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2008年12月14日 (日)

「カルメン」と「アルルの女」のレコード

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 「レコード」という代物がある。音楽媒体としてかつては花形ではあったが、時代の趨勢とともにその存在を他の媒体に譲ってしまった。かつて、小遣い、アルバイト代を手に持ち「レコード店」でその大きなジャケットを見て気に入ったものを購入し家に帰り、路地裏の部屋にある「卓上ステレオ」でその音楽を聴いた時の新鮮な刺激を今も覚えている。

 「レコード」は大きく重い。「CD」が出だしてからは、その大きな代物が私の部屋の重みになってしまった。本とレコードの重みに私の部屋が耐え切れるのだろうかという危機感が襲った。15年前に、私は「レコード」の大部分を身を切られえるような気持ちで処分した。もし、私の家が邸宅であり、補強された書庫や収納庫があれば、「レコード」はその運命を免れたのかもしれない。確固とした経済を生み出しえなかった私の人生の憂いである。ただすべてを捨て切れなかった。今も50枚ほどの「レコード」が、ささやかにも本棚の最上部に鎮座している。

 上の写真は、ビゼー「カルメン」「アルルの女」のカップリングのレコードだ。アンセルメ指揮スイスロマンドオーケストラが演奏している。キングレコード1966年とある。私はこのレコードを購入した時を覚えている。1969年、私が高校1年生の時だった。大阪市東成区新橋通り商店街にあるレコード店で購入した。高校入学祝いで祖母から「卓上ステレオ」を買ってもらった。レコードなど買ったこともなく、最初は祖母が持っていた民謡、浪曲、軍歌などの「ソノシート」をかけて聞いていた。その音楽の影響は今も残存しているのだが。ある日、祖母が「大きなレコードを買っといで」と私に2000円を与えた。

 私は新橋通のレコード店へ行き、多くのレコードが並んでいるのを見ながら、何を買ったらいいのか自分でもわからなかった。初めての体験だった。その中で、中学校の音楽の授業で鑑賞した「カルメン」があった。その曲が好きだった。これにしようと発作的に、このレコードを買った。生まれて初めて買った大きなレコード(LP盤)がアンセルメ指揮のビゼー「カルメン」「アルルの女」だった。あれから40年、捨てきれずに、このレコードは私の部屋に存在し続けている。

2008年12月13日 (土)

「もう一回だけ・・・!」という言葉を聞いて

 先週金曜日、母に逢うために病院へ行った。少し元気そうだった。ちょうど夕食の時間だった。以前に比べて食欲があるようだった。「ちょっとでも食べなあかんから。この病院の豆腐は美味しい」と痩せて小さくなった体から、か細い声で言った。「もう一回だけ、あそこへ帰りたいなあ!」とつぶやいた。「帰ってくるの、待ってるでぇ」という隣のおばちゃんの言葉が聞こえたのだろうか? 帰りたいと願う場所は、母が生まれ80年過ごした鶴橋・大成通りの路地だ。

 母は昔から体が弱かった。幾度、病院に入院したことだろう。数え切れない。その都度、退院してあの生まれ育った路地へ帰った。人から見れば快適さから程遠く、美しくもなく薄汚れた路地であったとしても、そこで生まれ育ち、80年間住み続けている者にとっては、希望と生きる力を呼び起こす大切な場所、パトリ(郷土)なのだ。「また、帰れるさ!」。

観音さまのような声色だった!

S3606  私の母は大阪・森之宮駅近くの病院に入院している。母の見舞いのため出かけ病室へ入った。カーテン越しに声が聞こえた。あれと思いながらカーテンの端からベッドを覗き込んだ。そこに3人の老齢の女性がいた。わが大成通りの路地裏のおばちゃん連中だった。正確に言えば、昔おばちゃんだった今は70歳後半のおばあちゃんたちだった。母の見舞いに来ていただいていた。

 おばちゃん連中が見舞いに行きたいと言っていたけれど、引き止めていたということを、前日に私は妹から伝え聞いていた。その引き止めていたおばちゃんたちが母のベッドのそばにいる。その行動の早さにに驚いた。だが母は意識朦朧の中でベッドに横たわっていた。

 昭和のはじめから70年あまり、私の実家の隣に住むおばちゃんは、私の母とは隣同士、大成通り(現玉津)の路地裏で暮らしている。母・隣のおばちゃんの互いが、家族、路地裏の喜怒哀楽を見続けてきた。上の写真は路地裏のおばちゃんたちと和歌山・和歌の浦でのものだ。昭和33年6月とアルバムに日付が記してあった。この写真に写っている人々の中で、今、存命なのは私と隣のおばちゃんだけになった。中央が満6歳の私、その後ろに祖母、私の左横が隣のおばちゃんだ。今、私は55歳になり、おばちゃんはすでに80歳近い年齢だ。

 ベッドに横たわる母に寄り、その傍らから、おばちゃんは母に声を掛けた。「帰ってくるの、待ってるでぇ!」と病室の静けさの中、柔らかでまろよかな癒されるような声色だった。まるで観音さまのようなだった。母に聞こえたかどうかはわからない。しかし、私は確かに心地よい音楽のように聴いた。70年余り偶然にも赤の他人が隣同士に住み、姉妹のように時を過ごしてきたその確かな絆の証を心に刻みながら聴いた。感謝!!

