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2007年12月30日 (日)

東京散歩2007.12 (7)

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【国立霞ケ丘競技場】

 12/15(土)、「国立競技場」を訪れた。正式名は「国立霞ケ丘競技場」だ。スポ-ツ博物館の受付の女性が、「今日は競技場の見学日です。ラッキ-ですね」と声を掛けていただいた。電光掲示板下が見学席となっていた。見学者は私以外に1人いるだけだった。静けさが漂っていた。この地で何十年も前の「学徒出陣」、1964年の「東京オリンピック」の入場行進、「高校サッカ―」の開会式が三つ巴で脳裏を渦巻いた。観衆がいないスタンドを眺めながら荘厳な感覚が私を襲った。まるで、寺院、神社を訪れた時のような感覚に似ている。ここはやはり「聖地」なのだ。

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「国立霞ヶ丘競技場」公式サイト

2007年12月29日 (土)

東京散歩2007.12 (6)

~「日本青年館」~

Img 12/15(土)「国立競技場」に隣接する「日本青年館」に立ち寄った。外見は普通の公共宿泊施設であるが、そこは大正時代の気概ある青年たちの歴史が刻まれた地である。大正時代、「明治神宮」造営に際して、経済的状況で予算が切迫していた中で、全国各地の青年団が自ら立ち上がり上京し、労力奉仕で明治神宮造営に協力した。

 その青年団の若者たちから自らの拠点「日本青年館」を建設しようと発案が生じた。全国の青年団は1人1円寄付を募り、時の政府・財界の協力を排して建設費を集めた。19249月大正13年)、旧「日本青年館」(地上4階地下1階)が完成した。

 Img_0001_2       半世紀を経た1974年(昭和54年)に現在の新館が建築されたが、旧館の建物を青年たちの自力で作り上げたということは、大正時代の青年たちの気骨・気概・行動力の象徴として今も語り継ぐべきものである。

「日本青年館」公式サイト

2007年12月24日 (月)

東京散歩2007.12 (5)

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~「出陣学徒壮行の地」~

12/15(土)国立競技場へ立ち寄った。千駄ヶ谷門(通称:マラソン門)から入った。「碑」が目に飛び込んできた。何の「碑」なのかを確かめようと近づいた。「その碑」は「出陣学徒壮行の地」の碑だった。「学徒出陣」という言葉と内容は知識として持ってはいたし、その場所が「神宮外苑」であることも知っていた。しかし、「国立競技場」がその地であると私自身の頭の中で結びついていなかった。私は無知だった。

「学徒出陣」とは太平洋戦争末期、学生は兵役を免除されていたが、兵力不足を補うため学生にも兵役を科し入隊、戦地に赴くことを国家が決定したものである。1943.10.21「学徒壮行の会」を「明治神宮外苑競技場」(現在の国立競技場の前身)で、学徒25,000人、観衆50.000人が集まる中で挙行された。Photo_2

 高校サッカ-で「国立をめざせ!」と言う合言葉がある。それは、サッカ-に取り組む高校生の夢とか希望とかの象徴としての意味と、高校サッカ-選手権大会で勝ち上がりベスト4になれば「国立競技場」のピッチに立つことができると言う意味があるのだろう。そのことに加えて、私たちは60年以上前に、自ら望み勇ましく、または、やむなく学業を放棄して戦地に出陣していった若者たちの歴史が刻まれた地であるということを伝えておかなければならない。

「・・・時流れて半世紀。今、学徒出陣五十周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである」という「出陣学徒壮行の地」の碑文を私は心に刻んだ。

「学徒出陣56年目の証言」Webサイト

2007年12月22日 (土)

東京散歩2007.12 (4)

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~秩父宮記念スポ-ツ博物館~

 12/15(土)、地下鉄大江戸線「大門駅」から乗車して、「国立競技場前」で下車した。お茶の水駅近くにある「日本サッカ-ミュ-ジアム」には3度ばかり訪れたが、国立競技場内にある「秩父宮スポ-ツ博物館」に一度は訪れたいと思っていた。「今日は、競技場を見学できますよ。見学日です」と受付の女性がチケットを渡すなり私に声を掛けた。その日はよき日だ。自分自身で勝手に思い込んだ。

 館内を見て回った。そこには日本のスポ-ツの発祥から現在に至るまでの歴史が刻まれた品々が存在していた。何気なく今サッカ-に取り組んでいる。当たり前のことではあるが、そのことは日本のスポ-ツの歴史の先人の積み重ねの上にあるに過ぎない。54歳の今の私が見るよりは、これからのスポ-ツを背負おうとする若者たち、子どもたちの視野にとらえて欲しいものかもしれない。スポ-ツは文化、文化は歴史の積み重ねなのだから。残念ながら、奈良から東京はあまりにも遠すぎる。

「秩父宮記念スポ-ツ博物館」公式サイト

Photo_2 「第1回明治神宮競技大会優勝者」(大正13年)の種目と選手名を記載した鋼板

2007年12月21日 (金)

東京散歩2007.12 (3)

Photo 「ます家」パンフレットより

 12/15(土)午後、増上寺から地下鉄大江戸線「大門駅」へ向かう途中、夜は立ち飲み処となるような雰囲気の「ます家」で遅い昼食をとった。夜であればよかったのにと内心は悔やんでいた。今は真昼間だが、ビ-ルでも飲みたいと思いながらも、まだこれから歩かなければならないと自分に言い聞かせ、から揚げ定食だけを注文して食べた。食事はおいしかったが、やっぱりビ-ルが・・・・と自分勝手な不完全燃焼状態でその店を出て地下鉄に乗った。

