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2008年12月14日 (日)

「カルメン」と「アルルの女」のレコード

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 「レコード」という代物がある。音楽媒体としてかつては花形ではあったが、時代の趨勢とともにその存在を他の媒体に譲ってしまった。かつて、小遣い、アルバイト代を手に持ち「レコード店」でその大きなジャケットを見て気に入ったものを購入し家に帰り、路地裏の部屋にある「卓上ステレオ」でその音楽を聴いた時の新鮮な刺激を今も覚えている。

 「レコード」は大きく重い。「CD」が出だしてからは、その大きな代物が私の部屋の重みになってしまった。本とレコードの重みに私の部屋が耐え切れるのだろうかという危機感が襲った。15年前に、私は「レコード」の大部分を身を切られえるような気持ちで処分した。もし、私の家が邸宅であり、補強された書庫や収納庫があれば、「レコード」はその運命を免れたのかもしれない。確固とした経済を生み出しえなかった私の人生の憂いである。ただすべてを捨て切れなかった。今も50枚ほどの「レコード」が、ささやかにも本棚の最上部に鎮座している。

 上の写真は、ビゼー「カルメン」「アルルの女」のカップリングのレコードだ。アンセルメ指揮スイスロマンドオーケストラが演奏している。キングレコード1966年とある。私はこのレコードを購入した時を覚えている。1969年、私が高校1年生の時だった。大阪市東成区新橋通り商店街にあるレコード店で購入した。高校入学祝いで祖母から「卓上ステレオ」を買ってもらった。レコードなど買ったこともなく、最初は祖母が持っていた民謡、浪曲、軍歌などの「ソノシート」をかけて聞いていた。その音楽の影響は今も残存しているのだが。ある日、祖母が「大きなレコードを買っといで」と私に2000円を与えた。

 私は新橋通のレコード店へ行き、多くのレコードが並んでいるのを見ながら、何を買ったらいいのか自分でもわからなかった。初めての体験だった。その中で、中学校の音楽の授業で鑑賞した「カルメン」があった。その曲が好きだった。これにしようと発作的に、このレコードを買った。生まれて初めて買った大きなレコード(LP盤)がアンセルメ指揮のビゼー「カルメン」「アルルの女」だった。あれから40年、捨てきれずに、このレコードは私の部屋に存在し続けている。

2008年12月13日 (土)

「もう一回だけ・・・!」という言葉を聞いて

 先週金曜日、母に逢うために病院へ行った。少し元気そうだった。ちょうど夕食の時間だった。以前に比べて食欲があるようだった。「ちょっとでも食べなあかんから。この病院の豆腐は美味しい」と痩せて小さくなった体から、か細い声で言った。「もう一回だけ、あそこへ帰りたいなあ!」とつぶやいた。「帰ってくるの、待ってるでぇ」という隣のおばちゃんの言葉が聞こえたのだろうか? 帰りたいと願う場所は、母が生まれ80年過ごした鶴橋・大成通りの路地だ。

 母は昔から体が弱かった。幾度、病院に入院したことだろう。数え切れない。その都度、退院してあの生まれ育った路地へ帰った。人から見れば快適さから程遠く、美しくもなく薄汚れた路地であったとしても、そこで生まれ育ち、80年間住み続けている者にとっては、希望と生きる力を呼び起こす大切な場所、パトリ(郷土)なのだ。「また、帰れるさ!」。

観音さまのような声色だった!

S3606  私の母は大阪・森之宮駅近くの病院に入院している。母の見舞いのため出かけ病室へ入った。カーテン越しに声が聞こえた。あれと思いながらカーテンの端からベッドを覗き込んだ。そこに3人の老齢の女性がいた。わが大成通りの路地裏のおばちゃん連中だった。正確に言えば、昔おばちゃんだった今は70歳後半のおばあちゃんたちだった。母の見舞いに来ていただいていた。

 おばちゃん連中が見舞いに行きたいと言っていたけれど、引き止めていたということを、前日に私は妹から伝え聞いていた。その引き止めていたおばちゃんたちが母のベッドのそばにいる。その行動の早さにに驚いた。だが母は意識朦朧の中でベッドに横たわっていた。