「今里やきそば」を食べてあの頃を・・・・・!

 12/1(月)朝日新聞夕刊の記事で、「ご当地焼きそば」、アスパラ会員が選んだ日本一という小さな記事を読んだ。1位富士宮焼きそば(静岡)、2位オホーツク北見焼きそば(北海道)と並んでいた。続いての3位「今里焼きそば」という文字を見た時、脳裏の中を興味がかけめぐった。

 「今里」、「焼きそば」という二つの単語は、大阪市東成区今里ロータリー近く、新橋通商店街入り口西側にあった天津甘栗屋とパチンコ店にはさまれた、二軒の同じような小さなやきそば屋が隣接して並んでいたことを私に思い出させた。小中学生だった頃によく食べに入った。下町っ子として、「そのやきそば」の匂いと味は今も忘れられない。

 新聞紙上で見た「今里焼きそば」が、私が思い描くあの「今里の焼きそば」なのかどうか、全く無関係なのだろうか、興味と疑問を抱きながらインターネットで「今里焼きそば」検索した。ヒットした。「焼きそば専門店 大阪今里やきそば」、そのWebサイトを開き確認した。「今里焼きそば」の写真が掲載されていた。あの頃の「今里の焼きそば」だった。店主が記した「こだわりの理由」を読んだ。確かに、私が思い描く「今里のやきそば」だった。

 その味が本当にあの「今里のやきそば」なのだろうかという疑問を解明するために。その店の場所を確認した。近鉄大阪線・長瀬駅(近畿大学前)徒歩5分、大学通り商店街にある。私の勤務先である近鉄八尾駅からは帰路に途中下車できた。12/2(火)職場からの帰路に長瀬駅で途中下車した。

 「今里やきそば」と生ビールを注文した。生ビールを飲みながらどきどきしながら、出来上がるのを今か今かと待ちわびた。ついに出来上がった。私の前にその焼きそばがあった。あの頃のように「コショウ」をかけて食べた。「今里焼きそば」は、間違いなく私の思い描く懐かしい「今里のやきそば」だった。

 生ビールを飲み「今里やきそば」を食べながら、かつての大阪市電の今里車庫、そこから出て行く花電車、今里ロータリー、新橋通商店街のにぎわいの光景を、父親に連れられてよく食べに入ったこと、友だちと二軒並んだ店の前でどちらに入ろうかと迷ったことを想い出していた。

 味覚はただの一瞬の快楽を生み出すものだけではなく、その味覚を経験した時の臭覚、視覚、聴覚、触覚を目覚めさせる。その時の記憶を鮮やかに浮かび出させる。「今里のやきそば」を食べることは出来ないだろうと思ってはいたが、その夜、「今里やきそば」を食べて、懐かしき匂いと味を、そして、あの頃を思い出した。

「大阪今里やきそば」の店主へ敬意を表するとともに心から感謝申し上げます。

「焼きそば専門店 大阪今里やきそば」Webサイト

2008年12月 3日 (水)

昭和35年8月(1960年)和歌山日御碕にて

3508 昭和35年8月と写真の裏面に書かれていた。おばちゃんの今で言う最高のパフォーマンスを御坊の海で見た帰りに、和歌山・日御碕に立ち寄った時の写真だ。昨晩、やっとのことで捜し出した。その当時、鶴橋の路地から、御坊の海へ連れ出された面々である。向かって一番左が私である。小学校1年生だった。あの夏の日、エネルギッシュだったそのおばちゃんの姿が眼に浮かぶ。記憶とは、写真とは何なのだろう?

2008年12月 1日 (月)

御坊の海とおばちゃん

 紀伊田辺駅から大阪・天王寺への帰路、「御坊駅」に差し掛かった。突然に思い出した。往路はその区間は心地よい気分で眠っていたのでそのような想いを抱くことはなかった。「御坊駅」という駅名を見た時、僕はあの夏の日の御坊の海とおばちゃんを思い出した。

 小学校低学年の時だった。春の季節だったのだろう。僕が生まれ育った東成区大成通りのわが路地で、おばちゃんはもろ肌脱いで赤ん坊にお乳を吸わせていた。僕はボール遊びをしていた。おばちゃんの近くへ寄った。大きなおっぱいだった。赤ん坊がおいしそうにお乳を吸っている姿を興味深く見ていた。その時、おばちゃんは僕に言った。「しげる、赤ちゃんと同じように吸って見るか?」僕は、恥ずかしさに後ずさりした。

