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2008年5月17日 (土)

鶴橋「うをさ」へ

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 5/16(金)職場で、机に向かい仕事をしていた。違う部署の旧知の者が、珍しくわが部署にやってきた。私に近づいてきた。もう仕事を終え帰宅するのだという。私の傍らに来て、無言でかもし出す空気は、何かを漂わせている。察知した!「行こうか?」 論理など無くとも情緒で相手も了解した。早急に仕事を終えて、近鉄八尾駅に向かった。「鶴橋へいきましょう」と彼は言った。私の空気を読んだのだろうか? 我々は、近鉄八尾駅から準急電車に乗り鶴橋駅へと向かった。

 近鉄鶴橋駅の西口を出て、「高坂書店」「源氏」を通り過ぎ、JR鶴橋駅中央改札口前から千日前通りの信号で立ち止まった。道路を隔てた向かい側にある鶴橋駅前「うをさ」へ迷わずに入った。2階のワンフロア-の座敷で、まずは生ビールを頼んだ。彼は開口一番私に言った。「立呑み屋、居酒屋とか好きですねん!鶴橋は最高です!」 人を喜ばしてくれるような甘い言葉にビールを飲む前に酔いしれた。

 滑らかに私の口が自動的に動き出した。鶴橋生まれ育ちであること。実家はここから徒歩10分の場所にあること、祖母の法事でこの座敷を使ったこと、鶴橋は魚がおいしいこと、等々。笑顔を浮かべながら心地よく聞いてくれた。感謝!

2008年5月 8日 (木)

鶴橋 居酒屋「一福」 新装開店!

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 5/8(木)、鶴橋 居酒屋「一福」が新装開店した。朝から楽しみにしていた。仕事帰り、近鉄八尾駅から準急に乗った。停車駅は、布施駅、そして鶴橋駅、10分余りで着いた。新装の店内は満席だった。10分程度待った。カウンターに座り、まぐろの刺身と瓶ビールを頼んだ。魚がおいしい。近くに鶴橋卸売市場があるからなのだろうか? 心地よく酔った。店の外では幾人もの人びとが、席が空くのを待ち続けていた。何年も変わらないスタッフが活気ある姿で客の対応に追われていた。店内は活況を呈し、さまざまな人びとに、「ひとつの福」を与えている。居酒屋「一福」で、ちょっと「いっぷく」して、富雄川沿い、鼻歌を口ずさみながら、心地よい気分で我が家へたどり着いた。

2008年4月 6日 (日)

「花盛りの宴」

 4/5()、母と妹夫婦・長女、弟夫婦、わが夫婦の8人で、大阪城公園西の丸庭園へ花見に出かけた。この顔ぶれで、いままで花見に出かけことは無かった。また私自身、花見に出かけたことは恐らく20年ぶりだ。妹の声かけで出かけることになった。

 母は介護タクシーで公園まで送ってもらい、後は酸素ボンベを装着した車いすで移動した。妹はといえば二度の手術のあと、体の調子が芳しくなかったのだろう。母も久しぶりに戸外に出て太陽にあたり疲れ、弁当も余り食べることができなかった。たった1時間たらずの花見となった。

 花盛りの中、大阪城天守閣をまじかに仰ぎ、かつて路地裏の人々ともに花見の季節になると、よくこの地へ来たことを思い出した。あの路地裏で同じ時を過ごした母と妹・弟とともに、桜の花の下で、ゆるやかな時を過ごした。ささやかであったとしても、心の中の「花盛りの宴」だ。

191_2 (Photo:2008.4.5)

2008年3月30日 (日)

「鍵の言葉」

 3/29() 受験対策講座を受講した帰りに鶴橋の実家に寄った。近鉄鶴橋駅東口をでて魚の匂いが染み付いた鶴橋卸売市場内の雑然とした路地を抜けて千日前通りに出た。疎開道路を渡り瀧本印刷の前を右折しすぐ次の道を左折して、いつもの路地に入った。その路地に入った時、いつものように感情が高ぶった。人から見れば何の変哲もない狭く汚い通路である。しかし、私にとって「その路地」は、私自身の存在を解く「鍵の言葉」だ。

