んで後にビジネスホテルの一室へ一人戻り、お茶ときんつばで信州最後の夜を過ごした。実に素朴でおいしい味わいだった。

「信州飯田 和泉庄」公式サイト

CD「中山晋平傑作集」

Img_0006 Img_0005  昨晩の深夜は、5/16(土)、信州中野の「中山晋平記念館」で買ったCD「中山晋平傑作集」を聴いていた。わが国の歌謡史で偉大な足跡を残した作作曲家・中山晋平は、大衆の誰もが口ずさめるような伸びやかな永遠のメロディで人々を魅了した。同氏の作品である童謡、流行歌は今も我々の心の唄としてあり続けている。

 全30曲を静かに聴いた。「シャボン玉」「あの町この町」「てるてる坊主」「肩たたき」「兎のダンス」「砂山」「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」「波浮の港」「船頭小唄」「東京音頭」等々の唄が心地よく耳に聴こえた。

 大正3年(1914年)に、作家・島村抱月、女優・松井須磨子が立ち上げた「芸術座」の舞台、トルストイの「復活」の劇中歌として松井須磨子によって歌われた「カチューシャの唄」は、わが国の初めての流行歌と言ってよい。中山晋平、27歳の時のデビュー曲で、当時、爆発的にヒットした。
 「カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪 とけぬ間に 神に願いを(ララ)かけましょうか・・・・」。

 私はその時代には生きてはいないが、ラジオかテレビで流れていた「カチューシャの唄」は、印象深く心にに残り続けている。好きな曲だった。その曲を聴きながら、私は松井須磨子を思い浮かべた。わが国で初めての「女優」といっても過言ではない。大正8年(1919年)、島村抱月がスペイン風邪で亡くなった3日後、松井須磨子は自ら命を絶ち、その炎の人生に幕を引いた事実を、後年、私が大学生だった頃に初めて知った。

 松井須磨子は、信州・松代で、作詞家・高野辰之、作曲家・中山晋平は信州・中野で生まれ育った。「唄」というものに誘われて、私は北信濃の地を訪れたのだと思う。昨晩、深夜丑三つ時に、「風土は人を育てる」とい余りにも単純明快なことが、脳裏にこびり付いていた。

「高野辰之作詞 全国校歌集」

Img 発行:豊田村(長野県下水内郡豊田村)1996.12

 
高野辰之は、「唱歌」の作詞だけでなく、北は北海道から南は九州までの全国の「校歌」を作詞した。この本で紹介されているのは、北は「網走高等女学校(現:網走向陽高校)」から、南は「門司高等女学校(現:門司北高校)」までの70校の校歌が掲載されている。

 奈良県にも、高野辰之が作詞した校歌があった。「奈良県師範学校校歌(現:奈良教育大学)」(昭和4年)だ。その第一節は、「国のまほろま美し大和・・・・・」。最終節は「熱と望みに生くる園」で結ばれている。

 かつては、求心力の象徴として「校歌」が重要視されたのだろう。高野辰之のみならず著名な文学者が「校歌」「の作詞を手がけた。皆がともに歌うという行為の中で、連帯感が育まれていたのだろう。

 最近は共に歌うということが消失してしまっている。どこか個的な風景の中に歌が存在している。共に歌えないということは、共に
共感し行動できにくくなっていることであるのかもしれない。それが、時代の趨勢なのだろう。

2009年5月22日 (金)

「高野辰之青春の想い」~師範学校当時の詩集~

Img_0001 発行:豊田村(長野県下水内郡豊田村)2001.09

 
発刊の巻頭に、「青雲の志を抱いていた一青年高野辰之に照準を絞り、当時書き留めた長編詩歌集“故山前・後編”を中心に編集」したとある。現代は、「青春」、「青雲の志」という言葉などは死後になっいる。わが国の近代という時代には、多くの若者ものたちが、確かにそのようなエネルギッショな想いを抱いて未来へと撃ち生きていた。

 「深山の奥に埋もれて ただに朽ちなん苦しさに 隔てぬ友を語らいて 都の空に向いけり」 
 北信濃の村に育ち、明治35年(1902年)、23歳で青雲の志を抱いて状況した時に、いかなる想いを抱いてふるさとを旅たったのだろうか?

 ふるさとを後にして23年後、大正14年(1925年)、東京帝国大学の文学博士の学位を得て報告のためふるさとへ帰郷した折に、「帰郷吟」という五首の歌を詠んだ。その中の二首、

「停車場に 並み居る子ども 礼正し 聞けば皆これ わが姪わが甥」
「よろこびを 抱きて来たれば 今更に 雪なす髭の 父は尊し」

 
ふるさとへの帰郷の停車場は「替佐駅」である。その停車場へ降り立った時の感慨を歌ったものだ。高野辰之は、ふるさとを想いながら、後世に残る歌詞を残した。そのふるさとは彼を誇りとして想い抱いている。だからこそ、その地に、りっぱな「高野辰之記念館」が創設された。「郷土(パトリ)」とは何か? 人が生きていく上で寄って立つべきものは何か? この青春詩集を読みながらそのような思いが脳裏を駆け巡った。

2009年5月21日 (木)

「中山晋平 歌の旅立ち」

Img 著者:(切り絵:春日麻江 解説:宮澤重雄)/発行:ほおずき書籍(2007.07)/定価:1200円+税/P.57

 
信州中野、「中山晋平記念館」で、「中山晋平 歌の旅立ち」という本を買った。いつも旅に出ると、その地方独特の匂いを発する本を衝動的に買ってしまう。帰路の私のバッグは、名産等のみやげ物はなく、その地方で出版された幾冊かの本が入っている。本を買わなければ、バッグはもっと軽いはずなのに、いつも出かけた地方の本とともに我が家へ帰還する。

 この本もその一冊だ。切り絵の中に、中山晋平が作り出した歌詞が掲載されている。切り絵を観ながらその歌詞を口ずさむと、のどかで落ち着いた気分になる。その本の後半は楽譜と歌詞が掲載されている。私にとっては魅力的な絵本のようだった。

 興味が涌き、その本を出版した「ほおずき書籍」をWebサイトで検索した。その地方出版社は長野市柳原にあるという。昨年に長野市を訪れた際に善光寺表参道の書店で「信州ふるさとの歌の風景」という本を買った。その発行元は「ほおずき書籍」だった。

 
「出版は文化のバロメーターというように、本は文化を動かす力を持っています。ほおずき書籍は、中央からは発見できない地方文化や文化人との交流を大切にし、本というカタチで全国に発信しています。」という一文を、「ほおずき書籍」Webサイトで読んだ。「jほおずき書籍」は、確かに地方文化をポリシーのもとに発信している出版社であると私は強い印象を抱いた。

「ほおずき書籍」公式サイト

2009年5月19日 (火)

デジブック「信州ダービー」(2009.5.17)




 5/17(日)午後、南長野運動公園総合球技場は雨だった。カッパを着ての観戦で、デジカメを濡らさないようにと気遣いシャッターを押した。撮影枚数も少なく、加えてうまく撮れなかった。まあ、晴れであってもうまく写真を撮ることはできないのだが。ただ、「信州ダービー」の光景を少しはお分かりいただけるのではないだろうか?

「信州ダービー」観戦記(2)

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 昨年、パルセイロのゲームを数多くはないが観戦した。今年は初めての観戦だった。昨年と比較して人とボールの動きのチームコンセプトの変化を感じた。ゲームの中で、浮き玉だけでなく、今までになくグランダーで強く早いパスを繋いでいた。「ボール保持」「パスの繋ぎ」「流動的な人の動き」から攻撃を組み立てるシーンが昨年よりも顕著に生じていた。

 JFL、J2、J1という高いレベルで闘うことを想定したチームコンセプトの進化として受け止めた。幾度と興味深く印象的な局面でのプレーを垣間見た。前半の戦いぶりは、パルセイロ優位でその状態を保持できると勝利を勝ち取る可能性は高いと判断していた。

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 後半、数的不利に陥った時に優位な状況が崩れた。相手に同点に追いつかれ、確かに数的不利な状況であっても追加点を加え、一時はそのまま逃げ切るのかと思ったが、またも同点に追いつかれた。

 サッカーは11対11のゲームである。その状況でも、一般的に勝利を得る確率はそれほど高くはない。まして数的不利な状況になれば、その確率は11対11の場合よりも少なくなる。Jリーグ、JFLはゲーム数は多いが、地域リーグのゲーム数はそれよりも少ない。dからこそ、まず戦術以前に、11名の選手で90分を戦い終えることが勝利得るためのの大前提となる。

 パルセイロは、今までのゲーム分析をして課題を抽出し、それを克服してより高いレベルで戦うことができるクラブであると、私は信じている。パルセイロの今後の奮闘を祈願する。

2009年5月18日 (月)

「信州ダービー」観戦記(1)

2009_002_2  5/17(土)南長野運動公園総合球技場で、AC長野パルセイロVS松本山雅の注目の一戦、「信州ダービー」を観戦した。幾度となく南長野運動公園総合球技場へ来たが、いつも、その芝生の状態の良さに驚く。素敵なピッチだ!