 「おばちゃんは海女やったんやで、海にもぐって貝を採っていたんや!」僕はその時、正直に心の中で思っていた。おばちゃんの太いからだから見て海に潜っていたなんて信じられないと。おばちゃんは僕の表情を見て察したのだろうか。「しげる、嘘やと思てるやろ!」と僕に言った。

 その年の夏、おばちゃん家族は路地裏のお兄ちゃんと僕を引き連れて、おばちゃんの実家のある和歌山・御坊へとなぜか出かけることになった。おばちゃんの実家に泊まった。翌朝に近くの海岸へ出かけた。そこは岩場があり、その向こうに青い海が広がっていた。おばちゃんは海女の姿だった。太い体に白い衣装に身を包み、黒い枠の水中めがねと小さな樽のようなものを小脇に抱えていた。

 おばちゃんは僕たちが見ている中で、岩場の向こうの海に入って行った。海に浮かぶおばちゃんを遠くから見ていた。白い服装が眼に焼きついている。しばらくして、「見ときや!」というおばちゃんの声が海の向こうから聞こえてきた。白いおしりが海面に浮かんだと思うとおばちゃんの姿が海面から消えた。

 ずっとずっと見ていた。もう海面にその姿が見えてくるだろう。でも、なかなか浮き上がってこなかった。だんだんと心配になってきた。おばちゃんは浮き上がってこないかもしれないと一瞬思った。その時、突然に海面におばちゃんが顔を出した。口笛のような音が聞こえたような気がする。その途端、水中めがねをはずし僕たちの方を向いて、右手を振り上げ大きく手を振った。赤銅色の顔と白い歯が見えた。その時、確かに僕はおばちゃんをすごいと思った。本物の海女だった。

 あれから、48年以上たった今、「御坊駅」という駅名を見て、そのときの光景を思い出した。おばちゃんは嘘偽りもなくなく本物の「海女」だった。あの時、自分自身の誇りをかけて、おばちゃんは海に入り潜った。快心の潜りだった。おばちゃんは生き様をしっかりと僕の眼に焼き付けた。人は精一杯、誰かに己の想いを表現し繋げていくのだろう。

 路地裏のおばあちゃんの一人から、本物の「海女」だったおばちゃん、今はおばあちゃんだが、今年の春に亡くなったと今日知った。御坊の海を見ておばちゃんを思い出したが、もう亡くなっていたのだ。しかし、あの夏の日のおばちゃんは本物の海女だった。誇りをもって生き様を見せて挑んだ潜りの光景を、僕は一生忘れることはない。

 路地裏の片隅でもろ肌ぬいでわが子に乳を与え、本物の海女として御坊の海で快心の潜りを見せたおばちゃんの冥福を祈りつつ、おばちゃんへの心からの讃歌とする。

2008年11月14日 (金)

鶴橋 「高坂書店」で文庫本を買った!

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 近鉄鶴橋駅西口前の「高坂書店」で文庫本2冊を買った。小説ではなくノンフィクションものだった。駅前という好立地にあり、文庫本・新書本の新刊の品揃えが豊富で、私にとって重宝している本屋だ。仕事帰りに立ち寄るには好都合な場所にある。

 私が幼かった頃は、鶴橋駅高架下から千日前通りに沿って西側に100メートルほど歩いたところにあった。その場所から鶴橋駅西口前へ移転した。その店の前を通る時、自然と吸い込まれるように書棚の前にたたずんでしまう。少なくとも私にとっては、場末の町にある大切な本屋である。

2008年11月13日 (木)

とりとめもなく歩きながら~大成通り~

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 なにげもない場末の町の小さな店だ。人から見ればなんら印象深くもない風景なのかもしれない。しかし、私には違う。この大成通りに住む人々には、私が子どもだった頃にお世話になった。

 あれから45年以上も経つ。家から徒歩1分のこの店で文房具、祖父や父のたばこをよく買いに行った。この牛乳店のおじさんが、小学校のソフトボールの練習の時に、グラウンドへ大きな運搬用の自転車に乗り、私たちのためにフルーツ牛乳を運んでくれた。夏にそれを飲んだ時、元気が出たり、少し上手になったような、強くなったような気持ちになった。その時のことは今も忘れていない。

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 朝早い時間だった。店は開いてはいなかった。静けさが漂っていた。私の懐かしき人々が住む家だ。彼らは元気にしているのだろうか?.その日の早朝にこの地を歩きながら、「パトリ」(郷土)である、大成通と大成小学校第三分団のことを思い描いた。

思郷のこころ湧く日なり

 「オモニも済州島で生まれ育ったんやろ。なあ、元気な内に一度帰ろう!」と鶴橋の居酒屋「うをさ」で隣の席から話し声が聞こえてきた。意識的に耳を傾けなくとも、酒の酔いのせいだろうか、その男性の大きな声が自然と耳に入った。私と同年代ぐらいの男性二人とそのご両親なのだろうか、老齢のご夫婦が同席していた。

 「今、帰えらなければ帰られへん。なあ兄ちゃん、お父ちゃんもそう思うやろ。みんなで済州島へ帰えろうや。おじいちゃんの墓参りもせなあかん!」と大きな声が店の中にとどろき渡った。わがふるさと場末の町で酒を飲みながら、その家族と彼らの郷里・済州島に想いを馳せ、いつになく、わが思郷の湧く日となった。

病のごと
思郷のこころ湧く日なり
目にあをぞらの煙かなしも 
(石川啄木)

2008年11月 7日 (金)

あの日、僕たちは小旗を打ち振った!