 昭和のはじめから70年あまり、私の実家の隣に住むおばちゃんは、私の母とは隣同士、大成通り(現玉津)の路地裏で暮らしている。母・隣のおばちゃんの互いが、家族、路地裏の喜怒哀楽を見続けてきた。上の写真は路地裏のおばちゃんたちと和歌山・和歌の浦でのものだ。昭和33年6月とアルバムに日付が記してあった。この写真に写っている人々の中で、今、存命なのは私と隣のおばちゃんだけになった。中央が満6歳の私、その後ろに祖母、私の左横が隣のおばちゃんだ。今、私は55歳になり、おばちゃんはすでに80歳近い年齢だ。

 ベッドに横たわる母に寄り、その傍らから、おばちゃんは母に声を掛けた。「帰ってくるの、待ってるでぇ!」と病室の静けさの中、柔らかでまろよかな癒されるような声色だった。まるで観音さまのようなだった。母に聞こえたかどうかはわからない。しかし、私は確かに心地よい音楽のように聴いた。70年余り偶然にも赤の他人が隣同士に住み、姉妹のように時を過ごしてきたその確かな絆の証を心に刻みながら聴いた。感謝!!

「今里やきそば」を食べてあの頃を・・・・・!

 12/1(月)朝日新聞夕刊の記事で、「ご当地焼きそば」、アスパラ会員が選んだ日本一という小さな記事を読んだ。1位富士宮焼きそば(静岡)、2位オホーツク北見焼きそば(北海道)と並んでいた。続いての3位「今里焼きそば」という文字を見た時、脳裏の中を興味がかけめぐった。

 「今里」、「焼きそば」という二つの単語は、大阪市東成区今里ロータリー近く、新橋通商店街入り口西側にあった天津甘栗屋とパチンコ店にはさまれた、二軒の同じような小さなやきそば屋が隣接して並んでいたことを私に思い出させた。小中学生だった頃によく食べに入った。下町っ子として、「そのやきそば」の匂いと味は今も忘れられない。

 新聞紙上で見た「今里焼きそば」が、私が思い描くあの「今里の焼きそば」なのかどうか、全く無関係なのだろうか、興味と疑問を抱きながらインターネットで「今里焼きそば」検索した。ヒットした。「焼きそば専門店 大阪今里やきそば」、そのWebサイトを開き確認した。「今里焼きそば」の写真が掲載されていた。あの頃の「今里の焼きそば」だった。店主が記した「こだわりの理由」を読んだ。確かに、私が思い描く「今里のやきそば」だった。

 その味が本当にあの「今里のやきそば」なのだろうかという疑問を解明するために。その店の場所を確認した。近鉄大阪線・長瀬駅(近畿大学前)徒歩5分、大学通り商店街にある。私の勤務先である近鉄八尾駅からは帰路に途中下車できた。12/2(火)職場からの帰路に長瀬駅で途中下車した。

 「今里やきそば」と生ビールを注文した。生ビールを飲みながらどきどきしながら、出来上がるのを今か今かと待ちわびた。ついに出来上がった。私の前にその焼きそばがあった。あの頃のように「コショウ」をかけて食べた。「今里焼きそば」は、間違いなく私の思い描く懐かしい「今里のやきそば」だった。

 生ビールを飲み「今里やきそば」を食べながら、かつての大阪市電の今里車庫、そこから出て行く花電車、今里ロータリー、新橋通商店街のにぎわいの光景を、父親に連れられてよく食べに入ったこと、友だちと二軒並んだ店の前でどちらに入ろうかと迷ったことを想い出していた。

 味覚はただの一瞬の快楽を生み出すものだけではなく、その味覚を経験した時の臭覚、視覚、聴覚、触覚を目覚めさせる。その時の記憶を鮮やかに浮かび出させる。「今里のやきそば」を食べることは出来ないだろうと思ってはいたが、その夜、「今里やきそば」を食べて、懐かしき匂いと味を、そして、あの頃を思い出した。

「大阪今里やきそば」の店主へ敬意を表するとともに心から感謝申し上げます。

「焼きそば専門店 大阪今里やきそば」Webサイト

2008年12月 3日 (水)

昭和35年8月(1960年)和歌山日御碕にて

3508 昭和35年8月と写真の裏面に書かれていた。おばちゃんの今で言う最高のパフォーマンスを御坊の海で見た帰りに、和歌山・日御碕に立ち寄った時の写真だ。昨晩、やっとのことで捜し出した。その当時、鶴橋の路地から、御坊の海へ連れ出された面々である。向かって一番左が私である。小学校1年生だった。あの夏の日、エネルギッシュだったそのおばちゃんの姿が眼に浮かぶ。記憶とは、写真とは何なのだろう?

