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2008年3月30日 (日)

「鍵の言葉」

 3/29() 受験対策講座を受講した帰りに鶴橋の実家に寄った。近鉄鶴橋駅東口をでて魚の匂いが染み付いた鶴橋卸売市場内の雑然とした路地を抜けて千日前通りに出た。疎開道路を渡り瀧本印刷の前を右折しすぐ次の道を左折して、いつもの路地に入った。その路地に入った時、いつものように感情が高ぶった。人から見れば何の変哲もない狭く汚い通路である。しかし、私にとって「その路地」は、私自身の存在を解く「鍵の言葉」だ。

 母は酸素チュ-ブをつけて生活している。その母の面倒を見ている私の妹も二度にわたる目の手術を受け退院してきていた。妹の目の容態も芳しくないようだった。珍しく、「兄ちゃん、花見に行こう!」と誘われた。なぜそのようなことを妹が言い出したのか詮索はしなかった。次の土曜日に母・妹・弟と私で大阪城公園へ花見に行くことが決まった。かつて、この季節になると手弁当を持って路地の人々といっしょに花見に毎年のように出かけた。当日は介護タクシ―を手配する。わが実家近くの店でささやか手弁当を購入する。「花見」は、何かを表している「鍵の言葉」かもしれない。

 わが実家の隣組には、私が幼かった頃におばさんだった人々が、今は90歳近くになった「おばあちゃん」として元気に一人暮らしをしている方々が4人いる。「息子も娘も余り帰ってこない。子どもをあてにせずに、一人で生きていかなあかん!」と私の妹に力強く言ったようだ、それぞれの一人暮らしのかつての「おばちゃん」同士が、もしもの時を考えて自宅の家の鍵を預けあっている。私たちは自宅の鍵を誰かに預けよう、預けたままにできるのだろうか?かつてのおばちゃんたちは実際にそうしている。「信頼」は人が生きていく上、生活していく上で必要不可欠だ。ほんとうの「鍵の話」は、人間が、生きていくこと、生活していくことの本当に意味での「鍵の言葉」だ。 

 私は、いつも実家の前の「路地」に入ると得も言われぬ感情が高ぶる。私は今、居住している場所に毎日戻ってくるが、そのような感情の高ぶりはない。大成通の「路地」から離れた場所で確かに生きてはいるのだが、私はその街の匂いを終世思い続ける。あの路地に「高尚な文化」は存在しないかもしれない。しかし、そこにはまぎれもなく「庶民の文化」が存在し続けていると、今もなお「大成第三町会第三班」の一員であると身勝手にも思い込んでいる者として書き記しておきたい。

     個人で訳もなくブログを開設し継続している。「検索ワ-ド」でヒットして見ていただいている方の中で、「大成通」「大成小学校」「玉津中学校」「猪飼野」「疎開道路」「御幸森神社」等々というワ-ドで検索された方々がいらっしゃる。おそらくそのワ-ドに想いがある方々なのだろうと思う。拙文ではあるがその町に生まれ育った者としての「想い」であると受けとめていただければ幸いです。

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