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 もう45年以上前、1962年(昭和38年)の頃だ。近所の鉄工所のおじさんに路地裏小僧の数人が声をかけられて、鶴橋駅まで出かけた。おじさんは鉄工所の名が記された大きな旗を、僕たちは小旗を持ちながらあひるの行列のように駅へと向かった。春四月、集団就職で九州・宮崎からやってくる中学校を卒業したばかりのお兄ちゃんたちを出迎えに。

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 しばらくして、男の人に引き連れられて、二人のお兄ちゃんがこの階段を降りてきた。黒い学生服に学生帽をかぶり、手には重そうな大きなバッグを持っていた。その姿を見るなり、おじさんは大きな声で叫んだ。何を叫んだのかは今となっては思い出せない。僕たちは威勢よく歓迎の小旗を打ち振った。でも、お兄ちゃんたちは少し不安そうだった。

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 僕たちの一団は駅の構内からすぐ前の電車道(千日前通)沿いに東へ、おじさんを先頭に、続いて二人のお兄ちゃん、その後が僕たち路地裏小僧の順に列を組みながらわが路地裏へと向かった。疎開道路の信号を渡った。

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 この家の角を右に曲がり、すぐに左に曲がれば、わが路地だ。いつも僕たちはこの角を曲がり家路についていた。近道だった。でも、おじさんは曲がらずに直進した。遠回りだった。ぼそぼそと誰かがつぶやいた。「おっちゃんは、ええかっこしとるで。にぎやかな路を通らせたいんや!」

 この角を曲がれば近道だが、あまりきれいではない。電車道沿いのほうが少しはにぎやかさがあった。僕たちは、次の角である「アジアコーヒ」の所を右に曲がり「大成通商店街」を通っておじさんの鉄工所へと着いた。

 あの日、鶴橋駅で小旗を打ち振ったことは鮮明な印象として今も残っている。おじさんに言われたから振ったのではなく、僕は素直な気持ちで振った。それは間違いないと言える。おじさんが、あの日、近道をせず遠回りの道になるのだが、少しはにぎやかな道をこの街に来たはじめてやってきたお兄ちゃんたちに歩ませたことは、僕には、「ええかっこをした」というのではなく、おじさんが少しの「希望」をお兄ちゃんたちに伝えたと今も思い続けている。あの日から45年後、今は亡き鉄工所のおじさんへの心からの賛歌としたい。

2008年11月 5日 (水)

「亀之橋跡」の前で

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 わが実家近く、大阪市東成区玉津二丁目にある「亀之橋跡」である。変体仮名で「かめのはし」と彫られた小さな石である。私の妹の同級生だった友人の家の前にある。そこは、むかしむかし川が流れ、橋がかかっていたのだろう。人から見ればただ何の変哲もない石だ。ただ何の変哲もない石でありながらも、ずっとその場所に存在し続けている。無用なものであれば取り除けば良い。しかし、その小さな小さな石柱はそこにある。歴史はいとも簡単には切り捨てられない。

2008年11月 3日 (月)

大小橋命の胞衣塚(えなづか)

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 鶴橋駅から千日前通りを東へ今里の方角へ2分ぐらい歩くと、千日前通りと疎開道路の交わる玉津3丁目の交差点に出る。その北西角に、この「胞衣塚(えなづか)」がある。わが実家近くにある比売許曽(ひめこそ)神社にまつられている大小橋命(おおばせのみこと)の胞衣(えな)を納めた塚と伝承されている。子供の夜泣き封じに効能があると言われ“えな塚”が“よな塚”と広く知れわたったようだ。「胞衣塚」の前、千日前通りをひっきりなしの車が行き交う。その交差点の四隅の一角に、この塚がいにしえから鎮座している。

2008年11月 2日 (日)

青空へと伸びる樹

Photo_14  大阪市・東成区、大阪市立玉津中学校に隣接する公園にある一本の樹だ。中学校横のグラウンドでは、当時、サッカー日本代表がメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した影響で、ある日突然にみんながサッカーに夢中になり、日が暮れるまでゴムボール追いかけた。「南米では裸足でサッカーをするんやて。ボールの感覚を足に感じさせるらしいで!」という友人の言葉に触発されて、私たちは運動靴を脱ぎ、土のグラウンドを裸足の一団となりボールを追いかけたこともあった。足の裏が痛かった。

