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2007年12月30日 (日)

東京散歩2007.12 (7)

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【国立霞ケ丘競技場】

 12/15(土)、「国立競技場」を訪れた。正式名は「国立霞ケ丘競技場」だ。スポ-ツ博物館の受付の女性が、「今日は競技場の見学日です。ラッキ-ですね」と声を掛けていただいた。電光掲示板下が見学席となっていた。見学者は私以外に1人いるだけだった。静けさが漂っていた。この地で何十年も前の「学徒出陣」、1964年の「東京オリンピック」の入場行進、「高校サッカ―」の開会式が三つ巴で脳裏を渦巻いた。観衆がいないスタンドを眺めながら荘厳な感覚が私を襲った。まるで、寺院、神社を訪れた時のような感覚に似ている。ここはやはり「聖地」なのだ。

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「国立霞ヶ丘競技場」公式サイト

2007年12月29日 (土)

東京散歩2007.12 (6)

~「日本青年館」~

Img 12/15(土)「国立競技場」に隣接する「日本青年館」に立ち寄った。外見は普通の公共宿泊施設であるが、そこは大正時代の気概ある青年たちの歴史が刻まれた地である。大正時代、「明治神宮」造営に際して、経済的状況で予算が切迫していた中で、全国各地の青年団が自ら立ち上がり上京し、労力奉仕で明治神宮造営に協力した。

 その青年団の若者たちから自らの拠点「日本青年館」を建設しようと発案が生じた。全国の青年団は1人1円寄付を募り、時の政府・財界の協力を排して建設費を集めた。19249月大正13年)、旧「日本青年館」(地上4階地下1階)が完成した。

 Img_0001_2       半世紀を経た1974年(昭和54年)に現在の新館が建築されたが、旧館の建物を青年たちの自力で作り上げたということは、大正時代の青年たちの気骨・気概・行動力の象徴として今も語り継ぐべきものである。

「日本青年館」公式サイト

2007年12月24日 (月)

東京散歩2007.12 (5)

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~「出陣学徒壮行の地」~

12/15(土)国立競技場へ立ち寄った。千駄ヶ谷門(通称:マラソン門)から入った。「碑」が目に飛び込んできた。何の「碑」なのかを確かめようと近づいた。「その碑」は「出陣学徒壮行の地」の碑だった。「学徒出陣」という言葉と内容は知識として持ってはいたし、その場所が「神宮外苑」であることも知っていた。しかし、「国立競技場」がその地であると私自身の頭の中で結びついていなかった。私は無知だった。

「学徒出陣」とは太平洋戦争末期、学生は兵役を免除されていたが、兵力不足を補うため学生にも兵役を科し入隊、戦地に赴くことを国家が決定したものである。1943.10.21「学徒壮行の会」を「明治神宮外苑競技場」(現在の国立競技場の前身)で、学徒25,000人、観衆50.000人が集まる中で挙行された。Photo_2

 高校サッカ-で「国立をめざせ!」と言う合言葉がある。それは、サッカ-に取り組む高校生の夢とか希望とかの象徴としての意味と、高校サッカ-選手権大会で勝ち上がりベスト4になれば「国立競技場」のピッチに立つことができると言う意味があるのだろう。そのことに加えて、私たちは60年以上前に、自ら望み勇ましく、または、やむなく学業を放棄して戦地に出陣していった若者たちの歴史が刻まれた地であるということを伝えておかなければならない。

「・・・時流れて半世紀。今、学徒出陣五十周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである」という「出陣学徒壮行の地」の碑文を私は心に刻んだ。

「学徒出陣56年目の証言」Webサイト

2007年12月22日 (土)

東京散歩2007.12 (4)

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~秩父宮記念スポ-ツ博物館~

 12/15(土)、地下鉄大江戸線「大門駅」から乗車して、「国立競技場前」で下車した。お茶の水駅近くにある「日本サッカ-ミュ-ジアム」には3度ばかり訪れたが、国立競技場内にある「秩父宮スポ-ツ博物館」に一度は訪れたいと思っていた。「今日は、競技場を見学できますよ。見学日です」と受付の女性がチケットを渡すなり私に声を掛けた。その日はよき日だ。自分自身で勝手に思い込んだ。