 雨降る中、約2000人の観客が観戦した。カッパやポンチョを身につけてはいたが、雨に濡れながらも両チームのサポーター、ファンが声援を贈りつづけていた光景を眼前に観た時、その情熱を肌で感じて「信州」のフットボール文化の息吹に、感情が揺さぶられ鳥肌が立つ様な感銘を受けた。

 5/18(月)朝、JR長野駅で、「しなの6号」に乗る直前に「信濃毎日新聞」と「スポニチ」を買った。「信州ダービー」に関した記事の見出しは、「信濃毎日」は、「AC長野 攻めの姿勢」「松本山雅 後半力強さ」。「スポニチ」は、「雨ニモ負ケズ“信州ダービー”追いつ追われつ興奮のバトル」「激闘ドロー」。レベルの高い好ゲームだった。ホームのパルセイロは勝利をもぎ取ることができず、アウェイの山雅はドローをもぎ取ったということになるのだろうか? 私は、AC長野パルセイロ、松本山雅FCの両チームとも魅力ある良いチームであると思っている。よ意味でのライバルとしてのバトルを観た。

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 パルセイロファンとしてそのゲームを観た。昨年もそれほど多くはないが幾度となくパルセイロのゲームを観戦した。昨年と今年では、ゲーム運びに違いが生じているように見えた。私には、ゲームを分析する能力、資格はないのかもしれない。ただ見えた状況の中で、選手とボールの動きが確かに昨年とは違っているようだ。誤解、錯覚、見間違いと言われるのかもしれない。しかし、私はパルセイロの戦術的な進化を観たような気がしている。(つづく)

「AC長野パルセイロ」公式サイト

まほろば奈良へ帰着した!

 昨晩、JR長野駅近くの居酒屋で食事をした。ホテルへ帰着したのが22:00頃だった。3時間半ほど二人で居酒屋にいた。相手が女性であれば良いのだが、残念ながら相手は息子だった。ホテルに戻り、「信州ダービー」の感想を書き記そうとしたが、飲みすぎで心地よい酔いが眠りを誘い、書くことができなかった。

 5/18(月)16:00、無事に奈良・富雄の自宅に帰着した。奈良に帰ってきたのか、それとも奈良へ来たのか、微妙な感覚に襲われている。当初の予定では、JR長野駅9:00発「しなの6号」に乗り、近鉄学園前駅着が13:45、そこから二名中学校へ所要で出かけることになっていたが、中学校関係の方が急遽、会議だと言うことでキャンセルになった。

 携帯に8:41電話をいただいていたが、バッグの中に携帯を入れており気付かなかった。「しなの6号」に乗ると、疲れから眠ってしまった。めざめたのが11:00頃、列車は南木曽あたりを走っていた。バッグから携帯を取りだして初めて気づき、折り返し中学校へ電話を入れた。急遽、予定がキャンセルとなった。もっと早く気づいておれば、もう少しの時間、長野にいることができたのにと、ちょっぴり残念な気持ちだった。すぐに帰る目的もないので、京都駅で昼食をとりのんびりとわが自宅へ戻ってきた次第だ。

2009年5月17日 (日)

信州ダービー 長野パルセイロ対松本山雅 ドロー!

5/17(日)南長野運動公園総合球技場
AC長野パルセイロ 2-2 松本山雅FC (1-0/1-2)

 
第35回北信越フットボールリーグDIVISION 1【第5節】、小雨降る南長野運動公園総合球技場で、前期のひとつの山場である「信州ダービー」が開催され、勝敗決せず、2-2の引き分けに終わった。

 前半41分、パルセイロはPKを得て確実に決め先制した。前半はパルセイロが1-0のまま折り返した。後半13分、パルセイロに退場者が出
た。後半30分に山雅が同点に追いついた。その4分後の後半34分、パルセイロが追加点を加えたが、後半37分、またも山雅が同点に追いついた。ゲーム終了のホイッスルが鳴り、両チームにとっては痛恨のドローだった。

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善光寺 お朝事(おあさじ)へ

017  5/17(日)5:03、小雨降る中をホテル近くのバス停「南千歳」から「お朝事びんずる号」に乗って善光寺へ出かけた。

「お朝事」とは、善光寺で毎朝欠かさずに行われている厳かな法要のことだ。「善光寺御開帳」ということで、5:30という朝早くにも関わらず多数の参拝客が境内に集まっていた。写真は、本堂前に建つ「回向柱」だ。多数の人々がその柱に手をかざして触れようとしていた。

 「前立本尊」を一目見ようと多数の人々が列を成していた。私も一目見ようと並んだ。早朝5:30だというのにすでに長蛇の列ができていた。本堂内陣に入り、「前立本尊」を拝顔して、本堂の外に出たのが7:15だった。

 今朝の長野市は小雨模様である。善光寺参りから徒歩でホテルに戻り朝食を摂った。10:15 ホテルを出発して、JR長野駅から南長野運動公園総合球技場へと向かう。

「中山晋平記念館」を訪ねて

Photo_4  5/16(土)、「高野辰之記念館」からバスで長野電鉄「信州中野駅」まで出た。長野電鉄に乗り、一駅向こうの「延徳駅」で降りて、徒歩で「中山晋平記念館」へ向かった。「高野辰之記念館」近くのバス停「永田」13:55にバスに乗り、「中山晋平記念館」には、15:00頃に着いた。

 誰もが口ずさんだ童謡、大正・昭和の時代の流行歌の作曲家として、大衆の唄の創出者として輝く存在である作曲家・中山晋平もまた、長野県・中野市が故郷だ。同氏は、「カチーシャの唄」「ゴンドラの唄」「てるてる坊主」「砂山」「シャボン玉」「あの町この町」「東京音頭」等の作曲家だ。

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 一組の壮年御夫婦とともに、館内で上映された中山晋平の生涯のビデオを観た。中山晋平は、この地で生まれ育ち、18歳の時に志を抱き母を残し上京のためその村を出た。その時、どのような気持ちであったのだろうか。北信濃の村から東京は余りにも遠い。彼もまた故郷を背負い生きた。思いを親しみやすくおおらかなメロディーは、こののびやかな北信濃の風土が育んだものなのだろう。記念からの帰路、右手彼方に信濃富士と呼ばれる高社山、左手彼方に北信五岳を望みながら、そのようなことを感じ取った。

 記念館近くの小さな川で、30歳台の女性たち4人が幼児を連れて、即席の釣り糸を垂れていた。何が釣れるのだろう? 一人の女性に聞いてみた。すると、母親のそばにいる幼児が網の中を見せてくれた。「蟹」だった。のどかで伸びやかな光景だった。

 北信濃の地は、どことなく芳しい香りが漂っている。音楽を奏でることができる風土なのだ。だからこそ、「故郷」の作詞者・国文学者の高野辰之、「カチューシャの唄」の作曲家・中山晋平、そして、宮崎駿のアニメの映画音楽で著名な久石譲を産み出したのだと私は認識した。

「中山晋平記念館」Webサイト

2009年5月16日 (土)

「高野辰之記念館」を訪ねて

Photo_7  5/16(土)後、長野県中野市大字永江にある「高野辰之記念館」に立ち寄った。以前から訪れたいと願っていた。「高野辰之」とは、一体誰なの?と思われる方もいらっしゃるのかもしれない。文部省唱歌「故郷」の作詞者だ。その「故郷」とはどのような唄なの?とまたも思われる方もいらっしゃるのだろうか? 「♪♪兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷・・・・・♪♪」という唄だ。一度は聞かれたことがあるのではないだろうか?

 JR長野駅から飯山線に乗り、12:10に「替佐駅」で降りた。駅員はいなかった。バスはその時間帯に運行していなかった。「替佐駅」から「高野辰之記念館」まで歩くことにした。距離は4キロ、徒歩で1時間だと見積もった。「高野辰之記念館」への標識が出ていたので、それを頼りにゆっくりと周囲の風景を眺めながら歩いた。13:00ちょうどに記念館に到着した。

Photo  かつて、高野辰之氏が学び、代用教員として子どもたちを教えた永田尋常小学校跡地に、その記念館は建っている。農民の子として生まれ、厳しい父の下で農業を手伝いながらも、向学の志を抱いた少年だったという。26歳時に故郷を離れて上京し、努力の末に国文学者として、また唱歌の偉大なる作詞者として後世に名を残した。われわれが、よく知るのは、唱歌、「故郷」「春が来た」「朧月夜」「紅葉」などのいまでも口ずさみことができる唄の作詞者である。

 その故郷に、私は、まほろば奈良からやって来た。なぜ?と問われれば、「故郷」という名曲の作詞者が、生まれ育った「ふるさと」を感じ取りたかったからと言うことしかない。「風土」を訪ねたい。そこには育んだ何かがあるはずだ。「自然」と「人間」の交差する繋がりが特徴的などこにもない環境を創り出している筈だ。

Photo_2  今日、記念館を訪ねて初めて知った。高野辰之氏の父は、農民でありながらも向学心を持ち教養を身につけていた。当時、小布施の町へ通い、陽明学者・高井鴻山の塾に通っていた。父親の思いと実践が、文化的な環境として、息子の高野辰之に影響を与えたということは事実であろう。絵師・葛飾北斎は、高井鴻山の庇護を受け、小布施に滞在した。文化的風土がそこには存在している。 素直に感じたのは、この地は自然の「風土」と、人が創り出す「風土」の交錯する中で、「文化」が存在し続けていることを、私は感じ取らざるを得なかった。

 訪れたその時間、私だけがその記念館の訪問者だった。若い女性職員のお二人は、親切で好感を抱いた。「中野晋平記念館」への行き方を尋ねた。バスで長野電鉄・信州中野駅まで出ることを教えていただいた。ただ、バスの時間が13:55で、その後は16:00過ぎしかないのだと言う。困った!何が何でも、13:55のバスに乗らねばならない。

Photo_3  あわただしく、あせりながら館内を見てまわった。最後に芳名録に名を記した。昨日なのだろうか、私の前に来館された方は、住所が大阪府大東市赤井の一人の女性の名が記されていた。なぜ、その女性が、「高野辰之記念館」を訪れられたのかと思い描きながら、バスで長野電鉄「信州中野駅」へ向かった。

「高野辰之記念館」公式サイト


 「デジブック」を作成しました。写真30枚を掲載しています。閲覧所要時間は約90秒です。

5/17(日)、明日は楽しみな「信州ダービー」だ!