 私の中学校時代を振り返り、確かにこのような大きな樹があった記憶がない。当たり前のことだった。あれから45年余りの時が過ぎ去っている。あの時は、細く背の低い樹だった。樹の幹も太くなり空へと広がり大きくなるのは自然だ。樹は子どもから大人になった。その成長は目を見張るものがある。それに比べて私はといえば、成長したのか退化したのか、いずれなのだろうか? 青空に伸びる樹の緑の色合いに、とりとめもなくそのような想いを抱いた。

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大阪「鶴橋市場」を歩く

Photo_3   11/1(土)朝、久しぶりに「鶴橋市場」の中を歩いた。私が幼かった頃には、数え切れないほどにその市場の中を探検した。大阪・環状線、近鉄線、地下鉄谷町線が交差するターミナル「鶴橋駅」を降りてすぐにその市場がある。利便性は申し分なくあらゆる食材が並ぶ。小さな店が密集した大規模な卸売市場が広範囲にわたっている。

 街中にこれほどまでに食材が揃った卸売市場は大阪にはない。戦後まもなくの闇市がその初めで、現在まで連綿として存在し続けている。そこは雑然としながらも魅力的なマーケットである。私はいつもその中を歩くと、「アジア」の匂いを嗅ぐ。戦後、加速度的に欧米化が進む過程で、アジア的なものは消失しかけている。ここは、別名「国際市場」と呼ばれる。「インターナショナル・マーケット」、その言葉の通りに、そこは私にとって、「国際的」な「アジアバザール」だという想いがある。

 鶴橋駅を降りるとすぐに広がる市場の中に足を踏み入れると、アジア的な混沌と熱源を感じるだろう。わが国のどこにもない渾然とした個性的な光景が広がる。独特な魅力が人をとりこにする。永遠にその市場が存在し続けることを、私は願っている。私の原風景のひとつとして心から祈りながら。

「大阪 鶴橋市場」公式サイト

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2008年11月 1日 (土)

「新橋通商店街」で見た子どもたちの書

Photo_4 わが母校、大阪市立大成小学校の児童が毛筆で書いた「街」という想いだ。その字が上手なのか上手でないのかは私には解らない。そのようなことは些細でどうでもよいことだ。ただ、学校の授業での強制か自主的かも問う必要はない。私の眼前にその文字はある。それも、小奇麗な会館や学校の教室ではなく、学校近くの商店街である大阪市東成区・今里「新橋通商店街」のただの無機質な壁面にずらっと並んでいた。恐らく、その商店街の方が企画されたのだろう。卒業生の一人としてその想いに共感とともに敬意を抱く。

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 あたかも教室の黒板に掲載されているかのように見えるが、かつての賑わいが消えうせた商店街で、子どもたちが書いた毛筆の文字を見ていて、この企画を考えられた方の想いへ心を巡らした。確かに、地元の小学生の毛筆を商店街に掲載してからといって商店街に多大な振興を即効的に成果が生じることもないだろう。しかし、収益、経済だけで人は想い行動するものでもない。

 今里・新橋通商店街は、かつて市電の終点として賑わいを見せていた。わが実家から最も近い「繁華街」だった。映画館が二館があった。その当時の有名俳優もやってきてサイン会なども催されていた。私が高校生の時に、大きなレコード(LP盤)をはじめて買ったのもその商店街だった。愛おしく忘れがたい商店街である。その場所で」、はるか後輩の書き記した「書」というか、「文字」を見た時、えもいわれぬ感慨を抱いた。

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 朝早い時間だった。商店街の店はまだ開店していなかった。ゆっくりと歩きながら、子ども頃を思い出した。その頃にあった店はいくつか今も営業しているようだ。あれから45年以上も経つ。今里「新橋通商店街」は、私自身の心の中に、今里車庫終点としての「賑わい」が、今も脳裏意に焼きついている。

2008年10月23日 (木)

わが「パトリ」、まちの地図

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  私が生まれ育った「パトリ」(郷土)のまちの地図だ。「大成通商店街」の入り口に掲げられていた。かつて、私が幼かった頃、そのまちにはさまざまな店があった。

 電車道(千日前通)には、弁天市場、電器屋、肉屋、かばん屋、食堂、喫茶店、「大成通商店街」には、歯医者、文房具店、氷屋、畳屋、ブリキ屋、洋品店、美容室、寿司屋、豆腐屋、酒屋、たばこ屋、制服屋、食堂、たこやき屋、等があった。

 今は商店街と呼べないだろう。それほどの店はない。あの頃の賑わいは、私の目の中に焼きついている。そのまちを歩くと、小学生だった頃に、市場や豆腐屋へお使いに行ったことを思い出す。

 兎追いし、かの山、川もない。美しき自然からは程遠い。美観などはなく、ただただ人が寄り添い生きているまちでしかないのかもしれないが、私にとっては、紛れも無い「パトリ」(郷土)なのだ。

「アジアコーヒ」のかすれた古看板

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 10/19(日)墓参りを終え、鶴橋の実家へ母を送り届けた。近くの「ライフ」へ車を止めて実家へ戻った。電車道(千日前通)の信号が変わるのを待っていた。道路の向かい側の家の二階の古看板が目に入った。あっ!と思った。まだ残っている。「アジアコーヒ」だ。