 館内を見て回った。そこには日本のスポ-ツの発祥から現在に至るまでの歴史が刻まれた品々が存在していた。何気なく今サッカ-に取り組んでいる。当たり前のことではあるが、そのことは日本のスポ-ツの歴史の先人の積み重ねの上にあるに過ぎない。54歳の今の私が見るよりは、これからのスポ-ツを背負おうとする若者たち、子どもたちの視野にとらえて欲しいものかもしれない。スポ-ツは文化、文化は歴史の積み重ねなのだから。残念ながら、奈良から東京はあまりにも遠すぎる。

「秩父宮記念スポ-ツ博物館」公式サイト

Photo_2 「第1回明治神宮競技大会優勝者」(大正13年)の種目と選手名を記載した鋼板

2007年12月21日 (金)

東京散歩2007.12 (3)

Photo 「ます家」パンフレットより

 12/15(土)午後、増上寺から地下鉄大江戸線「大門駅」へ向かう途中、夜は立ち飲み処となるような雰囲気の「ます家」で遅い昼食をとった。夜であればよかったのにと内心は悔やんでいた。今は真昼間だが、ビ-ルでも飲みたいと思いながらも、まだこれから歩かなければならないと自分に言い聞かせ、から揚げ定食だけを注文して食べた。食事はおいしかったが、やっぱりビ-ルが・・・・と自分勝手な不完全燃焼状態でその店を出て地下鉄に乗った。

 

2007年12月20日 (木)

東京散歩2007.12 (2)

Photo_3 増上寺本堂と東京タワ-

 12/15(土)、東京タワ-に隣接する増上寺へ寄った。正式名は「浄土宗大本山 芝 増上寺」だ。徳川家の菩提寺として有名で、江戸城拡張とともに大造営が開始され日本有数の寺院として知られるようになった。本堂は昭和の戦災により消失したが、昭和49年に復興、建立された。悠久の歴史が漂う寺院である。本殿裏の木々に囲まれた静かな場所に「徳川将軍家墓所」があった。境内から望む本堂と東京タワ-はまた味わい深いものがある。

東京散歩2007.12 (1)

Photo_2 増上寺本堂からの東京タワ-

~東京タワ-~
 12/15(土)、中学校の修学旅行で訪れて以来、40年ぶりに東京タワ-に上った。まずは820円で大展望台(150m)へ。ここまで来たのだからと追加600円で特別展望台(250m)へと思ったが、長蛇の列ができていて特別展望台へはかなりの時間待ちがあるとのアナウンスを聞いて上ることを断念した。大展望台にある「ルックダウンウインドウ」から下を覗き込んだ。修学旅行で訪れた時も確か同じような行動をした記憶がある。東京タワ-はただの電波塔ではあるが、それ以上の象徴的なモニュメントとして存在している。

「東京タワ-」Webサイト

2007年11月25日 (日)

「薩摩・郷中教育」(1)

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2001年(平成13年)83日に熊本から人吉を経て、鹿児島に立ち寄った。夕刻閉館まじかの旧鹿児島(鶴丸)城本丸跡にある鹿児島県歴史資料センタ-「黎明館」に入館した。閉館時間が近づきある中、ある展示場所で立ち止った。「郷中教育」に関しての展示であった。私は「郷中教育」(ごじゅうきょういく)という言葉をその時初めて知った。内容なども知る由もなかった。ただ興味が湧いた。だが閉館時間が来たので、詳細を見ることもできず、やむなく不完全燃焼のまま館外に出た。

「郷中教育」というものが頭から離れなかった。「異年齢」・「地域」・「教育」というキ-ワ-ドが脳裏にこびり付いていた。翌朝、再び開館と同時に「黎明館」に入り、「郷中教育」の展示の前に行き、今一度ゆっくりと展示物を眺めノ-トにメモをとった。