003_2  5/17(日)、第35回北信越フットボールリーグDIVISION 1(第5節)、AC長野パルセイロ VS 松本山雅FC、通称「信州ダービー」が、南長野運動公園総合球技場で、13:00キックオフだ。勝敗などに関係なく、その一戦を心から楽しみにしている。

 5/16(土)10:52、JR長野駅に着くや否や売店で、「信濃毎日新聞」を買った。同紙の第6面は「信州ダービー」の全面広告だった。オフィシャルスポンサー、アドスポンサー、企業スポンサーの名が列挙されていた。試合前日に地域新聞で全面広告を掲載されること自体、関西地方では考えられない。それだけ、街がクラブを支えているのだろう。

 明日のゲームの入場券は完全前売制で当日券は発売しないという。わが国での地域リーグのゲームでは考えられないことだ。それだけ熱狂を呼ぶのだろう。そのことは、Jリーグなどのような華やかさを持たないとしても、地域リーグとして信州・長野に確固としたフットボール文化の芽が育っていることを証明している。「サッカー不毛の地」と、かつて言われた地域が、これだけ盛り上がるには、そこへ到るまでのさまざまな人々の労苦があってこそだと、私には想い描くことができる。

001  「橙の獅子(Orange Lion)」(パルセイロ)と「緑の雷鳥(Green Ptarmigans)」(松本山雅)の「信州ダービー」熱狂のゲームが明日、キックオフだ。昨年の全国社会人選手権、地域決勝リーグでの両クラブ並びに北信越フットボールリーグのレベルの高さは証明済だ。

 明日、南長野運動公園総合球技場へは、JR篠ノ井駅からのシャトルバスを利用する。昼前には会場へ到着したいと思っている。いづれのクラブが勝利をもぎ取ろうが取るまいが、勝敗などに関係なく地域リーグでの最高峰の両クラブの魂闘を観戦したいと願っている。

信州・長野へやって来た!

 5/16(土)、自宅最寄のバス停春日橋 5:50のバスに乗った。近鉄奈良線富雄駅6:03の電車に乗り西大寺で乗り換えJR京都駅へ、同駅発7:16新幹線「のぞみ104号」に乗った。JR名古屋駅で降り在来線中央本線、同駅発8:00の「しなの3号」で、JR長野駅に10:52に到着した。出で立ちはいつも通り、代わり映えもせず、ソレステのジャージにバッグ姿、実にその姿が気軽なのだ。今回のキーワードは、「信州ダービー」「高野辰之」「中山晋平」「善光寺御開帳」の四つだ。

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 JR長野駅に降り立つと、「善光寺御開帳」一色だった。改札口前の「善光寺御開帳案内所」に即座に立ち寄った。さまざまなパンフレット類をいただいてバッグの中に入れた。多くの人々が案内所に訪れていた。奈良で見た新聞で、前回よりも参詣者が増加しているという記事を思い出した。長野市は、間違いなく善光寺の街だと痛切に感じている。

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 今日は善光寺へは出かけず、明日の朝に参詣する予定だ。荷物をJR長野駅構内のコインロッカーに入れ、身軽な出で立ちで、JR飯山線の列車に乗ると、薬草のような香りがした。思い違いだろうか? でも、独特な好ましく素朴な匂いだった。以前から訪れたいと願い続けていた「高野辰之記念館」へ立ち寄るため、一路、「替佐駅」へ向かった。

2009年5月14日 (木)

奈良西警察署へ出向いた件について

 5/14(木)20:00、奈良西警察署へ出向いた。生まれて初めて警察署の取調室へ入った。わがクラブのWebサイトが、外部からの攻撃を受けた件についての捜査の参考聴取だった。いろいろと聴取され話した内容については一切ノーコメントとする。

 ただ、わがクラブのWebサイトが受けた攻撃は、「高度な技術によるもの」だそうだ。その攻撃が「特定されたもの」か「不特定なものか」の解明のための聴取だった。私のようなアナグロ人間には、「サイバー攻撃」などという言葉や、高度で物騒な事象などは、まったく無関係なものだと思ってはいたのだが・・・・・。

「善光寺の謎」

Img 著者:宮元健次/発行:祥伝社文庫(2009.03)/定価:600円+税/P.259

 5/11(月)日本経済新聞朝刊で「善光寺御開帳」の記事が掲載されていた。「善光寺御開帳」とは、絶対秘仏の本尊の分身である「前立(まえだち)本尊」を6年ごとに公開する行事だ。今年はその御開帳の年にあたり、4/5から行われている。前回の2003年は2ケ月間で628万人が訪れ、今回はそのペースを上回っていると報じられていた。5/16(土)から長野へ出かけ、善光寺御開帳を参詣するつもりでいる。この本は「善光寺の謎」に迫る興味深い本だった。

 かつての偏狭の地で巨大な伽藍を構えた善光寺は、権力によってではなく民衆の信仰によって支えられた寺院である。「権力はうつろいやすいが、民衆の力は巨大である」。

 善光寺の最大の特徴は、無宗派性にある。創建は640年頃と古く、その時代には仏教の諸宗派が存在していなかったためと言われる。すべての者を受け入れるという雰囲気が善光寺には漂っている。私は知らなかったのだが、「伝説では642年、本田善光(ほんだよしみつ)が難波の堀江で阿弥陀三尊像を拾い、自宅まで背負ってきて祀ったのが善光寺のはじまりであるといわれる。」

 興味深かったのは、善光寺のご本尊は日本最古の仏像で絶対秘仏、聖徳太子とも関係がある寺、聖徳太子に滅ぼされた物部守屋の鎮魂寺、本田善光は渡来人、信州・長野の地名は、大阪・河内長野が語源、等々興味深い内容であった。

 今週末は、まほろば奈良から信州長野へ出向く。善光寺御開帳へ参詣するための事前勉強には最適な本であった。

「善光寺御開帳」公式サイト

2009年5月13日 (水)

5/14(木)20:00 奈良西警察署へ

 5/12(火)18:24、奈良県警から私の携帯に電話が掛かってきた。以前、わがクラブのWebサイトが、外部からの力で障害を生じさせられダウンした。プロバイダーからの依頼もあり、奈良県警のサイバーなんとか担当へ被害届を提出した。その件で話を聞きたいというのが電話の内容だった。捜査の上で、いろいろな情報を知りたいと告げられた。どのようなことを聞かれるのかは知らないが、5/14(木)20:00 奈良西警察署へ出向くことになった。

今日、アクセス数 150,000を超えた!

 今日、ブログ・アクセス数が、150,000を超えた。アクセスカウンターは左サイドバー下部に表示されている。5/13(水)21:20現在、アクセス数150,120となっていた。

 過去1週間でサイト内からヒットした「Word」は276ある。その中で、アクセス数が多い順にランク付けすると、①サッカー45回 ②奈良44回 ③36回となっている。

 それはアクセス数が多いベストスリーだが、アクセス数がたった1回だけという「Word」も多くあった。その中で、他の人々からは何のことだか解らないだろうが、個人的に興味あるものを列挙すると。「ベグナス湖」「東郷青児」「ジャンジャン横丁」「大阪セルロイド会館」「アジアコーヒ」「中田屋のきんつば」等々。

 Webサイトを検索していた方が、何かの興味と理由でその時に浮かんだ「Word」を打ち込んだ結果、私のブログに偶然にも遭遇した。偶然であったとしても、確かに私とその方々とは、「Word」で表されたものの中に何かの共有するものがあったのだ。

2009年5月12日 (火)

「この街が、私たちの原点です。」

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 近鉄鶴橋駅奈良線のホーム西端に立っていると、線路に沿って㈱徳山物産のセピア色の写真広告が見えた。「この街が、私たちの原点です。」というキャッチコピーが目に入った。私の琴線に触れる言葉と写真だった。

「株式会社徳山物産」公式サイト

[平城人」、鴻ノ池に舞う!

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 5/9(日)7:20、奈良市鴻ノ池陸上競技場前にいた。リニューアルのテープカットを待っていた。私に声をかけくる若者がいた。ふと見ると、ソレステレージャ奈良2002ジュニアの前身である西奈良ニーノスフットボールクラブスポーツ少年団時代に、ボールと戯れながら遊んだ子どもだった。もう23歳になっただろうか? 市民体育大会での開会式で踊るという。開会式は最後までいるので、必ず観ると答えた。笑顔を浮かべながら、踊りの準備のために、彼は私の傍らから遠ざかって行った。

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 競技場のブルートラック横の椅子に腰掛けながら、「平城人」の踊りに見とれた。彼は一生懸命に舞った。サッカーだけがすべてでもない。好きなものに夢中になればいい。人ぞれぞれなのだから。ただ、取り組む姿勢、軸だけはぶれないようにと、わが子を思う父親のような気持ちで、彼の舞う姿を観ていた。

「平城人」公式サイト

2009年5月10日 (日)

第63回奈良市民体育大会開幕!