 小学校低学年の時に、実家から徒歩2分の喫茶店「アジアコーヒ」によく祖父に連れられて入った。祖父は「コーヒ」を私は「ミルク」を飲んだ。もう50年近く前になる。その喫茶店は今で言うチェーン店だったと聞いた。その喫茶店がいつ無くなったのか思い出せない。

 私が小学生だった頃、その店の前を通った時、芳しい「コーヒ」の香りが漂っていた。未だに「アジアコーヒ」のかすれた古看板が掲げられているのを見た時、懐かしさに、バッグからカメラを出してシャッターを押した。祖父が美味しそうに「コーヒ」を飲み、「いこい」を吸いながら新聞を読んでいた姿が思い浮かんだ。あの日あの時の[アジアコーヒ」、芳しき香りよ!

2008年9月28日 (日)

私のお宮参りの時の写真を見て

Photo_3  私のお宮参りの時の写真だ。その裏に昭和28年(1953年)8月22日の日付と場所が記されていた。わが鶴橋の実家の氏神さま、御幸森天神宮でのお宮参りの光景が写真に写っている。55年前の私と祖母だ。

 私はこの写真を見ながら祖母のことを思い浮かべる。私は生まれてから24歳で結婚しその町を出るまで、三世代が昭和初期に建った路地裏の小さな家に同居していた。祖父は私が10歳の時に亡くなったが、祖母、父、母、妹、弟、私はずっとその家で暮らした。

 私は祖父、祖母、父、母という四人の大人たちと暮らしていた中で、今振り返ると私という存在に大きな影響を与えたのは祖母だったと言える。家族四人の大人の中で、祖母は私に一番話を聞かせ、外の世界を見せようとした。

 私が小学校へ入る前から、「おばあちゃんは、尋常小学校を中退して女中奉公に出たんやで!難しいことはわからへんけど、おばあちゃんはこう思うねん」とさまざまな話を、夏はお膳の前で、冬は火鉢の前で聞かされた。そのことを私は嫌ではなかった。私の人格そのものではなく、興味の対象、日常の視点の根底に祖母の話がある。祖母が生きた証は、私に繋がっている。

2008年9月26日 (金)

回転すし屋の前の小さなすし屋

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 JR鶴橋駅の改札口を降りるとすぐに千日前通りだ。その通りの向こう側に、回転すし屋のネオンが見える。その右隣が、わが御用達の居酒屋「一福」だ。そして左隣が、回転すし屋の前のすし屋「すし幸」だ。駅前の立ち食いすし屋だ。わが、もうひとつの御用達だ。写真には映ってはいないが、「すし幸」の左隣が、またまた御用達の「うをさ」だ。

 夏にその店に立ち寄った時、突然にのれんをくぐり女子高生3人が入って来た。一瞬驚いた。普通の女子高生だった。
「この近くの中学の出身?」と私はその一人に尋ねた。
「はい!本庄中です!」
「そうか、おっちゃんは玉津中出身なんや!」
「そうなんですか?」
「何の仲間?]
「演劇部の先輩後輩です」
「演劇をしてるのなら、このような場所も勉強になるね」
「はい!]
その子は礼儀正しく答えた。不思議な時間だった。

 なぜ、回転すし屋の前に小さなすし屋があり、その店が毎晩賑わい存続し続けているのか不思議だ。「場」と「味」が人を立ち寄らせるのだろう。その店には独特な雰囲気が匂う。私にとっては、かけがえのない好ましい匂いだ。その芳しい匂いを嗅ぐために、人々は立ち寄って行くのだろう。そのすし屋がずっとずっとあり続けてくれることを私は願い続けている。

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2008年8月26日 (火)

「チキンラーメン」栄光の50周年

 1958年(昭和33年)8月25日に世界初のインスタントラーメンである「チキンラーメン」が発売されて昨日で50周年を迎えた。ロングラン商品である。私はインスタントラーメンと言えば、日清の「チキンラーメン」だ。ちょっと、今我が家の台所をのぞくとそれがある。残念ながら妻はエースコックの「ワンタンメン」だ。私は「ワンタンメン」も好きなのだが、「チキンラーメン」に勝るものはない。50年近くも一途に「チキンラーメン」党だ。

 あの日あの時はまさに革命的な体験だった。鶴橋の実家、路地をはさんだ向い側の家のH兄ちゃんが、「しげる、ちょっと家に来い!」と私に声がかかった。その家に入りお膳の前に座った。H兄ちゃんが空のどんぶりと袋を持ってきた。台所では、やかんが沸騰していた。袋を開けて中身をどんぶりに入れろという。言うがままにした。その時、袋の文字を読めたかどうか記憶にない。どんぶりにいれた堅いものに湯をかけてふたをしろという。その通りにした。