その館内で知った鍛冶屋町にある「維新ふるさと館」へ向かった。鍛冶屋町という狭いエリアからは、西郷隆盛・従道、大久保利通、東郷平八郎、村田新八、大山巌、山本権兵衛等の人材を輩出した。なぜ、小さな狭い地域から、それほどまにで明治維新樹の偉人を輩出できたのだろう?という素朴な疑問が湧いた。

「薩摩・郷中教育」(2)

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「郷中教育」とは、薩摩藩独特の教育であった。45町(約440550メ-トル)四方の「方眼」(ほうぎり)と呼ばれるエリアを基盤とする。概ね4080戸中で居住する青少年を教育する仕組みであった。青少年を4つのグル-プに分ける。「小稚児」(こちご 610歳)、「長稚児」(おせちご 1115歳)、「二才」(にせ 1525歳)、「長老」(おせんし 妻帯した先輩)。そのグル-プごとに「頭」(かしら)を選び、その者が郷中の生活の一切と監督の責任を負った。それは子どもたちの自治区であった。

「小稚児」の子どもたちは、早朝、毎日先輩の家へ行き本読みを習い、午前中はその復習をしたのち広場や神社の境内などに集まり、相撲、旗とりなどの山坂達者(今で言えば体育・スポ-ツ)によって身体を鍛えた。午後は、読み書きの復習をした後、先輩や先生の家にいって夕方まで、剣、弓、馬術など、武芸の稽古をした。 「長稚児」たちは、夕刻に「二才」たちが集まっている家に行って、「郷中の掟」を復唱し、先輩たちに教えを受けた。薩摩藩の子どもたちは、一日のほとんどを同年代・年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、武芸を身につけ、勉学に励んだ。

「薩摩・郷中教育」(3)

【郷中の掟】
武士道の義を実践せよ  ●心身を鍛錬せよ  ●嘘を言うな ●負けるな  ●弱いものいじめをするな  ●質実剛健たれ

「武士道」という言葉に違和感を持つ人がいるも知れない。現代の時代から見て、「武士道」を「人の道」と置き換えてみる。「人の道の義を実践せよ」となる。「義」とは、「広辞苑」によると「人間の行うべきすじみち」という意味がある。その言葉は今も通じる。つづく「心身を鍛錬せよ」「嘘を言うな」「負けるな」「弱いものをいじめるな」「質実剛健たれ」など、当たり前の常識的な事柄だ。そのことを日常生活の中で、子どもたちを育もうとする教育の仕組みがそこに存在した。

大人たちはあくまでもアドバイザ-・サポ-タ-として存在する。その中で子どもたちは切磋琢磨しながら自分自身の人間性を磨いた。 「学校」という存在は近代の産物である。それ以前、教育は、今でいう「地域」が多くの部分を受け持っていた。今、そのような仕組みはあるのか? 

※ 鹿児島・「維新ふるさと館」を訪ねた時、当時の教育水準の高さを誇った薩摩藩の「郷中教育」と並び称されるものに、「白虎隊」で有名な会津藩の「什」があることを知った。

2007年10月28日 (日)

東京散歩2007.10 (10)

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【楠木正成像】

 10/20(土)の夕刻に皇居外苑南東の一角、二重橋近くにある「楠木正成像」に立ち寄った。幾度となく東京へはやってきたが、その銅像の存在は知っていたにもかかわらず立ち寄ることがなかった。銅像を仰ぎ見た時、威風堂々としたしたその姿に魅了された。

 別子銅山を開山した住友家が東京美術学校(現東京藝術大学)へ依頼し、高村光雲(詩人高村光太郎の父)を筆頭にした東京美術学校在籍の芸術家等の総力を挙げて作り上げ、明治37年皇室に献納されたものである。東京にある銅像では、上野公園にある西郷隆盛像と並び称されている。

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 楠木正成は南朝・後醍醐天皇の忠臣である。足利尊氏との和睦を後醍醐天皇に進言するも認められず、尊氏討伐を命ぜられ、1336年、湊川の戦い(兵庫県・神戸市)に敗れ討死した。