001  5/10(日)、第63回奈良市民体育大会春季大会が開幕した。リニューアルされた奈良市鴻ノ池陸上競技場で開会式が行われた。

 7:40 ファンファーレ演奏とともに煙火打ち上げが行われ、奈良市消防音楽隊・一条高校吹奏楽部の奏でる行進曲が流れる中、参加競技39団体の選手たちが、旗をなびかせ入場してきた。メインスタンドからは、「○○競技、頑張れ!」というエールが飛び交った。奈良市において、さまざまなスポーツ競技に老若男女を問わず関わっているという現実をまざまざと脳裏に焼き付けられた。式典場でのすべての参加競技団体の整列が終わった。

 都祁中学陸上競技部の女子選手が炬火(きょか)を持ち、第三コーナーからトラックに入ってきた。煙たなびかせ走る姿は中学生でありながら凛々しかった。私の旧知の先生が私の傍らで、勤務する中学校の女子選手の後ろ姿を追っていた。炬火を抱きホームストレッチからバックスタンドの炬火台へ駆け上がる女子選手の姿は、私が幼かった頃の「東京オリンピック」の聖火点灯を思い起こさせた。

 式典は国旗掲揚・国歌斉唱とつづき、スポーツの歌「若い力」が流れる中、奈良市旗、大会旗が掲揚された。「若い力」という歌が流れた時、感情が高ぶった。好きな歌だった。私が中学生だった頃に、楽譜などは読めなかったのだが、「歌の泉」という本でその歌を覚えようとした。

 その歌は、「♪若い力と感激に 燃えよ若人 胸を張れ 歓喜あふれる ユニフォーム 肩に一ひら 花が散る 花も輝け 希望に充ちて 燃えよ青春 強きもの♪」という歌詞だった。スーツにネクタイを締めて開会式に参列した。このようなセレモニーの場で、遥か昔を思い出して感極まって涙などが流れ落ちたならば、一生の不覚だと思い歯を食いしばって耐えた。

 式典は私の感情の内側以外、つつがなく終了した。記念セレモニーに入った。模範競技(100m)で、北京五輪陸上競技100m銅メダリストである朝原宣治さんが、鴻ノ池陸上競技場トラックに魂を込める意味で、子どもたちと疾走した。バサラ踊り「平城人」や「せんとくん」のパフォーマンスが続き、記念セレモニーもファンファーレ演奏の中、煙火打ち上げで華やかなセレモニーは終幕した。

 一言で感想を言えば、私にとっては、かつての想いがよみがえるような素敵な時間だった。奈良市民体育大会の開会式に、わがクラブのジュニアの子どもたちが行進してくれることを願った。通常ゲームに明け暮れざるをえないだろうが、非日常の時間と空間という「祝祭」を体験し興ずるのもまた楽しからずや。

祝・奈良市鴻ノ池陸上競技場リニューアル

024  5/10(日)、奈良市鴻ノ池陸上競技場がリニューアルオープンした。昭和59年(1984)以来の大改修を実施した。国内でも数少ないブルートラックが採用された。一番の特徴は、ブルーの色彩が運動生理学上、選手の集中力向上に高い効果があるという。メインスタンドの全面改修を行われた。補助競技場もブルートラックとなっている。

 5/10(日)7:20にリニューアルのテープカットがあった。参列させていただいた。北京五輪の陸上100メートルの銅メダリストである朝原宣治さんがお見えになりテープカットをされた。

 奈良県は「わかくさ国体」(1984年)の折に体育施設が充実したが、それから四半世紀を経て、大々的な体育施設の改修工事をするに至らなかった。さまざまな事情があったのだろう。今年の夏、全国大会の大イベントであるインターハイ(高校総体)が開催されることになり、鴻ノ池陸上競技場の大改修に踏み切れたのだろう。

 人も団体も行政も、何か大きなプレッシャーがなければ動き出すことができない。とやかく書き記すこともない。いずれにしろ、まずは本日の奈良市鴻ノ池陸上競技場のリニューアルを祝いたいと思っている。

土門拳「こどもたち」

Img 著者:土門拳/発行:小学館(1995.09)/定価:2500円/P.159

 「不世出の写真家が切り取った昭和の真実」
 「飽食の時代の日本人が忘れてしまった生き生きよした表情。悲痛な表情。こどもの世界から見た昭和の歴史」

 
昨晩、14年近く前に買った写真家・土門拳の写真集を見ていた。戦後まもなくから昭和30年代の子どもたちの日常の姿が鮮やかに切り取られていた。土門拳のまなざしは優しく、現実をあくまでも事実として写真に映し出した。

 子どもはおとなの、また社会の鏡である。ずっとずっと気になり続けている。紙芝居に夢中になり一心不乱の子どもたちのまなざしがある。我々は、スポーツ・カルチャーの領域で、この紙芝居を見ている子どもたちのように魅了させる何かを、我々おとな自身、また地域社会は育んできたのだろうか? もしかしたら、「子どもたちを育てている」という美しい言葉の中に虚偽という陥穽を創り出しているのかもしれない。私たちは紙芝居屋のおっちゃんになれるのか?

「土門拳記念館」公式サイト

「筑豊のこどもたち/築地書館」Webサイト

2009年5月 9日 (土)

「千手観音My夢Dream」奈良公演

「折れたる花は 折れたるままに 香りかぐわしく 花を咲かせる
 すべての生命は尊厳を持つ すべての生命には価値がある」


 2009年日中交流 中国障害者芸術団の「千手観音My夢Dream」奈良公演が、5/24(日)に「奈良100年会館」で開催される。その芸術性の高い公演は世界各地40カ国以上の地を訪れ、障害者に夢と希望を与え続けている。2004年のアテネパラリンピック閉会式、2005年愛知で開催された愛地球博、世界的にも高い評価を得た。

「千手観音My夢Dream」公式サイト

二名(にみょう)の小道から空を仰いで

007  5/9(土)朝の奈良市二名の小道の風景である。右手には二名小学校、道の左手下には、二名中学校が見える。両学校は平面にあるように見えるが、かなりの高低さがある。この小道からは両方のグランドが見える。いずれのグラウンドでも、二名小学校グラウンドは金網越しに見ることができ、二名中学校グラウンドは小道からを眼下に見渡せば俯瞰できる。この小道はじつに楽しみを与えてくれる。

 


008  この小道から二名中学校グラウンドを見下ろした。ここでサッカーのゲームが行われていれば、実に全体の動きがよくわかる。今日の午前中は、陸上なのだろうか部活動の練習が行われていたようだ。

 音は上に流れる。ここに立つとグラウンドの指導者や子どもたちの声がよく聞こえる。今日の午後も、どこかで聞いたことのある趣のあるというか、特徴のある個性的な、私には心地よいおとなの声がはっきりと耳に聞こえてきた。


009  小道から少し二名小学校グランド敷地内に入った金網横の樹を見た。刈り取られた枝の上の若い枝と葉が空に向かって心地よく伸びようとしている。植物のl生命力とは凄いものだ。

 人間も本来は、この若い枝よ葉のように、勝るとも劣らない生命力を持っている。おとなも子どもも、青空と希望が伸びる力を引き出してくれるはずだ。

土門拳 「腕白小僧がいた」

Img_0002 著者:土門 拳/発行:小学館文庫(2002.9)/定価:790円+税/P.207

【コンテンツ】 下町の子どもたち/日本の子どもたち/筑豊の子どもたち

 今年は生誕100年で、作家の松本清張・太宰治、そして写真家の土門拳が取り上げられている。この本は、リアリズム写真家の土門拳が、戦前、昭和30年代の下町・炭鉱町の子どもたちの情景を写した写真とエッセイの本だ。さまざまな環境の中で、生き生きと目を輝かせた子どもたちの姿が新鮮である。

 さまざまな写真家が、被写体としての子どもの存在が希薄になったということを書いた文章を読んだことがある。スポーツ現場では、子どもの逞しさ、精神的な弱さが指摘され続けている。その大人たちが逞しいのか精神的に強いのかは別にして、また私自身が逞しいのかどうかなどを別にして、身勝手に私を含めたおとなたちは子どもたちを比較評価することが多々ある。

 確かにこの写真集を見ると、かつての子どもたちと今の子どもたちの、古臭い言い方をすれば、「面構え(つらがまえ)」が違う。今の子どもたちは、かつての子どもたちと比較されて精神的に弱いという評価がなされる。そのことは今の子どもたちが悪いのか? それとも環境を作り育てたおとなたち、社会全体が悪いのか? 私自身が個人的に言えることは、子どもたちはおとなたちの責任回避を被っている存在だということだ。

 真夏のような暑い日の夕刻に、自分自身にとって気になることがあり、以前に買って観た写真家・土門拳のこの写真&エッセイ集を手に取った。その写真集を観ながら、今の子どもたち、また未来の子どもたちが、生きていく逞しさを習得するには、我々おとなたちが、いかに考え行動すべきなのかを考え続けていた。

「土門拳記念館」公式サイト

ソレステ(U-12) 女神が微笑む!!

001  5/9(土)、全日本少年サッカー大会奈良県大会が始まった。会場のひとつとして、奈良市立二名小学校グラウンドで予選リーグが始まった。ソレステ(U-12)が属するグループは、センチュリー、マスガ、俵口ファルコンB、陵西、ソレステの5チームが集まった。今日、ソレステ(U-12)は2試合があった。試合結果は、ソレステが2勝した。

ソレステレージャ奈良2002(U-12) 4-0 陵西

ソレステレージャ奈良2002(U-12) 3-1 センチュリー

 
いずれのチームの子どもたちも一生懸命にボールを追いかけていた。われわれ大人たちは、サッカー批評家のように観戦してしてしまいがちである。ただ、子どもたちは大人の思いや指示など関係なく、上手な子も上手でない子も、程度の差はあれ、必死でボールを追いかける。実にアナーキー(無政府的)で刺激的である。

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 ソレステ(U-12)の
今日一番に印象に残った試合は、2試合目の対センチュリー戦だった。ほんとうに久しぶりに女神が微笑んだ面白く劇的なゲームを観た。終了間際に渾身のというか、劇的ハプニングと言おうか、いずれにしろ2ゴールを挙げて女神が微笑んだ。

 対戦相手のセンチュリーはいいチームだった。わがソレステよりは、ボールを、ゴールを奪おうとする気持ち、意気込みは上であった。総合的な実力でもおそらくわがソレステよりも上であろう。ただ、ちょっとした気まぐれで女神が微笑んだにしか過ぎないのだろうか?