 母は酸素チュ-ブをつけて生活している。その母の面倒を見ている私の妹も二度にわたる目の手術を受け退院してきていた。妹の目の容態も芳しくないようだった。珍しく、「兄ちゃん、花見に行こう!」と誘われた。なぜそのようなことを妹が言い出したのか詮索はしなかった。次の土曜日に母・妹・弟と私で大阪城公園へ花見に行くことが決まった。かつて、この季節になると手弁当を持って路地の人々といっしょに花見に毎年のように出かけた。当日は介護タクシ―を手配する。わが実家近くの店でささやか手弁当を購入する。「花見」は、何かを表している「鍵の言葉」かもしれない。

 わが実家の隣組には、私が幼かった頃におばさんだった人々が、今は90歳近くになった「おばあちゃん」として元気に一人暮らしをしている方々が4人いる。「息子も娘も余り帰ってこない。子どもをあてにせずに、一人で生きていかなあかん!」と私の妹に力強く言ったようだ、それぞれの一人暮らしのかつての「おばちゃん」同士が、もしもの時を考えて自宅の家の鍵を預けあっている。私たちは自宅の鍵を誰かに預けよう、預けたままにできるのだろうか?かつてのおばちゃんたちは実際にそうしている。「信頼」は人が生きていく上、生活していく上で必要不可欠だ。ほんとうの「鍵の話」は、人間が、生きていくこと、生活していくことの本当に意味での「鍵の言葉」だ。 

 私は、いつも実家の前の「路地」に入ると得も言われぬ感情が高ぶる。私は今、居住している場所に毎日戻ってくるが、そのような感情の高ぶりはない。大成通の「路地」から離れた場所で確かに生きてはいるのだが、私はその街の匂いを終世思い続ける。あの路地に「高尚な文化」は存在しないかもしれない。しかし、そこにはまぎれもなく「庶民の文化」が存在し続けていると、今もなお「大成第三町会第三班」の一員であると身勝手にも思い込んでいる者として書き記しておきたい。

     個人で訳もなくブログを開設し継続している。「検索ワ-ド」でヒットして見ていただいている方の中で、「大成通」「大成小学校」「玉津中学校」「猪飼野」「疎開道路」「御幸森神社」等々というワ-ドで検索された方々がいらっしゃる。おそらくそのワ-ドに想いがある方々なのだろうと思う。拙文ではあるがその町に生まれ育った者としての「想い」であると受けとめていただければ幸いです。

2008年3月19日 (水)

[猪飼野郷土誌」と「熊沢天皇」

Img_0004_2  「猪飼野郷土誌」(1997.03./発行:猪飼野保存会)を以前に読んだが、今晩何気なく手に取り拾い読みをした。P.77「熊沢天皇寓居跡」の一文を再読した。「熊沢天皇」こと熊沢寛道(大阪市東成区大成通1丁目90番地)は、昭和26年昭和天皇を相手取って”天皇不適格確認”の訴訟をおこした。これに対する裁判所の命令は、主文「本件訴状を却下する」、理由「天皇は裁判権に服しないというものだった。米国「タイム誌」にも紹介された「熊沢天皇」は、一大センセーションを捲き起こしたが、その後、昭和41年6月、東京板橋で76歳の波乱の生涯を閉じた。

Img_0005  「熊沢天皇」については、2007.09に刊行された「吾輩は天皇なり」(著者:藤巻一保/学研新書)に生い立ちからの詳細が記載されている。戦後最大の奇人と著者が称する人物が、わが実家の近くに居住していたことから興味をいだき続けていた。「猪飼野郷土誌」にもその存在が記載されていることは、その地にとっての何らかのインパクトを与えた存在であったのだろう。「吾輩は天皇なり」の中の一文で、著者は「熊沢寛道をドンキホ-テと笑うことはできない」と書き記していた。兎にも角にも、私にとって「熊沢天皇」は奇妙な存在であり続けることに変わりはない。

2008年3月16日 (日)

王寺の「鶴橋風月」で

Img(箸入れとおしぼりの袋)

3/15()午後、「県スポーツ少年団指導者協議会委員総会」に参加した帰りに、JR王寺駅前ビルの地下で食事をとろうとした。地下1階の飲食店街で何を食べようかと思っていると、お好み焼「鶴橋 風月」の文字が目に入った。迷わず店内に入った。豚モダン焼きを頼んだ。私は食べながら、駄菓子屋の横で小さな「洋食焼き屋」をしていた祖母が、鉄板に向かいテコを持ち焼いている昔の姿を、ふと思い出した。