 敗れることを知りながらも、後醍醐天皇の命に従い戦いに赴く姿が、「忠臣」というイメ-ジを想起させたようだ。湊川の戦いの直前に、正成・正行、父子の今生の別れである「桜井の別れ」は、戦前・戦中の修身の教科書に必ず載っていたという。「自分は生きて帰らないつもりで戦いに向かうので、お前は故郷に帰って朝廷に忠誠を誓え。」と諭した。

Photo_3  幼かった頃に、私は祖母から楠木正成・正行の父と子の話をよく聞かされた。祖母は私の正面に座り、お茶を飲みながら私によく語りかけた。私は昭和28年生まれなので、小学校・中学校の教科書には「桜井の別れ」は載ってはいない。私は祖母からの話でその逸話を知った。ほかの誰からも伝えられたことがない。同年代の者が、その逸話を知っているのかどうか知る由もない。

Photo_4  この銅像のことは以前から知っていた。東京へ行くことになった時に、祖母の言葉を覚えていたので一度は寄りたいなあと漠然と思っていた。東京藝術大学大学美術館で「楠木正成像」の製作過程を見た時、この銅像を見なければならないという確信に変わった。

 楠木正成のことを書くと、誤解が生じることもありうる。「忠君愛国」とか「修身」とかを想起され、政治思想的に見て危険であると曲解される可能性があるかもしれない。残念ながら私は54年生きてきて、はっきりと言えるのは政治思想的には「無頓着派」である。

 言葉は人を呪縛する。私は祖母から幼いときに聞いた楠木正成・正行の「桜井の別れ」を今も鮮明に覚えている。いつも、その話の折には、蓄音機でレコ-ドがかかっていた。「桜井の別れ」である。いつも涙ながらにその情景を祖母は私に語った。

 45年の時を経て、今、私は想う。尋常小学校中退しか学歴のない祖母は、自分自身の知りえた知識の中で精一杯の力を込めて私に何かを伝えようとしたのだと。

「桜井の別れ」の曲

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 日常を離れると、日々忘れ去っていたことがレリ-フのように浮かび上がってくる。毎日、毎日、泳げ鯛焼き君状態にだけはなりたくないといつも思っている。東京散歩も楽しい日々であった。(完)

2007年10月27日 (土)

東京散歩2007.10 (9)

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(写真をクリックすれば大きくなります。)

【あゝ上野駅】

 上野駅・広小路口にある「あゝ上野駅」の碑に立ち寄った。キ-ワ-ドは「集団就職」だった。日本の高度成長期に、労働力不足を補うため政策的に「地方」から「都市」への大規模な「就職活動」が展開された。当時の国鉄は「集団就職列車」を臨時列車として、「金の卵」ともてはやし中学校・高校新卒者を乗せて送り出した。「集団就職列車」は1954年(昭和29年)に始まり、1970年(昭和50年)まで続いた。東北から東京へと「集団就職」でやってきた男女入り混じった人々の多くが最初に降りる駅が「上野駅」だった。

 「どこかに故郷の 香りをのせて 入る列車の なつかしさ 上野は俺らの 心の駅だ くじけちゃならない 人生が あの日ここから 始まった」 (作詞:関口義明/[あゝ上野駅」1番)

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 日本経済は太平洋戦争後、特に高度経済成長期にめまぐるしく発展した。日本経済は大企業と中小・零細企業の共存と言う二重構造で推移し、その経済の基盤を形成してきた。今、精神的な豊かさは別として、物質的な豊かさを享受できている現実がある。その礎を支えたのは、大企業ではなく中小・零細企業であり、その中で働いてきた人々であった。特に高度成長期前後において「金の卵」ともてはやされながらも安価な賃金、劣悪な環境にもめげず働き続けてきた「地方」から「都市」へとやってきた彼らの多大なる功績である。