 特にピッチを一生懸命に、積極的にひたむきなほど駆け巡っていたセンチュリーの女子が印象深かった。目に焼きついて離れない。サッカーは男女関係なく魅力的なものであり、必死にボールを追う姿は、年齢・性別を問わず素敵である。

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 今年からかどうかは解らないが、「全日本少年サッカー大会」の企業スポンサーの横断幕が配られ、わがグラウンドにも掲げた。さまざまなスポーツ界において、スポンサー撤退がメディアで報じられている。子どもたちのサッカーを支えていただいていることに敬意を表するため大会企業スポンサーの横断幕写真を掲載した。

「2009近畿まほろば総体」総合開会式 一般観覧者募集中!

Img_0001 「君が今 歴史の新たなページを創る」
  平成21年度全国高等学校総合体育大会(インターハイ)「2009近畿まほろば総体」の総合開会式が、7/28(水)奈良市・鴻ノ池陸上競技場で開催される。大会実行委員会が総合開会式の一般観覧者1,000人を募集している。詳しくは下記の「2009近畿まほろば総体」公式サイトを参照してください。

 第39回国民体育大会「わかくさ国体」が昭和59年(1984)に開催され以来、25年ぶりに奈良県でのスポーツのビッグイベント、若者たちのスポーツの祭典が奈良県で開催される。楽しみな夏がやって来る。

 総合開会式は、高校生たちが育てた草花で会場を彩り、300名の吹奏楽隊と150名の合唱隊が式典音楽を担当する。マーチングバンド(150名)、バトントワリング(50名)が開会式を盛り上げる。「大和の地 息づく心 『凛』『気』『翔』」をテーマに、約1300名の高校生が公開演技を披露する。総合開会式の最後は、和太鼓の勇壮な演奏で選手団を激励する。

 特にスポーツに興じている小中学生には、期間中は夏休みなので、開会式だけでなく是非とも、高校生たちが汗を流し取り組むさまさまなスポーツを観戦して欲しいと願っている。

「2009近畿まほろば総体」公式サイト

大島四季のふるさと会

Img  新潟県上越市大島区にある「大島四季ふるさと会」のたよりである。私の父は新潟県東頚城郡大島村で生まれ育ち、17歳の時にその村を出た。その地が故郷である。父が生前の時から、「大島四季のふるさと会」に入会している。年4回、ふるさとの四季の味覚が、今も鶴橋の実家に届いている。

 大島区総合事務所編集・発行の「おおしまだより」を読んだ。そこにその区の人口・世帯数が、平成21年2月現在、2,118人(男1,011人、女1,107人)、773世帯と記されていた。その無味乾燥な数字を見ながら、父の故郷の小学生は、今何人いるのだろうか?とふと想いを馳せた。

 鶴橋の実家に帰った日に私は妹に伝えた。私は小学校4年生だった時に、父のふるさとを家族で一度だけ訪れたきりだ。今年か来年には、もう一度だけ訪れたいと思っている。「大島四季ふるさと会」は私が引き継ぐと。

「上越市大島区」公式サイト

「上越市立大島小学校」公式サイト

2009年5月 8日 (金)

「太陽亭」創業76年

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 5/6(水)実家に寄る前に、「太陽亭」で昼ごはんを食べた。ふと、入口の右側の窓ガラスを見ると「創業76年」という張り紙があった。下町の食堂でずっと営業をし続けることは並大抵ではない。それも76年間も。私の母が80歳だということは、「太陽亭」は母の子どもの頃からこの地であったということになる。凄いことだ。

006  五目中華そばを食べながら、壁際を見ると、美空ひばりのポスターが貼ってあった。店のおばさんに写真を撮らせていただいた。一瞬、この店の中にいると、懐かしさがこみ上げてくる。「太陽亭」で食事をしていると、「大成通」にもどってきたと、あたかも母親の子宮の中にいるような心地よさを感じてしまう。

 

2009年5月 7日 (木)

「ふれあいとぬくもりのギャラリー」

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 5/6(火)、母が入所している施設を出て実家へと向かった。平野川にかかる剣橋の手前を左折し川沿いのコンクリート護岸の壁面には、東成区に住む子どもたちの絵が描かれている。「ふれあいとぬくもりのギャラリー」と呼ばれている。子どもたちが描いたさまざな絵は童話的で見ていても楽しい。

 実家へ戻った折には、よくこの場所に立ち寄る。美術館にある著名な画家が描いた絵と、この平野川のコンクリートにプリントされた東成の子どもたちの絵と、どちらが美術的に価値があるのかは言わずとも知れている。ただ、美術的な評価云々などと関係なく、思い、想いを表現したもの、私の遥かな後輩が描いたものとして、笑止されるのかもしれないが、同じ価値あるものだと少なくとも私は思っている。

2009年5月 6日 (水)

祖母と母の「びわこ八景めぐり」

Img_0001  5/6(水)、大阪市東成区今里、母がいる施設へ出向いた。幾ばくかの時間をすごし、そこから徒歩10分の実家へ立ち寄った。妹と二人だけで、路地裏のあまり綺麗とはいえない部屋で、とりとめもなく四方山話をした。

 写真のことが話題になり、妹はアルバムを私の前に置いた。整理できていない写真の群れを見ながら、懐かしさに酔った。私の姿を見ながら、妹は何気なく私に缶ビールを差し出した。ほろ酔いの中で、さまざまな写真に見入り感慨にふけった。

 一枚の写真があった。私の祖母と母の写真である。写真の裏に「びわこ八景めぐり」と記されていた。日付の記載はなかった。、ただ、他の写真の状況と比較すると、恐らく、昭和10年頃の写真だと推測できる。母は昭和3年に生まれた。その写真は母の小学生低学年の頃の写真なのだろう。

 遊覧船らしきものに乗っている祖母と母の写真を見ながら、先日、私は奥琵琶湖を巡ったが、70年以上前に、祖母と母の二人が琵琶湖を巡ったのだと思うと、連休最後の日に万感の想いを抱いた。

湖国バスで北陸本線「木ノ本駅」まで

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 「菅浦口」バス停から「木ノ本駅」行きの湖国バスに乗った。菅浦ですれ違った若い男女が乗っていた。乗客は私を入れて三人だった。JR湖西線永原駅に着いた。若い男女は下車した。運転手が私に聞いた。「どちらまで?」と。「終点の木ノ本駅までです!」と答えた。JR永原駅バス停を出て、一路、JR木ノ本駅を目指してバスは出発した。

 運転席左斜め後方の一番前の座席に座っていた。運転手に話しかけようと思った途端、フロントガラス上部の料金盤の横の文字が目に入った。「運転中は運転手に話しかけないで下さい。」やむなく抑圧した。

 路線バスは地域の足としてさまざまな停留所を通って行った。幹線道路だけで目的地に行くのであれば時間はそれほどかからないが、幹線道路から外れて山の中へ行ったり、また幹線道路に戻り、またまた山の中へと幾度も繰り返しながらバスは走った。永原駅から木ノ本駅までは35分程度かかった。

 いくつのバス停を通ったのだろうか?数えていない。どのバス停でも人は待っていなかった。バスはやむなく通過した。JR永原駅からJR木ノ本駅までの間でバス停に止まらずに、路線バスでありながら信号で止まる以外はノンストップの運行だった。

 JR木ノ本駅バス停で菅浦口からの料金800円を払い、運転手に「ありがとうございました」とお礼を言って下車した。「岬めぐり」ではなく、運転手と二人だけの貴重な「ノンストップ湖国バス停めぐり」を堪能させていただいた。

「菅浦口」バス停にて

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 5/3(日)15:10、「菅浦口」バス停で15:21発「木ノ本駅」行きのバスを待っていた。日常は毎日早朝、奈良・富雄の「春日橋」バス停でバスを待つ。その時間は好きでもないが、このような旅心のひと時のバス停は大好きである。湖を見ると遠くに岬が、山側を見ると里の風景の断片が見えた。

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 バス停から眼下を眺めると、湖に突き出した小さな桟橋の先端で、若い二人が釣り竿を垂れていた。時折、二人で立ち、湖の彼方の竹生島の方を見入っていた。未来を見ているのだろうか?

 家族連れがやってきた。女の子は、湖の風景を見たからのだろうか、飛んで跳ねてはしゃいでいた。家族の今というひと時の楽しさを、遠くから感じ取った。

レストラン「岬」の窓から

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  5/3(日)午後、国民宿舎「つづらお荘」でひと風呂浴びてのちに、「岬」という名に自然と足が向き隣接するレストラン「岬」で食事をした。どこにでもあるようなドライブインの食事場所風情である。何気なく観光バスや車で移動しているとそれほどの興味も抱くこともないし、立ち寄ろうとは思わないが、歩き回っていると休憩場所また避難場所として最適だ。

 このような場所では瀟洒な建物のレストランよりも、になにげなく建つ普通のドラブインが好きだ。レストラン「岬」の中は広く、車やバイクで旅行している人々が10名ぐらいはいただろうか。食事をしたいというよりは喉が渇いていた。風呂上りに居酒屋にいるような気分で、生ビールと川魚の天婦羅を注文した。のどごし爽やかにグググッとジョッキの半分ぐらいを一気に飲んだ。至福のひとときであった。

103  レストラン「岬」の窓から外を見ていると、バイクツーリングの二人の若者が駐車場にたどり着いたのが見えた。続いて、自転車でサイクリングの二人の若者が着き、バイクツーリングの若者たちへと近づいた。二つのグループは見知らぬ者たちのようだった。
 サイクリングの二人がバイクの二人に何かを聞いている。地図を広げて四人で何かを話し合っていた。数分ぐらいは経ったのだろう。サイクリングの若者たちは、ツーリングの若者たちへ、微笑みながら頭を下げて挨拶をした。ツーリングの若者たちは手を振り答えた。二つのグループは別れ去って行った。なにげない普通の光景ではあるが、日常的に見られぬ微笑ましい光景でもあった。