2008年12月 1日 (月)

御坊の海とおばちゃん

 紀伊田辺駅から大阪・天王寺への帰路、「御坊駅」に差し掛かった。突然に思い出した。往路はその区間は心地よい気分で眠っていたのでそのような想いを抱くことはなかった。「御坊駅」という駅名を見た時、僕はあの夏の日の御坊の海とおばちゃんを思い出した。

 小学校低学年の時だった。春の季節だったのだろう。僕が生まれ育った東成区大成通りのわが路地で、おばちゃんはもろ肌脱いで赤ん坊にお乳を吸わせていた。僕はボール遊びをしていた。おばちゃんの近くへ寄った。大きなおっぱいだった。赤ん坊がおいしそうにお乳を吸っている姿を興味深く見ていた。その時、おばちゃんは僕に言った。「しげる、赤ちゃんと同じように吸って見るか?」僕は、恥ずかしさに後ずさりした。

 「おばちゃんは海女やったんやで、海にもぐって貝を採っていたんや!」僕はその時、正直に心の中で思っていた。おばちゃんの太いからだから見て海に潜っていたなんて信じられないと。おばちゃんは僕の表情を見て察したのだろうか。「しげる、嘘やと思てるやろ!」と僕に言った。

 その年の夏、おばちゃん家族は路地裏のお兄ちゃんと僕を引き連れて、おばちゃんの実家のある和歌山・御坊へとなぜか出かけることになった。おばちゃんの実家に泊まった。翌朝に近くの海岸へ出かけた。そこは岩場があり、その向こうに青い海が広がっていた。おばちゃんは海女の姿だった。太い体に白い衣装に身を包み、黒い枠の水中めがねと小さな樽のようなものを小脇に抱えていた。

 おばちゃんは僕たちが見ている中で、岩場の向こうの海に入って行った。海に浮かぶおばちゃんを遠くから見ていた。白い服装が眼に焼きついている。しばらくして、「見ときや!」というおばちゃんの声が海の向こうから聞こえてきた。白いおしりが海面に浮かんだと思うとおばちゃんの姿が海面から消えた。

 ずっとずっと見ていた。もう海面にその姿が見えてくるだろう。でも、なかなか浮き上がってこなかった。だんだんと心配になってきた。おばちゃんは浮き上がってこないかもしれないと一瞬思った。その時、突然に海面におばちゃんが顔を出した。口笛のような音が聞こえたような気がする。その途端、水中めがねをはずし僕たちの方を向いて、右手を振り上げ大きく手を振った。赤銅色の顔と白い歯が見えた。その時、確かに僕はおばちゃんをすごいと思った。本物の海女だった。

 あれから、48年以上たった今、「御坊駅」という駅名を見て、そのときの光景を思い出した。おばちゃんは嘘偽りもなくなく本物の「海女」だった。あの時、自分自身の誇りをかけて、おばちゃんは海に入り潜った。快心の潜りだった。おばちゃんは生き様をしっかりと僕の眼に焼き付けた。人は精一杯、誰かに己の想いを表現し繋げていくのだろう。

 路地裏のおばあちゃんの一人から、本物の「海女」だったおばちゃん、今はおばあちゃんだが、今年の春に亡くなったと今日知った。御坊の海を見ておばちゃんを思い出したが、もう亡くなっていたのだ。しかし、あの夏の日のおばちゃんは本物の海女だった。誇りをもって生き様を見せて挑んだ潜りの光景を、僕は一生忘れることはない。

 路地裏の片隅でもろ肌ぬいでわが子に乳を与え、本物の海女として御坊の海で快心の潜りを見せたおばちゃんの冥福を祈りつつ、おばちゃんへの心からの讃歌とする。

2008年11月14日 (金)

鶴橋 「高坂書店」で文庫本を買った!