 私にはその時、それがどのようなものなのか、どのようになるのか想像もつかなかった。H兄ちゃんは3分間黙って待てという。言われるままに待った。「よし!ふたを開けろ!」私は不安げにそのふたを開けた。すると今まで嗅いだことのないような匂いがした。そのどんぶりの中は、そばのようなものなっていた。たまらなくおいしかった。その時「チキンラーメン」の味をはじめて知った。あれから50年近く、私の辞書にはインスタントラーメンは「チキンラーメン」という商品しかない。女性に対して同様に心一途である。

「チキンラーメン/日清食品」公式サイト

2008年7月27日 (日)

フルーツ牛乳の味を思い出して

 休日の二日間は、パソコンと本はあるが、クーラーも扇風機もない部屋で、うちわ片手に書類と格闘していた。窓から見える青空と白い雲を眺めると、無性に走り回りたい気分になった。その時に、「フルーツ牛乳」のことを思い出した。

 小学生6年生の夏、ソフトボールに夢中になっていた。僕たち子どもは、自分たちでメンバーを決め、試合に夢中になっていた。その頃は、大人のコーチ(指導者)などはいなかった。伸びやかであった。ただ、青年団の人が僕たちの世話をしてくれていた。鰹節屋、蒲団屋、牛乳屋の兄ちゃんが、当時、恐らく30歳代だったのだろうか、一生懸命に支えてくれていた。

2008720  時折、牛乳屋の兄ちゃんが、自転車の運搬車の荷台につんで、冷えた「フルーツ牛乳」を持ってきてくれた。僕たちは乾いたのどを潤した。忘れられない。40年以上経っても忘れない。以前、実家に帰った折に、その兄ちゃんがいた牛乳屋を写真に収めた。それが「ミヤマヤ牛乳店」だ。今も存続し続けている。

2008年7月21日 (月)

銭湯「白鶴温泉」と鶴橋駅前「うをさ」に寄って

 7/20(日)夏祭りの夜に、鶴橋駅前の銭湯「白鶴温泉」で汗を流した。深く湯船につかった。熱い湯が皮膚を刺激して心地よい気分だった。風呂上りに50円のマッサージ機にすわり、より心地よい気分になった。のどが渇いた。我慢して銭湯を出た。

 銭湯「白鶴温泉」から徒歩1分、居酒屋「うをさ」に入った。生ビール中を注文した。ジョッキを左手に持ち琥珀色の液体を少し眺め、銭湯「亀の湯」に乾杯!と、ぐいっと爽やかに乾いた喉をうるおした。ささやかなお別れ会だ。

鶴橋駅前「うをさ」公式サイト

Img  「御幸森天神宮」で買った「御幸森天神宮壱千六百年祭記念誌」(定価2500円)のページを繰った。貴重な歴史の記録である。その記念誌を読みながら、「継続すること」、「記録すること」の重要性を新たに認識した。

 私は誕生日が7/22だ。夏に生まれた。そのことが起因しているのかどうかはわからない。私は、7/20頃から8/初旬までのこの季節が特に好きだ。生まれた季節に、生まれた場所に帰る。そして、日常に戻る。夏祭りを見て、日常の中で抑圧されている情念がほどばしった。

「牧野レコード店」への応援歌

2008720_8 2008720_9  7/20(日)、「御幸森天神宮」「比売許曽神社」の夏祭りの帰り道、千日前どおり鶴橋駅近くを歩いていた。私が幼かった頃からその場所にあった「牧野レコード店」の前を通り過ぎようとした。銭湯「亀の湯」が消えたことの寂しさが、私を立ち止まらせた。「レコード」が消え「CD」「DVD」が主流となり、「TUTAYA」などに象徴される大型店が隆盛となった変遷のなかで、かたくなにも店名変更もせず「レコード」という言葉を残し、存続、営業し続けている「牧野レコード店」は、私の中で光輝いている。

 私は高校生時代にレコードを買い音楽を聴きだした。シングル盤はいつもこの店で買った。実家から駅までの途上に「牧野レコード店」がある。駅への行き帰りには、必ずこの店の前を通らなければならない。、私はこの店で幾枚の「レコード」を買ったのだろう? その店にとって私が買ったレコードの売り上げなどはちっぽけなものだ。それでも私が幼かった頃から今まで営業し続けている。

 私は、「牧野レコード店」が今在ることに正直驚きを隠せない。現実の音楽媒体の変遷の中でも生き残り営業をつづけていること、それ以上に鶴橋という町の中で、「音楽」を通じて「文化」を伝え続けていることはすごいことなのだ。「牧野レコード店」に対して、今は奈良・富雄に住む「つるはしびと」として心から声援を贈り続けたい。

比売許曽神社夏祭2008

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 7/20(日)、氏神さま「御幸森天神宮」の夏祭りの帰りに、実家近くの「比売許曽神社」の夏祭りに立ち寄った。わが実家の氏神さま「御幸森天神宮」は、実家から徒歩で20分余りかかる。「比売許曽神社」は徒歩5分だ。幼い頃からなじみがある。ただ、世の中には守るべき序列がある。先ずは氏神さまから、次になじみの神社へ。