「鶴橋風月」Webサイト

2008年3月10日 (月)

居酒屋「一福」は・・・・

先週金曜日、朝一番に職場の直属の部下が私に言った。「昨日鶴橋で飲んでたんです。以前に一緒に行ったガード下の居酒屋で、飲もうとしたのですがありませんでした」「無い?どういうこと?」「店の周りにビニールシートが張られていました。つぶれたか?改装かもしれません?鶴橋駅前で、はやっていたからつぶれたということは無いと思いますが?」無性に気になった。

 3/9(日)夜、鶴橋の実家に寄った帰り道に、居酒屋「一福」の店の前まで行った。ビニールシートが店を覆っていた。案内の紙が貼ってあった。そこには、店舗改装のために休業する。5/8新装開店すると書かれていた。やはり店舗改装だった。

24年前、息子が生まれた日に、その子の前途を憂いながらも父親としてひるみ、はじめて一人で入った居酒屋が「一福」だった。その夜、酔いつぶれた。昨日のように憶えている。わが思い出の場所がそう簡単に無くなってたまるかと心の中でつぶやいていた。新装開店の折には必ず出かける!!

2008年3月 5日 (水)

「ぶんちん」の思い出

 中学校時代の技術実習で、僕は習字などに使う「ぶんちん」を作った。技術室の「万力」を使い、短い鋼材から「ヤスリ」で削り油を塗って仕上げた。その作品を手に持ち下校した。自宅と目と鼻の先にある鉄工所の前に差し掛かった時、顔見知りの鉄工所のおっちゃんが、たばこを吸いながら午後の休憩をしていた。

 「しげる、何を持ってるんや?」と話しかけられて僕は立ち止まり、「技術実習で『ぶんちん』を作った」と答えた。見せろと言うので左手に持っていた「ぶんちん」を差し出した。おっちゃんは、それをじっと見ながら僕に鉄工所の中へ入れと言った。鉄くずを踏みながら、薄暗く狭い、油の匂いが充満する鉄工所に僕は足を踏み入れた。

 馬鹿でかい「万力」にその「ぶんちん」をはさんだ。おっちゃんは、大きな「ヤスリ」で削り、瞬く間にきれいに仕上げた。出来上がった新たな「ぶんちん」を僕は手に取った。すごくきれいであった。おっちゃんはすごい!と感心した。ふと、その「万力」を見た。これが「万力」だとすると、技術教室にあったのは、「万力」ではなく「千力」「百力」でしかなかった。

 おっちゃんにお礼を言い、鉄工所を出て自宅に戻った。家の中で「ぶんちん」を見ている時に、「おっちゃんは、技術実習の時間だけ、先生になったらいいのに」と僕の脳裏を過ぎったことを昨日のように思い出す。先生という存在は、「学校内」だけにいるのではなく「学校外」にもいる。僕のその考えは、あれから40年経った今でも変わらない。

2008年3月 4日 (火)

1959賀正

1959 (左が私、右が妹)

 わが実家である「大成屋」の前で、1959年(昭和34年)のお正月に撮って貰った写真である。隣のおっちゃんが筆で書いた「1959賀正」の紙を無理やり持たされた。いつ撮ったかわかるように持たせたのだろう。その甲斐あって、この写真がいつ撮られたのか、49年後の今もその時期ははっきりとしている。路地の道は、その時まだ石畳だった。兄妹とも貧相な姿ではあるが、確かにその日は正月だったのだ。

2008年3月 1日 (土)

「中国風のお遊戯」

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今から50年近く前、私の幼稚園時代、お遊戯の発表会の写真である。私の隣にいる女の子はこの写真からうかがえるように幼稚園児なの?と思えるほど凛としている。それに比べ私などは道化である。頭上にお星さま(エストレ-ジャ)があり、路地裏育ちとは程遠い中国風衣装を身につけ、ふぬけみたいな顔で、銀紙を張った運動靴の張っていない底を見せながら、遠くを見つめて一生懸命に踊っている。わが人生を象徴する光景だ。2008年現在、私と我が家のパ-トナ-との関係は、この写真の「ふぬけ」と「凛」という構図そのものだ。

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