« 大阪城 「多聞櫓」 2008.11.2 | トップページ | もう一つの「花園」~第1回U-18合同チームラグビー東西対抗戦~ »

2009年1月10日 (土)

1970年(昭和45年)を思い浮かべて

Img  昨年末に「週刊昭和」の「昭和45年」号が発売されたので買って読んだ。その当時の写真が満載されているので興味深い。

 昭和45年は西暦では1970年、もうすでに40年近くも時が経過している。歴史の中に刻まれつつある。その年の出来事で印象深いのは、確かにこの雑誌の表紙で表現されているように、「日本万国博覧会(EXPO’70・大阪万博)と「三島由紀夫 自決!」だ。

 この雑誌に掲載されている年表を見ると、1月アメリカンニューシネマ「イージーライダー」公開、3月女性雑誌「anan」創刊、日本万国博覧会開幕、缶コーピーの初めての発売、7月日本初の光化学スモッグ発生、閣議で日本の呼称を「ニッポン」に統一、8月歩行者天国の初実施、内ゲバ激化、10月国鉄(現JR)初の全国観光キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」開始、11月日本初のウーマンリブ大会開催、三島由紀夫割腹自殺。というような出来事が1970年に生じた。

 この雑誌の4ページに掲載されていた「特集 開幕!大阪万博」の見開き全面の巻頭写真を観た。入場者の家族のスナップ写真を写している光景だった。その写真の背景は、右上部にはパビリオンのアルミの屋根の先が写り、ボールに掲げられた参加国の万国旗が翻り、中央には電光掲示板に記された「人類の進歩と調和 PROGRESS AND HARMONY FOR MANKIND」が写し出されていた。

 30歳代前半の夫婦、子ども3人、祖母の6人家族の光景だ。右側に4歳ぐらいの長女と手をつなぎ、カメラのレンズを凝視している若き父親がいる。中央には、2歳ぐらいの次女をおんぶしたひざ上までのワンピースを着た妻が夫と長女に向けて微笑みながらカメラのシャッターを押そうとしている。左側には、1歳にもみたない長男をおんぶしている祖母が、微笑みながら左手を振り、長女に「笑って」と語りかけているかのよう暖かい眼で見つめている。

 その写真は、大阪・万博とその時代のニッポンを切り取った象徴的な写真に思える。近代日本の到達点として、会場に行けば世界一周ができるという「庶民の夢の実現」を成就しようと全国から多くの人々がその会場に押し寄せた。2009年の今から振り返ると、ニッポンの老若男女が酔いしれ疲れた、史上最大の「まつり」だったのかもしれない。

 その年の11月、ニッポンの繁栄の頂点であった時に、作家・三島由紀夫は市ヶ谷駐屯地総監室で割腹自殺した。その行動の解釈については、あれから40年近く経つが、さまざまな見解が今もあり続けている。事件は衝撃的だった。その時私はどこにいたのかをはっきりと覚えている。

 高校2年生、17歳だった。学校前の喫茶店「あづさ」にいた。友人がその店に入ってきて、「三島由紀夫が割腹自殺した!」とその時に聞いた。高校2年生の夏から本格的に本を読み出したので、その時は、三島由紀夫の小説を読んだことはなかったが、その名と著名な作家で政治的に行動的な人物であることを知ってはいた。

 後年、私が社会人になってから、三島由紀夫が自決する4ケ月まえの 一文を読んだ。
「わたしはこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。・・・・日本はなくなって、その代わりに無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。」 
 2009年の今から振り返ると、三島由紀夫の自決は、ニッポンが衝撃を受けた戦後史上最大の「激」だったのかもしれない。

 雑誌巻末に、三島由紀夫自決の日の朝日新聞1970.11.25号外が付録としてついていた。その事件の記事の横に、当時の佐藤栄作首相の所信表明演説の「福祉と成長の調和強調」という見出しの記事があった。その言葉は40年近く経過した今、むなしく響く。

« 大阪城 「多聞櫓」 2008.11.2 | トップページ | もう一つの「花園」~第1回U-18合同チームラグビー東西対抗戦~ »

モノローグ」カテゴリの記事