 ここでも、わがクラブ「ソレステレージャ奈良2002」の今後の隆盛と「AC長野パルセイロ」のリーグ優勝を、わが愛着ある「比売許曽神社」に祈願した。氏神さまと同等に。 

御幸森天神宮夏祭り2008

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 7/20(日)鶴橋の実家に寄った帰りに、「御幸森天神宮」の夏祭りに出かけた。普段は静けさが漂う境内も、夏祭りのこの夜は、さまざまな人々で賑わっていた。

 わが愛するふるさとの地へ、わがクラブ「ソレステレージャ」の紺色のハーフパンツ、唯一わが家にあったオレンジのシャツの出で立ちで出かけてきた。あたかも似非パルセイロ風の格好で、「ソレステレージャ奈良2002」の今後の隆盛と「AC長野パルセイロ」のリーグ優勝を、わが愛する氏神さま「御幸森天神宮」に祈願した。

 境内内外で夜店が多数出店していた。子どもたちは、たこやき、いかやきを食べながら、金魚すくい、ヨーヨー釣り、当てものに興じていた。夜店を見て回った。金魚すくいやヨーヨー釣りなどをしたいと思いながらもできなかった。恥ずかしさが障害になった。54歳になっても勇気がない人間のままなのだろうか。

(写真はクリックすると拡大できます。)

銭湯「亀の湯」は僕たちの遊び場だった

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 7/20(日)夕刻に鶴橋の実家へ寄った。実家に寄る前に、ちょっと一風呂と思い「亀の湯」の前に来た。「あっ!消えてる!無い!」と心の中でつぶやいた。銭湯「亀の湯」がなくなっている。今見えている風景は幻想なのかもしれないと思いたいが、これが現実なのだ。きれいに更地となっている。(左の写真) 寂しさと喪失感が胸の中で渦巻いた。

 昨年の夏には、まだ銭湯「亀の湯」の象徴としての煙突が凛々しくも青空に向かってそびえ立っていた。(中央・右の写真) そこは、45年以上の前の僕たちの遊び場のひとつだった。夏休みには、朝から一日中、昼ごはんも食べず、野球をしたり、探検ごっこをして汗だくになった。その帰り、銭湯「亀の湯」の一番風呂に入り汗を流した。いや、また風呂の中で遊んだ。

 銭湯「亀の湯」は、いったい何年営業を続けたのだろう? 私が幼少の頃から確かに存在した。少なくとも50年以上は営業を続けたのだろう。生活様式の変化の中で、各家庭に風呂が設置されているにも関わらず、存在し続けたことに経営者の方の想いと努力とに敬服せざるをえない。

 確かに、銭湯「亀の湯」は建物としては消え去った。しかし、銭湯「亀の湯」で時を過ごした楽しい記憶は、写真に写っている青い空と白い雲のようなさわやかさ、また煙突のような凛々しさとして、私の心の中で永遠に生き続ける。

2008年7月11日 (金)

「やわらかマリ」を思い出して

 7/10(木)雑誌「大阪人」を読んでいて、懐かしい名が目に入った。その名は、「やわらかマリ」。皆さんはご存知でしょうか? それは柔らかいゴムボールです。今も「100円ショップ」に並んでいます。むかしむかし、私たち路地裏小僧は、野球をする時はいつも「やわらかマリ」だった。天然ゴム独特の甘い香りがした。呼び名は「ボール」ではなく「マリ」だ。

 現在、その「やわらかマリ」の製造シェア100%を誇るのが、鶴橋にある「㈱柴田工業所」であることを知った。今まで私は、わが実家から徒歩10分、近鉄の線路を越えた生野区にそのような「ゴムボールの最後の砦」があろうとは思いもつかなった。

 その記事の中で、「うちが生産をやめれば、子どもたちは遊べなくなる」 「子どもたちはゴムボールとともに成長していくんです」という言葉が、私の心の中に強烈に刻み込まれた。今、思い返すと、「ゴムボール」で、体を動かす楽しさ、遊びの楽しさ、競い合う楽しさを、私たち路地裏小僧は感じ育ってきた。小さな「やわらかマリ」に感謝!

「㈱柴田ゴム工業所」公式サイト

「御幸森天神宮」の記事を読んだ!

Img  今晩、雑誌「大阪人」8月号の特集「生野ウエスト」で、「神と人とは持ちつ持たれつ 御幸森天神宮」という記事を読んだ。「御幸森天神宮」は、わが実家の氏神である。昨年、創建1600年祭が挙行されたようだ。私はそのことを知らなかった。「御幸森天神宮壱千六百年祭記念誌」も刊行された。神社に立ち寄った折には、その記念誌のことを尋ねてみようと思う。出来れば、購入して読んでみたいものだ。7/19、20は夏祭りだ。夜にでも出かけてみようと思う。

「雑誌・大阪人」公式サイト

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