2009年5月 5日 (火)

奥琵琶湖、国民宿舎「つづらお荘」でひと風呂浴びて

100  5/3(日)、菅浦の里を散策して後、バス停菅浦口近くの「国民宿舎つづらお荘」へ展望風呂で汗を流そうと思い、立ち寄った。

 フロント係の男性に、「日帰り入浴したいのですが、おいくらですか?」と尋ねた。「500円です!」と聞いてスーパー銭湯よりは安いと思い、ポケットからワンコインを出した後に、リュックの中に入れたお風呂セットが忘れていないか今一度確認した。「風呂の場所はどちらですか?」「廊下の突き当りを左に曲がったところです。ごゆっくりお過ごし下さい」とフロントの男性は微笑んでいた。

 脱衣場へ入った。静けさが漂っていた。誰もいない。扉をそっと開けて、浴場の中をのぞいた。誰もいない。あれあれっ、貸切だ!と心の中でつぶやいた。

093  内風呂につかり、ゆったりとして、歩きつかれたか弱い足を湯船の中で揉み解した。首まで湯につかり周りを見回した。「お風呂の中で泳いではいけません!」という注意書きはなかった。誰もいない。小学校低学年の時に訪れた東尋坊ヘルスセンターの誰もいない大浴場で平泳ぎで泳いだことが蘇ってきた。トップシークレットなのだが、そのときのような気分で少しだけ、ちょっと少しだけ泳いだ。
 続いて展望風呂へ出た。内風呂の大きさには叶わないが、心地よい奥琵琶湖の空気が肌に柔らく感じた。気分は爽快だ。でも、足がけだるい。湯船に入りまた足の筋肉を揉み解した。

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 外風呂の手すりからは琵琶湖と菅浦の里が見えた。500円で貸切風呂のような贅沢な時間を過ごさしてもらっていいのだろうか?そのような思いが脳裏をよぎった。
 宿泊客はこのような時間に風呂には入らない。確かに宿泊客はロビーでも見かけた。しかし、この地で日帰り入浴などという、しゃれたことでもないことに興じる人は余りいないのだろう。もしかしたら、私は「変な人種」の部類に入るのだろうか?
 風呂上がりまで、誰も入ってはこなかった。完全な貸切風呂だった。「かくれ里」の「かくれ湯」に入ったような豊かな時間を過ごした。

「国民宿舎つづらお荘」公式サイト

奥琵琶湖、須賀神社と淳仁天皇

044  奥琵琶湖、菅浦の里に「須賀神社」がある。私が菅浦を訪れたのは、その地に「淳仁天皇(じゅんにんてんのう)を祭神としたこの神社があるというのが、理由のひとつでもあった。

 ただ誤解のないように記しておけば、神社・仏閣を確かに訪れるのは好きなのだが、実家は真言宗であるにも関わらず、私個人はどのような宗派にも属していない。ただ、「人々の歴史」とはなんぞや、という想いが博物館・郷土館・資料館・神社・仏閣へと足を運ばせるに過ぎない。

 今年2月、子どもたちのサッカーの関係で、淡路島の南端近くの「淡路青少年交流の家」を訪れた。西淡三原インターを降りて少し走った場所に、淳仁天皇の御陵があることを偶然に初めて知った。ほんとうに小さな天皇陵だった。

 3月下旬、蹴球祈願のため京都・白峯神宮を訪れた。「球技」「蹴鞠」「闘魂」の神であるというだけで参拝した。その宮を訪れて、私は初めてその祭神が崇徳天皇と淳仁天皇であることを知った。いずれも配流された天皇だった。淳仁天皇は764年、淡路国へ、崇徳天皇は1156年、讃岐国へ配流された。いずれも配流の地で崩御された。同神宮は、「歴史上御非運に会われた御二方の天皇の御神霊」をお祀りされていると記されている。

 淳仁天皇は淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれ、天皇の地位を廃帝され淡路に配流された。1100年余り後の1870年(明治3年)に、明治天皇から「淳仁天皇」として追号された。まさに歴史上悲運の天皇であった。4/22(水)日本経済新聞夕刊で、奥琵琶湖のかくれ里といわれる菅浦に祭神を淳仁天皇とした「須賀神社」があることを初めて知った。

 「奥琵琶湖・菅浦」と「淳仁天皇」の結びつきが解らなかった。菅浦郷土資料館でいただいた小冊子「奥琵琶湖 歴史の里 菅浦」の中の須賀神社由緒を読むと、帝みずからの御肖像と皇后の御肖像を彫刻されて、「『何所に寿を終わるも神霊必ずこの肖像に留め置く』と述べられたことから、本殿周囲を石で舟型に積み、一社を創立して祀ったといわれています。」と。それが、須賀神社の由緒で創建は764年とある。

 私には歴史的事実の詳細はわからない。ただ、、淳仁天皇にゆかりのある人々が1200年余り前に、「淡海(あわうみ)」の奥、菅浦の里に居住していたという事実だ。歴史は勝者の側からしか書かれない。敗者の歴史とは伝承の中でしかないのだろうか? 菅浦の里を歩き、1200年余りの前のこの地を思い描きながら、湖のほとりにある山々を背負った小さな菅浦という里に、歴史として連綿として繋がってきていることの美しさを感じた。



※写真15枚を掲載しました。

クラブ選手権大会(U-15)奈良大会決勝リーグ(試合結果5/5)

5/5(火・祝) 登美ケ丘北中学校グラウンド
【決勝リーグ第1節】

奈良YMCA  2-0 ソレステレージャ奈良2002  (0-0/2-0)
 
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前半、奈良YMCAが、局面で終始優位に立ちソレステ陣内に押し込んだ状況が続いた。ソレステは安定したボール保持ができなかった。決定的なチャンスもなく、0-0で前半を折り返した。

 後半3分、奈良YMCAがソレステ陣内ペナルティエリア外中央への縦パスを送った。FWがゴールキーパーと1対1となり、落ち着いてかわし、先制点を叩き出した。

 後半10分すぎから、ソレステはこのゲームではじめて、落ち着いたボール保持をできる展開になり奈良YMCA陣内へ押し込んだ。しかし、後半21分、奈良YMCAが追加点を加えた。結果は奈良YMCAが2-0で勝利した。奈良YMCAは確かにいいチームだった。

奥琵琶湖・かくれ里「菅浦」情景

110  湖西線・永原駅から大浦を経て約1時間半歩くと「菅浦」の集落が遠くの湖岸に小さく見え出した。小高い山々と湖にはさまれた細長い集落、かつて、陸路は少なく大浦から舟でしか行けず陸の孤島といわれていたこともあったようだ。

 約90年ほど前、須賀神社に保存されていた「開かずの箱」から、古文書が発見された。その中で江戸時代までのおきて、訴訟の1200点を超える記録「菅浦文書」が残っており、中世史研究の貴重な資料だという。「菅浦」という集落が、「中世の自治組織」「惣(そう)」の代表例として研究者から注目された。

 かつて、わが国の中世初期においては、耕地の間に家が散在しているのが一般的であった。鎌倉時代後期になると家が耕地から分かれて「集落」を形成するようになった。それが現在「村」とよばれているものの始まりだという。

 「惣(そう)」、「惣村(そうそん)」とは、その時代に、権力者から強制的に創出されたものではなく、人々が自然発生的に自立的・自治的な集落として創り出したもので、「村」というものの初期段階だった。近畿地方から生じ、南北朝時代に全国にこの集落形体が広がったという。記録「菅浦文書」として残され確認できる「惣」「惣村」の代表例が、この「菅浦」の里である。

032  「菅浦」集落の入口には、「四足門」という四本の柱のかやぶき屋根の今にも倒れそうな小さく狭い門があった。倒れないように周りは大きな石で囲まれ支えていた。集落に外敵が侵入した時のことを想定してこのような形態になっているようだ。そのような状況になった時は、支えている石を取り除き、門を倒し、かやぶき屋根に火をつけ、外敵侵入を集落に知らせ、外敵をひるませるためだという。山と湖の狭間でこの門の中、この集落の人々は、「惣」という自治組織に守られながらも、ひっそりと時を刻みながら営々と生活していたのだろう。



077  山の縁に湖岸に沿った横に細長い集落の中をゆっくりと歩いた。中世の古くからこの湖岸のほとりで、ひっそりとした静けさの中で、連綿と生活し続けてきた家々、集落が存在している事実は、「歴史」の積み重ねを感じざるをなかった。

 道の辺に石積みがある小道は、湖があたかも海のように見えてどこか南の島の小道を連想させた。黄土色の土壁が私の目には心地よく映った。私は、下町育ちで周りにはそのような風景はなかったが、どこかで見たような風景だった。どこだったのだろう?と思い出しながら、菅浦の集落のいたるところを歩き回った。

066  集落のはずれの湖岸から、歩いてきた道を望んだ。初めて、この地に住みだした人々の思いとはどのようなものだったのだろう。この集落にある「須賀神社」は、764年に創建されたといわれている。時は移り変わっても少なくとも、1245年間以上、この集落は存在し続けたことになる。

 中世の時代から「惣」という自主的・自治的な集落を形成し、湖岸に寄り添って生活してきた人々には、伝説が残り、さまざまな目に見えるもの、見えないものが伝承されているのだろう。

 今も多数で訪れる観光客は少ないが、一人や二人でその集落を歩む旅人には幾人か出合った。 奥琵琶湖の小さな集落に何かの興味がある人々なのだろう。確かに「歴史の里」「かくれ里」という名にふさわしい地だった。寄り添い生きることの大切さを生き証人として私に知らしめてくれた。