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 私が小学生低学年だった頃(1960年・昭和35年頃)、大阪・鶴橋に住んでいた。近所の鉄工所のおじさんが毎年春になると、のぼりと旗を持って鶴橋駅に出かけていた。幾度かおじさんと近所の子どもたちといっしょに小旗を持って九州地方から「集団就職」でその場末の町の小さな鉄工所へやってくる「お兄ちゃんたち」を鶴橋駅へ出迎えに行った。不安げに鶴橋駅中央改札口への階段を下りてくる「お兄ちゃんたち」の姿が、私の網膜の底に焼きついている。「あゝ上野駅」の碑の前に立ち、今は60歳を過ぎているのだろうか。その当時の「お兄ちゃんたち」のことが思い浮かんだ。 

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東京散歩2007.10 (8)

【岡倉天心展】

自慢じゃないが、私は芸術を理解できるほどの才覚を持たないし、芸術とは無縁の世界で日常を過ごしている。ふと、あることが脳裏に浮かび、東京藝術大学大学美術館で開催されていた「岡倉天心展」に立ち寄った。教科書的に言えば、岡倉天心は美術教育者・美術史家と名高く、東京美術学校(現東京藝術大学)の創設に尽力した人物で、日本美術史の中で渾然と輝く存在である。ただ、私が「岡倉天心展」に足を運んだのは、かつて、ある新聞で掲載された岡倉天心についての記事が記憶としてあり印象深かったからだ。

 岡倉天心は晩年2度インドへ旅行をした。1912年、カルカッタで詩人ブリヤンバンダ・デ-ヴィ-夫人と知り合い10ケ月にわたる往復書簡を交わした。彼は1913年、51歳で逝去した。その手紙の一文を新聞記事で読み魅了された。草創期の日本美術界に功を成し遂げながらも、望み未だかなえられないという渇望を抱いている晩年の中で、その往復書簡はなされた。 「恋の手紙」なのか、「愛の手紙」なのか、「魂の手紙」なのか。その一文を呼んで確かにその時、50歳の風貌とは正反対の「清らかさ」を感じた。

 東京藝術大学敷地は上野公園に隣接している。歴史と文化を感じさせる雰囲気が漂っている。岡倉天心を想い美術館内を鑑賞して回った。館内は老若男女を問わず、それぞれの想いを抱きながら時を過ごしていた。この時間の流れとは一体何なのだろうと、いつも、私は思う。

「東京藝術大学」Webサイト

東京散歩2007.10 (7)

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「おじゃるず」

10/20()昼頃に、上野公園内の大通りを国立博物館の方へ向かって歩いていた。桜並木の通りの両側には等間隔でバンチがあり、さまざな人々がベンチに座り、各々の思いを抱きながら憩いを取っている。噴水前にさしかかった時、奇妙な服装をした二人が私の視野の行く手に現れた。大道芸人だった。傍らに立てかけてある小さな板には「おじゃるず」と書かれていた。立ち止まり路上に座ってその二人の大道芸を眺めていた。噴水前の広場は多くの人手でにぎわっていた。大道芸の背景には噴水が見え、遠くには国立博物館の建物が遠望できる。パフォ-マンスのロケ-ションとしては最高の場所であった。ただ偶然にその場所ではと言うのではなく、恐らく意図してその場所を選択したのだろう。

自己を表現する仕方にはスポ-ツ・文化でのさまざまな形態がある。大道芸もまた表現の一形態である。眺めていると不思議な感覚に襲われた。私たちは、演じている彼らを眺めている。反対に彼らは、演じていないかのような私たちを眺めている。彼らと私たちが。本当は表現という同じ舞台に立っているのだ。「あなたには自己を表現しようとする意思がありますか?」と、彼らの鋭い無言の声が聞こえた。

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【国立博物館】

「おじゃるず」Webサイト

2007年10月25日 (木)

東京散歩2007.10 (6)

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【妻恋神社】

 湯島聖堂から本郷通りを横切り、蔵前橋通りの清水坂下交差点を渡って50メ-トルほど歩き右に折れると「妻恋神社」があった。昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征した折に、三浦半島から房総への途中で大暴風雨にあい、日本武尊の妃である弟橘姫(オトタチバナヒメ)が海に身を投じて海神の怒りを鎮めたという。

