【楠木正成像】
10/20(土)の夕刻に皇居外苑南東の一角、二重橋近くにある「楠木正成像」に立ち寄った。幾度となく東京へはやってきたが、その銅像の存在は知っていたにもかかわらず立ち寄ることがなかった。銅像を仰ぎ見た時、威風堂々としたしたその姿に魅了された。
別子銅山を開山した住友家が東京美術学校(現東京藝術大学)へ依頼し、高村光雲(詩人高村光太郎の父)を筆頭にした東京美術学校在籍の芸術家等の総力を挙げて作り上げ、明治37年皇室に献納されたものである。東京にある銅像では、上野公園にある西郷隆盛像と並び称されている。
楠木正成は南朝・後醍醐天皇の忠臣である。足利尊氏との和睦を後醍醐天皇に進言するも認められず、尊氏討伐を命ぜられ、1336年、湊川の戦い(兵庫県・神戸市)に敗れ討死した。
敗れることを知りながらも、後醍醐天皇の命に従い戦いに赴く姿が、「忠臣」というイメ-ジを想起させたようだ。湊川の戦いの直前に、正成・正行、父子の今生の別れである「桜井の別れ」は、戦前・戦中の修身の教科書に必ず載っていたという。「自分は生きて帰らないつもりで戦いに向かうので、お前は故郷に帰って朝廷に忠誠を誓え。」と諭した。
幼かった頃に、私は祖母から楠木正成・正行の父と子の話をよく聞かされた。祖母は私の正面に座り、お茶を飲みながら私によく語りかけた。私は昭和28年生まれなので、小学校・中学校の教科書には「桜井の別れ」は載ってはいない。私は祖母からの話でその逸話を知った。ほかの誰からも伝えられたことがない。同年代の者が、その逸話を知っているのかどうか知る由もない。
この銅像のことは以前から知っていた。東京へ行くことになった時に、祖母の言葉を覚えていたので一度は寄りたいなあと漠然と思っていた。東京藝術大学大学美術館で「楠木正成像」の製作過程を見た時、この銅像を見なければならないという確信に変わった。
楠木正成のことを書くと、誤解が生じることもありうる。「忠君愛国」とか「修身」とかを想起され、政治思想的に見て危険であると曲解される可能性があるかもしれない。残念ながら私は54年生きてきて、はっきりと言えるのは政治思想的には「無頓着派」である。
言葉は人を呪縛する。私は祖母から幼いときに聞いた楠木正成・正行の「桜井の別れ」を今も鮮明に覚えている。いつも、その話の折には、蓄音機でレコ-ドがかかっていた。「桜井の別れ」である。いつも涙ながらにその情景を祖母は私に語った。
45年の時を経て、今、私は想う。尋常小学校中退しか学歴のない祖母は、自分自身の知りえた知識の中で精一杯の力を込めて私に何かを伝えようとしたのだと。
「桜井の別れ」の曲
日常を離れると、日々忘れ去っていたことがレリ-フのように浮かび上がってくる。毎日、毎日、泳げ鯛焼き君状態にだけはなりたくないといつも思っている。東京散歩も楽しい日々であった。(完)