 ※ 「デジブック」は便利です。用意されたソフトに写真を挿入し、写真集スタイルをクリックし、BGMを選択すれば、私でも簡単にできる写真集を創り出してくれます。
 私が観た「菅浦」の情景です。ムービースタイルで写真38枚を掲載しました。所要時間は約5分です。ご多忙でなければご覧いただければ幸いです。

ロックシンガー忌野清志郎さんの逝去を悼んで

 日本を代表するロックシンガーである忌野清志郎さんが、5/2(土)喉頭がんのため逝去された。58歳だった。1970年、バンド・RCサクセションでデビューして以来40年近く、日本のロックシーンに影響を与え続けたロックシンガーだった。

 1970年代、私が若かった頃、その当時、ロックといえば外国のバンドが主流だった。ロックの歌詞は英語だった。歌詞の内容もわからずに、強烈なビートとリズムに酔った。「ロック=英語」という中で、日本語でもロックのリズムに乗せることができるんだとはじめて証明したのが忌野清志郎さんだった。

 頭髪、メイク、ファッション、パフォーマンス、いずれも過激そのもので歌い続けた。サブカルチャーの象徴的な存在だった。日本でも数少ない本物のロックシンガーが逝去された。70歳、80歳になってもロックシンガーであり続けて欲しかったと想う。

2009年5月 4日 (月)

指揮者・小澤征爾氏の言葉を読んで

 5/3(日)日本経済新聞朝刊で、わが国が誇る指揮者・小澤征爾氏の若手育成にかかる言葉を読んだ。「日中韓とも演奏技術は驚くほど向上している。ただ、良い音楽を楽しみながら作っていく姿勢、音楽家なら普通に持ち合わせているべき姿勢が欠けているようだ」「多少キズがあっても音楽を受け入れる文化土壌も必要だろう」と。

 音楽の世界の中の話なのだが、その領域をこえて、サッカーのみならずスポーツ全般にも相通ずる。育成とは大人たちの責任の範疇だ。若手育成の課題は、大人たちを含めた環境創出の問題としてある。人は遺伝ではなく環境によって左右される。その環境を創りだすのは大人たちでしかない。「普通に持ち合わせているべき姿勢が欠けている」のは、子どもたちなのだろうか?それともわれわれ大人たちなのだろうか?

クラブ選手権大会(U-15)奈良大会2次リーグ(試合結果5/4)

【2次リーグ最終節】
5/4(月・祝) 高田総合グラウンド

ソレステレージャ奈良2002  2-0  ポルベニルカシハラ (1-0/1-0)

 
2次リーグ最終節、ソレステレージャは2-0でポルベニルに勝利し、2勝1敗でグループ2位で明日からの決勝リーグへ進出する。

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前半、再三、右サイドから攻め上がり、右からのゴール前へのクロスに、中央でいた選手がスルー気味にプレーし、ファーサイド後方からフリーで走りこんだ選手がインサイドキックでゴール右に確実に決めたシーンは、応援者の胃の「ピロリ菌」を除去するような、また精神的な「ストレス症状」を打破するような久しぶりに観た綺麗なゴールシーンだった。

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 ただ、決定的なチャンスにゴールを決めれないシーンが幾度かあった。落ち着け落ち着け、確実に確実に、ミスは必ず生じる。でも、そのミスを少なく精度を上げることができるのは選手自身だ。

 きっと決勝リーグでは、今まで積み重ねてきたことをピッチ上で遺憾なく表現してくれるものと信じている。個人的には勝敗云々よりは、心も体も必死になってボールを奪い、相手のプレッシャーに負けず、ゴールに襲い掛かるようなプレーを見てみたいものだ。

 ソレステレージャ奈良2002 U-15全員のクラブ選手権奈良大会決勝リーグでの魂闘を心から願っている。


【決勝リーグ第1節】
5/5(火・祝) 御所市民運動公園グラウンド

①10:00 ソレステレージャ奈良2002 対 奈良YMCA 

【決勝リーグ第2節】
5/6(水・祝) 天理大学人工芝グラウンド
②13:00 ソレステレージャ奈良2002 対 アスペガス生駒FC

【決勝リーグ第3節】
5/9(土) 橿原運動公園多目的グラウンド
②11:20 ソレステレージャ奈良2002 対 天理FC

湖西線・永原駅から菅浦への道

003  5/3(日)9:34、「湖西レジャー号」で湖西線・永原駅に着いた。ソレステの濃紺のハーフパンツ、胸にマリノスのエンブレムがついた青地に赤・白の息子のお下がりの上着、背中には愛用のブルーの小さなリュックという姿で、幾人かの人と一緒に駅員のいない改札口を出た。

 9:40、ロッジ風の永原駅を後にして菅浦へと向かった。行程は約8km、概ね2時間程度で菅浦に到着するのは11:30頃と見込んだ。実に気分爽快で快調な足取りのスタートだった。30分ほど歩くと、湖岸の町・大浦に着いた。湖が見え出した。知識として琵琶湖が湖であると知ってはいるが、まるで海のようだ。「淡海(あわうみ)」か。「近江(おうみ)」は、いにしえには「ちかつあわうみ」と呼ばれていたことを思い出しながら、ゆっくりとあせらず菅浦へと歩き続けた。

007_2  湖沿いに曲がりくねった道が続いた。おそらく舟でいけばそれほど時間がかからないのだろうが、大浦からは舟など出ていない。写真に見える対岸の岬の突端は桜並木で有名な「海津大崎」だ。

 行く手は湖沿いにはっきりと見えるし、たどった道もまた見える。ビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディングロード」という曲名を思い出した。まさに長く曲がりくねった湖沿いの道だ。ただただ歩き続けることしかない。あたかも人生そのもののようだ。




010  目的地の菅浦は、左の岬の向こう側だ。気の遠くなるようjな思いが生じた。湖沿いの舗装された道を歩いていると、車、バイク、自転車が私を容赦なく追い越して行った。道の前後を見ても菅浦をめざして歩いている人は見かけない。

 追い越してゆく文明の利器の後ろ姿を見ながらマイベースで歩き続けた。追い越されても追い越されても意に関せず、歩調はなめらかに快調そのものだ。「淡海(あわうみ)」の奥琵琶湖の風景が心も体も癒してくれた。

 二つの岬の間の湖面の向こう側は広大な琵琶湖という湖が広がっているのだが、おだやかな海の風景だとしか見えない。人々はかつては「淡海(あわうみ)」と名づけたのだが、いつからその海が湖であるということを知ったのだろうか?とふと思いつつ、岬の突端を目指して歩き続けた。

029 竹生島が沖合いに横たわっていた。湖沿いの遊歩道の向こうに菅浦の集落が見え出した。快調な歩みが少し衰えた。足のかかとが少し痛み出した。擦り切れているかマメのようなものができたのかもしない。11:30に菅浦集落にたどり着いた。岬めぐりのような気分で、およそ1時間50分、休憩もせずに歩き続けた。

 「淡海(あわうみ)」の風景を見ながら歩いていると。さまざまなことが脳裏をよぎった。この地の歴史、私自身のささやかな歴史を振り返り思い描いた。「歴史とは現在と過去の対話」なのだろう。

 幾多の者に追い越され続けたとしても、急がず立ち止まり、振り返り、感じ思い考える。そして行動する。自分自身の未来へと続く道は、「歴史」を検証することでしか広がらない。 奥琵琶湖「淡海(あわうみ)」の風景は私の心に素敵に染み込んだ。

2009年5月 3日 (日)

奥琵琶湖・菅浦を訪ねた!

052  5/3(日)、日帰りで奥琵琶湖・「菅浦」を訪ねた。湖北にある「かくれ里」で、歴史的の里でもある。なぜ、ゴールデンウイークに観光地でもないその地を訪れたのか? 4/22(水)日本経済新聞夕刊の「トラベルナビ」で「菅浦」を紹介されていた記事を読んだ。その地が以前にも他紙で紹介されていた時に訪れたいと思いつつ実現できなかった。二度目までも訪ねたいという思いが行動をおこさせた。

 キーワードは、「惣村(そうそん)」、「四足門」、「淳仁天皇」、「かくれ里」の四つだった。
 「惣村(そうそん)」とは、村落共同体が発生する前の中世の自治組織で、その代表例として「菅浦」が注目されてきた。
 「四足門」とは、地区の入口に立つ四本の柱とかやぶき屋根だけの門である。
 「淳仁天皇」とは、配流された帝で、淡路に御陵があることを偶然に昨年知った。蹴鞠の神、京都・白峯神宮の祭神でもある。「菅浦」は同天皇のゆかりの地でもあるという。同地の「須賀神社」の祭神は淳仁天皇である。
 「かくれ里」とは、秘境というものでもなく、かつての街道筋から離れたひっそりとした地である。

 今日の行程は以下の通りで、6:50に自宅を出発して20:30に自宅に戻ってきた。
自宅6:50→徒歩→春日橋7:00→バス→富雄駅7:11→近鉄電車→8:03京都駅8:15→JR新快速→9:34湖西線・永原駅9:45→徒歩→11:30菅浦→散策→13:30国民宿舎つづらお荘→入浴・休憩→レストラン岬→昼食→菅浦口15:21→バス→15:37永原駅→バス→16:10北陸本線・木ノ本駅16:40→18:12京都駅(夕食)→20:10富雄駅→徒歩→20:30自宅

 実に有意義な日帰り旅だった。歴史を感じさせる趣のある静かな里であったというのが素直な印象だ。また訪れてみたいという思いに駆られる。後日には写真を掲載し、一文を書き記すつもりでいる。

古ぼけた列車の中での対話

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(大阪弁天町「交通科学博物館」内で撮影 2009.03)

 「博物館」に展示されているということは、「歴史」になったのだ。歴史学者であるE・H・カーは、「歴史とは現在と過去との対話である。」と言う。古ぼけた列車の中にいると、今の私とかつての私が、私の現在と過去が対話をしている気分になった。

2009年5月 2日 (土)

クラブ選手権大会(U-15)奈良大会2次リーグ(試合結果5/2)

)5/2(土) 旧片桐高校グラウンド
【2次リーグ第2節】

ソレステレージャ奈良2002  2-0  王寺SC (1-0/1-0)

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 ソレステレージャ奈良2002
(U-15)は、クラブ選手権大会2次リーグで、前半に1点を先取し、後半に追加点を加えて、2-0 と勝利した。この一戦に敗れれば決勝リーグ進出は露と消える。立ち上がりから相手陣内に攻め入った。

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 後半、待望の追加点を奪った。ただ、その後、絶好の得点チャンスを幾度も逃した。最終局面で落ち着いたプレーができておれば、もっと楽な試合展開になっただろうか? ペナルティーエリア近くで良い形でボールを受けている場面もあったが、もっと積極的、果敢にゴールを目指し、エリア内へチャレンジできるのでは? 課題は多いと感じた。いずれにしても、まずは勝利を喜ぼう!そして次のステップへ!