 途中湯島の地に滞在したので、その地に住む人々が日本武尊の妃を慕う気持ちを想い、二人を祀ったのが「妻恋神社」のはじまりと伝えられている。境内の一角にのちに「稲荷」が合祀され、江戸時代には「妻恋稲荷」の名で有名となり「王子稲荷」と並んで参詣者を集めたようだ。

 湯島と言えば泉鏡花の「婦系図」の舞台だった。テレビ・芝居・映画にもなった。早瀬主悦とお蔦の悲劇である。明治の時代、尾崎紅葉「金色夜叉」、徳富蘆花「不如帰」、泉鏡花「婦系図」が三大通俗小説だった。 「切れるの別れるのって、そんな事は芸者の時に言うものよ。・・・私にゃ死ねと言って下さい」というお蔦の有名な言葉だ。

 「妻恋神社」は湯島のラブホテル街にひっそりとある。今も男と女が、主悦とお蔦のような愛恋の混沌とした情念を抱いて、その町の中にひっそりと密かに時をすごしているかのような雰囲気だ。男と女の業を想いながら、緩やかな「妻恋坂」を下った。

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2007年10月23日 (火)

東京散歩2007.10 (5)

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【湯島聖堂】

 10/20(土)、ニコライ堂からお茶ノ水駅を経て聖橋をわたり「湯島聖堂」に立ち寄った。その地には、かつて徳川時代に幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」があった。各藩の優秀な人材がこの地で学んだ。鬱蒼とした木立に囲まれ、「聖堂」という名にふさわしい趣がある。街中にいるとは思えないほどの静寂が漂っている。「孔子像」の前に立つと、かつてこの聖地に希望を抱きながら学んだ者たちの言霊が聞こえてくるようだった。

「史跡湯島聖堂」Webサイト

2007年10月21日 (日)

東京散歩2007.10 (4)

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【ニコライ堂】

 10/20(土)朝、「お茶の水駅」近くにある通称「ニコライ堂」に立ち寄った。正式名は「東京復活大聖堂」である。日本最大のビザンチン建築を仰ぎ見た時、荘厳な気持ちになった。はじめて「ニコライ堂」を訪れたのは、大学受験で東京にやってきた時だった。試験が終わった日にその町を歩いた。偶然その建物に遭遇した。すごい!とその時に思った。それが「ニコライ堂」だった。

 東京に出かけた折には、必ずといっていいほどその建築を見る。少しの時間であったとしても。何年か前の正月に、妻と娘と一緒に偶然に教会内でのミサを垣間見たことがあった。宗教心のない私でさえその原初的な宗教儀式に魅了された。

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「日本正教会」Webサイト

「御茶ノ水の泉通信」Webサイト

東京散歩2007.10 (3)

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【ミロンガ ヌォ-バ】

 東京・神保町の「書泉グランデ」の裏、路地の片隅にある「ミロンガ ヌォ-バ」へ出かけた。扉を開くとタンゴが流れていた。大きなテ-ブルの片隅に座った。黒ビ-ルが飲みたかったので「ギネス」を注文した。「ビ-ルは小瓶で・・・」というある詩人の言葉を思い出した。確かにビ-ルは小瓶の方がいい。確かにいい。でも日常に帰ればそのことを忘れ去ってしまう。オ-ルドファションである。ファン・カナロのレコ-ドが掛かっていた。曲は「ラ・クンパルシ-タ」だった。心地よい気分に酔いしれた。この店に今まで何度やってきたのだろう。

 店には入れ替わり立ち代り老若問わず客が入ってくる。意外にも若い女性が一人でタンゴを聴いている。その姿は美しく魅力的だ。壮年の男性が私の席近くに座った。「デカンタ!」と注文した。私はそのものが何なのか理解できなかった。メニューを見てみた。それがワインのグラスではなく量が多く入った「でかいやつ」だと理解した。「デカンタ!」。「ギネス」を飲み終えたので、ちょっとその男性の真似をして、「ワインをグラスで、赤を」とちょっと背伸びをして赤のワインを頼んだ。その店でワインを飲んだことはなかった。口に含んだ時、「アルゼンチンの香り」がしたような気がした。