 

2007年12月20日 (木)

東京散歩2007.12 (2)

Photo_3 増上寺本堂と東京タワ-

 12/15(土)、東京タワ-に隣接する増上寺へ寄った。正式名は「浄土宗大本山 芝 増上寺」だ。徳川家の菩提寺として有名で、江戸城拡張とともに大造営が開始され日本有数の寺院として知られるようになった。本堂は昭和の戦災により消失したが、昭和49年に復興、建立された。悠久の歴史が漂う寺院である。本殿裏の木々に囲まれた静かな場所に「徳川将軍家墓所」があった。境内から望む本堂と東京タワ-はまた味わい深いものがある。

東京散歩2007.12 (1)

Photo_2 増上寺本堂からの東京タワ-

~東京タワ-~
 12/15(土)、中学校の修学旅行で訪れて以来、40年ぶりに東京タワ-に上った。まずは820円で大展望台(150m)へ。ここまで来たのだからと追加600円で特別展望台(250m)へと思ったが、長蛇の列ができていて特別展望台へはかなりの時間待ちがあるとのアナウンスを聞いて上ることを断念した。大展望台にある「ルックダウンウインドウ」から下を覗き込んだ。修学旅行で訪れた時も確か同じような行動をした記憶がある。東京タワ-はただの電波塔ではあるが、それ以上の象徴的なモニュメントとして存在している。

「東京タワ-」Webサイト

2007年11月25日 (日)

「薩摩・郷中教育」(1)

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2001年(平成13年)83日に熊本から人吉を経て、鹿児島に立ち寄った。夕刻閉館まじかの旧鹿児島(鶴丸)城本丸跡にある鹿児島県歴史資料センタ-「黎明館」に入館した。閉館時間が近づきある中、ある展示場所で立ち止った。「郷中教育」に関しての展示であった。私は「郷中教育」(ごじゅうきょういく)という言葉をその時初めて知った。内容なども知る由もなかった。ただ興味が湧いた。だが閉館時間が来たので、詳細を見ることもできず、やむなく不完全燃焼のまま館外に出た。

「郷中教育」というものが頭から離れなかった。「異年齢」・「地域」・「教育」というキ-ワ-ドが脳裏にこびり付いていた。翌朝、再び開館と同時に「黎明館」に入り、「郷中教育」の展示の前に行き、今一度ゆっくりと展示物を眺めノ-トにメモをとった。

その館内で知った鍛冶屋町にある「維新ふるさと館」へ向かった。鍛冶屋町という狭いエリアからは、西郷隆盛・従道、大久保利通、東郷平八郎、村田新八、大山巌、山本権兵衛等の人材を輩出した。なぜ、小さな狭い地域から、それほどまにで明治維新樹の偉人を輩出できたのだろう?という素朴な疑問が湧いた。

「薩摩・郷中教育」(2)

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「郷中教育」とは、薩摩藩独特の教育であった。45町(約440550メ-トル)四方の「方眼」(ほうぎり)と呼ばれるエリアを基盤とする。概ね4080戸中で居住する青少年を教育する仕組みであった。青少年を4つのグル-プに分ける。「小稚児」(こちご 610歳)、「長稚児」(おせちご 1115歳)、「二才」(にせ 1525歳)、「長老」(おせんし 妻帯した先輩)。そのグル-プごとに「頭」(かしら)を選び、その者が郷中の生活の一切と監督の責任を負った。それは子どもたちの自治区であった。

「小稚児」の子どもたちは、早朝、毎日先輩の家へ行き本読みを習い、午前中はその復習をしたのち広場や神社の境内などに集まり、相撲、旗とりなどの山坂達者(今で言えば体育・スポ-ツ)によって身体を鍛えた。午後は、読み書きの復習をした後、先輩や先生の家にいって夕方まで、剣、弓、馬術など、武芸の稽古をした。 「長稚児」たちは、夕刻に「二才」たちが集まっている家に行って、「郷中の掟」を復唱し、先輩たちに教えを受けた。薩摩藩の子どもたちは、一日のほとんどを同年代・年上の人たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、武芸を身につけ、勉学に励んだ。

「薩摩・郷中教育」(3)

【郷中の掟】
武士道の義を実践せよ  ●心身を鍛錬せよ  ●嘘を言うな ●負けるな  ●弱いものいじめをするな  ●質実剛健たれ

「武士道」という言葉に違和感を持つ人がいるも知れない。現代の時代から見て、「武士道」を「人の道」と置き換えてみる。「人の道の義を実践せよ」となる。「義」とは、「広辞苑」によると「人間の行うべきすじみち」という意味がある。その言葉は今も通じる。つづく「心身を鍛錬せよ」「嘘を言うな」「負けるな」「弱いものをいじめるな」「質実剛健たれ」など、当たり前の常識的な事柄だ。そのことを日常生活の中で、子どもたちを育もうとする教育の仕組みがそこに存在した。

大人たちはあくまでもアドバイザ-・サポ-タ-として存在する。その中で子どもたちは切磋琢磨しながら自分自身の人間性を磨いた。 「学校」という存在は近代の産物である。それ以前、教育は、今でいう「地域」が多くの部分を受け持っていた。今、そのような仕組みはあるのか? 

※ 鹿児島・「維新ふるさと館」を訪ねた時、当時の教育水準の高さを誇った薩摩藩の「郷中教育」と並び称されるものに、「白虎隊」で有名な会津藩の「什」があることを知った。

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