5/4(月・祝) 高田総合グラウンド
【2次リーグ最終節】

11:30 ソレステレージャ奈良2002 対 ポルベニルカシハラ

名勝庭園「依水園」を歩いて

1_074  奈良東大寺西側にある名勝庭園「依水園」は、明治時代を代表する庭で、奈良市内唯一の池泉回遊式庭園だ。昭和50年(1975)に名勝指定を受けた。東大寺、若草山を借景に取り入れた四季折々の風情が楽しめる。

 奈良市内には寺院は多いが、日本庭園は数少ない。その日も外国の方々がゆっくりと園内を歩いていた。観光客は概ね、東大寺、春日大社などを訪れがちだが、この「依水園」は、観光客の喧騒から程多く静けさが漂っている。隣接して「寧楽美術館」がある。「日本庭園」と「美術館」。ゆっくりとした時間が流れた。

 かつて若かりし頃に、何かにとりつかれたように、京都の庭を集中的に巡った時があった。夏の暑い日に何日もかけて、竜安寺、大徳寺、妙心寺、天竜寺、東福寺、詩仙堂等々を日帰りで巡った。「依水園」ののどかな借景を見ながら、年齢を重ねるごとにその時代の気分に回帰していく。

 

「赤十字運動月間」~今こそ、力を合わせよう。~

 5/1(金)日本経済新聞朝刊全面広告で、「赤十字運動月間」のことが掲載されていた。「人間を救うのは人間だ」。2009年は、アンリー・デュナンが「苦しむ人を敵味方の区別なく救護する。」という赤十字思想を提唱してから150年を迎える。

 赤十字は「人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性」という7つの普遍的な原則(赤十字の基本原則)のもとに活動する人道機関だ。白地に赤十字の旗は誰もが知っているだろう。アンリー・デュナンに敬意を表して、彼の母国スイスの国旗の色彩を反対して使われている。


 赤十字思想誕生150周年キャンペーンの皮切りとして、東京の原宿表参道において、51日から14日の間、赤十字の旗で埋めつくされ様々なイベントが実施されるようだ。その期間に原宿表参道を訪れてみたい気持ちになる。

「日本赤十字社」公式サイト

「地域クラブ私論」(9)

 クラブコアエリア内の人口、その増減についてみてきた。「地域クラブ」として多年齢の人々が集えるというのが大切なことである。各年齢層とも地域にとっては重要な存在であることは疑いの余地がない。ただ、「地域クラブ」の独自性として、根幹に青少年のための地域クラブとしての存在意義を有するべきであると考えている。

 コアエイジとして、
5歳~15歳をターゲットとする。「国勢調査」データでは、その年齢層すべての数値を把握できない。下記のように、59歳、10歳~14歳のカテゴリーの数値を参照して、クラブコアエリア内各地区の2000年度、2005年度の数値とその増減を見てみた。

 514歳全体で、134人増加している。5-9歳では176人増加している。1014歳では▲42人減少している。地区別に見ると。二名地区102人、登美ケ丘地区36人、青和地区24人増加している。東登美ケ丘地区は▲28人減少している。

 59歳でみると、登美ケ丘地区110人、東登美ケ丘地区46人、青和地区30人増加し、二名地区は▲10人減少している。10歳~14歳でみると、二名地区のみが112人増加し、青和地区▲6人、登美ケ丘地区・東登美ケ丘地区とも▲74人ずつ減少している。

 クラブコアエリア内での59歳、学校年齢でいうと幼稚園・保育園・小学校低学年のカテゴリーの子どもたちの数が増加している。「地域クラブ」としては、小学校高学年・中学校年代を主にプログラム創出してはいるが、今後、「スポーツ」・「カルチャー」を通じて、幼稚園・保育園・小学校低学年のカテゴリーの子どもたちに対するプログラム創出の重要性が増していると考える。

年齢 年度 青和 二名 登美ケ丘 東登美ケ丘 合計
5~9歳 2000年 612 356 592 212 1,772
2005年 642 346 702 258 1,948
増減 30 -10 110 46 176
10~14歳 2000年 610 295 653 357 1,915
2005年 604 407 579 283 1,873
増減 -6 112 -74 -74 -42
合計 2000年 1,222 651 1,245 569 3,687
2005年 1,246 753 1,281 541 3,821
増減 24 102 36 -28 134

【奈良市役所Webサイト「国政調査」データより抽出作成】

「富士には月見草~太宰治100の名言・名場面~」

Img 著者:太宰治・長部日出雄/発行:新潮文庫(200.05)/定価:400円+税/P.209

 4/30(木)職場帰りに本屋へ立ち寄った。今年は太宰治生誕100年、文庫の帯には、「新・太宰治」「教科書と文学史の中だけに、太宰を埋もれさせるな」「100年たって、なお現在進行形」という言葉が記されていた。迷わず買った。

 レジの前へ行き店員に本を差し出した。年配の方が、この本の表紙を見ながら、 「太宰にこのような本がありましたかなあ?」と私につぶやいた。敏感に反応して私は答えた。「太宰の名言・名場面集だと書いてありますね。つい最近出た本のようですね。」その方は理解したようだ。確かに太宰の作品に「富士には月見草」はない。

 続けてその店の方は、「太宰が自殺したのは私が子供のころだったです。覚えています。玉川上水で。幸せですよ。」と私につぶやいた。太宰が自殺した時に子供だったということは、その方の年齢はいくつなのだろう?と想像した。太宰が自殺したのは戦後まもなくだったように思う。おそらくその方の年齢は60歳後半ぐらいなのだろうか? その方にとって太宰治という作家は印象深かったのだろう。

 新潮文庫の中で、一番売れている作家は夏目漱石、二番目に太宰治だと何かの雑誌で読んだ。斜めに傾き、倒れそうで、危なっかしい、弱い人間を正直に描いた太宰治は特に女性に人気があるという。熱烈な太宰ファンが存在し続けている。

 私は太宰治の代表作の大部分を学生時代に読んだ。惹かれる気持ちと同時に嫌悪感を抱くという私にとっては愛憎両面の作家だった。ダイジェスト版、文庫本「富士には月見草」で太宰治の文章を読んだ。30年ぶりだった。正直に言えば素直に惹かれた。

 この世にはさまざな生き方があってよいという価値の多様化、強い者、強くなろうとする者だけが生きているのではなく、弱い者、弱くしかなれない者も生きているのだ。漠然とした不安がはびこる現代に、太宰治の文章は救世主のように浮かび上がって来る。

 今、忘れ去られていた小林多喜二「蟹工船」が読まれているという。太宰治の作品もまた若者たちに読んで欲しいと思う。正直な弱さの吐露にきっと勇気づけられるだろう。太宰生誕100年を機に、私もまた今一度、読み直してみようと思っている。

ブログアクセス解析2009.5.2

 5/2(土)現在の総アクセス数は、145,965となっている。アクセスカウンターは左サイドバー最下部に掲載している。過去1ケ月の「ブログ解析」を確認した。過去1ケ月のアクセス数は、7,518で一日平均アクセス数は、251だった。

 ブログへのアクセス経路を見ると、
①サイト内(検索エンジンを使い、その検索した言葉でヒットした方)
②ブックマーク(ブログアドレスをお気に入りに登録してご覧いただいている方)
③ソレステ(ソレステレージャ奈良2002Webサイトからクリックしてご覧いただいている方)
④その他(Webサイト上のブログ、HPにこのブログの記事が掲載され、そのサイトを通じてご覧いただいている方)
に四分類される。

 そのアクセス数を見ると、調査対象数 7,518
サイト内 2,095  ブックマーク 1,235  ソレステ 515  その他 256 となる。

 サイト内からヒットした集計対象アクセス数 3,202の中から、ヒットした「言葉」をランク付けすると概ね次のようになる

①奈良  156 ②サッカー 142 ③奈良県 66 ④ソレステレージャ 56 ⑤杉本博司 51  ⑤盆藤展 51 ⑦駅路 45 ⑧2009 43 ⑨ 42 ⑩阿修羅展 37

 
アクセス地域別に見ると、調査対象数 2,078
①大阪 632 ②東京 287 ③奈良 286 ④長野 141 ⑤京都 85 ⑥神奈川 72 ⑦愛知 70 ⑧埼玉 49 ⑨千葉 48 ⑩兵庫39 

 
ご覧いただいている多くの方々に心から御礼申し上げます。

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