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東京散歩2007.10 (2)

「表参道・新潟館 ネスパス」
 10/19(金)17:15に講習会が終わり、原宿駅への坂道を登り、駅前から表参道を青山通りのほうへ歩いた。表参道はきらびやかな洗練された通りであった。行きかう人々も洒落ていた。「お前など歩くと所ではない」そんな気がして早足で歩き去った。東京メトロ「表参道駅」近くにある「表参道・新潟館 ネスパス」に何年ぶりかで立ち寄った。

 私の亡父は新潟県の小さな村で生まれ育った。私はその末裔である。生前、父は私に言っていた。新潟県は「裏日本」 「豪雪地帯」 「誇れるものはない」と。それは暗く否定的な言葉の響きだった。父に言ったことがあった。「東京のにぎやかな場所に、新潟県の観光事務所みたいなものができたらしいで」 そのとき詳しいことは知らなかったが、その言葉を私が語りかけた時、父は少しうれしそうな顔をした。

 「表参道・新潟館 ネスパス」へ。「裏日本の県」である父の故郷・新潟県が、「環日本海の中核県」として東京の「表」参道に打って出たその地へ。その日、近くまで来たのだろうから寄らなければならないという奇妙な義務感に誘われ訪れた。

 18:00頃、館内はにぎわっていた。「食」を中心とする新潟県の各種物産が並べられたフロア-には買い物客が大勢いた。もう少し殺風景な風景を思い描いていたが意外であった。でも、嬉しかった! 大阪府生まれの今は奈良県に住んでいる一介の壮年男が、この「嬉しい」と思う気持ちとは何なのだろうか?

「表参道・新潟館 ネスパス」Webサイト

東京散歩2007.10 (1)

【新宿の朝】
10/19(金)7:30に新宿高速バスタ-ミナルに着いた。本来ならば、奈良から名阪国道で名古屋に出て東名高速道路を走るのが通常のコ-スなのだが、当日は交通規制で中央道周りで新宿へ向かったため大幅に到着時間が遅れた。

 新宿の朝は通勤客で混雑していた。人々は急ぎ足で大きな川の流れのように一定方向へ歩いていた。私はといえば、その流れに逆らうかのように、以前に朝食をとったある食堂に向かっていた。だがその食堂はなくなっていた。喪失感が漂った。やむなく、売店で「東京新聞」を買い、最寄の喫茶店に入りモ-ニングセットを頼んだ。平日に、通勤客を窓越しに見ながら、わが日常の姿が思い浮かんだ。ちょっぴりと罪悪感を抱きながらも、「東京」で「東京新聞」という地方新聞を読みコ-ヒ-を飲んでいることに安らいだ時間を感じた。

【岸記念体育館】
 JR山手線・原宿駅で降りて、明治神宮前の歩道橋を渡った。線路沿いに渋谷駅に向かう坂道を下った。「岸記念体育会館」が見えてきた。日本スポ-ツの各種団体の事務所がその中にある。そこは日本スポ-ツの本丸である。何度ここを訪れたのだろう? 今日、またここへ来た! なぜなのか? 何のために? 誰のために? 自問自答しながら講習会場の中に入った。

【老若男女の情熱】
 講習会は老若男女30名あまりが参加していた。「公認クラブマネジャ-講習会」という看板・名目をはずせば、第三者から見れば、いったい何の集まりかと不思議に思わせるほどに風体・年齢の交じり合いの奇妙な光景である。たとえば「スポ-ツ指導者」関係の集まりであれば、その風体から第三者におおよその見当はつく。共通項をまず視野で捉えることができる。でも、この集まりは、視野でその共通項を捉えることができないのではないかと思うほど幅広い人々が集まっていた。だからこそ面白い。「スポ-ツ指導者」ではなく「スポ-ツマネジャ-」として地域スポ-ツに関わろうとする人たちがやはりいた。「スポ-ツ指導者」とは違った「マネジャ-」としてのその人々の熱意と情熱に驚かされた。

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