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 近鉄鶴橋駅西口前の「高坂書店」で文庫本2冊を買った。小説ではなくノンフィクションものだった。駅前という好立地にあり、文庫本・新書本の新刊の品揃えが豊富で、私にとって重宝している本屋だ。仕事帰りに立ち寄るには好都合な場所にある。

 私が幼かった頃は、鶴橋駅高架下から千日前通りに沿って西側に100メートルほど歩いたところにあった。その場所から鶴橋駅西口前へ移転した。その店の前を通る時、自然と吸い込まれるように書棚の前にたたずんでしまう。少なくとも私にとっては、場末の町にある大切な本屋である。

2008年11月13日 (木)

とりとめもなく歩きながら~大成通り~

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 なにげもない場末の町の小さな店だ。人から見ればなんら印象深くもない風景なのかもしれない。しかし、私には違う。この大成通りに住む人々には、私が子どもだった頃にお世話になった。

 あれから45年以上も経つ。家から徒歩1分のこの店で文房具、祖父や父のたばこをよく買いに行った。この牛乳店のおじさんが、小学校のソフトボールの練習の時に、グラウンドへ大きな運搬用の自転車に乗り、私たちのためにフルーツ牛乳を運んでくれた。夏にそれを飲んだ時、元気が出たり、少し上手になったような、強くなったような気持ちになった。その時のことは今も忘れていない。

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 朝早い時間だった。店は開いてはいなかった。静けさが漂っていた。私の懐かしき人々が住む家だ。彼らは元気にしているのだろうか?.その日の早朝にこの地を歩きながら、「パトリ」(郷土)である、大成通と大成小学校第三分団のことを思い描いた。

思郷のこころ湧く日なり

 「オモニも済州島で生まれ育ったんやろ。なあ、元気な内に一度帰ろう!」と鶴橋の居酒屋「うをさ」で隣の席から話し声が聞こえてきた。意識的に耳を傾けなくとも、酒の酔いのせいだろうか、その男性の大きな声が自然と耳に入った。私と同年代ぐらいの男性二人とそのご両親なのだろうか、老齢のご夫婦が同席していた。

 「今、帰えらなければ帰られへん。なあ兄ちゃん、お父ちゃんもそう思うやろ。みんなで済州島へ帰えろうや。おじいちゃんの墓参りもせなあかん!」と大きな声が店の中にとどろき渡った。わがふるさと場末の町で酒を飲みながら、その家族と彼らの郷里・済州島に想いを馳せ、いつになく、わが思郷の湧く日となった。

病のごと
思郷のこころ湧く日なり
目にあをぞらの煙かなしも 
(石川啄木)

2008年11月 7日 (金)

あの日、僕たちは小旗を打ち振った!

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 もう45年以上前、1962年(昭和38年)の頃だ。近所の鉄工所のおじさんに路地裏小僧の数人が声をかけられて、鶴橋駅まで出かけた。おじさんは鉄工所の名が記された大きな旗を、僕たちは小旗を持ちながらあひるの行列のように駅へと向かった。春四月、集団就職で九州・宮崎からやってくる中学校を卒業したばかりのお兄ちゃんたちを出迎えに。

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 しばらくして、男の人に引き連れられて、二人のお兄ちゃんがこの階段を降りてきた。黒い学生服に学生帽をかぶり、手には重そうな大きなバッグを持っていた。その姿を見るなり、おじさんは大きな声で叫んだ。何を叫んだのかは今となっては思い出せない。僕たちは威勢よく歓迎の小旗を打ち振った。でも、お兄ちゃんたちは少し不安そうだった。

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 僕たちの一団は駅の構内からすぐ前の電車道(千日前通)沿いに東へ、おじさんを先頭に、続いて二人のお兄ちゃん、その後が僕たち路地裏小僧の順に列を組みながらわが路地裏へと向かった。疎開道路の信号を渡った。

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 この家の角を右に曲がり、すぐに左に曲がれば、わが路地だ。いつも僕たちはこの角を曲がり家路についていた。近道だった。でも、おじさんは曲がらずに直進した。遠回りだった。ぼそぼそと誰かがつぶやいた。「おっちゃんは、ええかっこしとるで。にぎやかな路を通らせたいんや!」

 この角を曲がれば近道だが、あまりきれいではない。電車道沿いのほうが少しはにぎやかさがあった。僕たちは、次の角である「アジアコーヒ」の所を右に曲がり「大成通商店街」を通っておじさんの鉄工所へと着いた。

 あの日、鶴橋駅で小旗を打ち振ったことは鮮明な印象として今も残っている。おじさんに言われたから振ったのではなく、僕は素直な気持ちで振った。それは間違いないと言える。おじさんが、あの日、近道をせず遠回りの道になるのだが、少しはにぎやかな道をこの街に来たはじめてやってきたお兄ちゃんたちに歩ませたことは、僕には、「ええかっこをした」というのではなく、おじさんが少しの「希望」をお兄ちゃんたちに伝えたと今も思い続けている。あの日から45年後、今は亡き鉄工所のおじさんへの心からの賛歌としたい。

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